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唇を真一文字に引き絞り、水を局部にかけるが、それでも熱を発して主張をするそれを情けなさ一杯で見つめる。
「抜く、しかねぇよなぁ……ここまでなっちまったら……」
ほぼ完勃ちのそれは、放っておいたらどうにか出来るラインをとうに越えてしまっていた。
溜息混じりに己の熱に指を絡める。
「……ん……っ」
熱混じりの吐息が零れる。慣れている行為の筈なのに、いつももより感じてしまう。
「……は、ぁ……っ」
手を筒状にして上下に扱くと、快楽が脳に響く。
くんっと喉を晒すとシャワーの水滴を顔面に受けた。
快楽で虚ろになりかける目が、ふと身体を洗う為のタオルが濡れているのを見つける。
(――あ、そうか、ミツル身体洗って……)
そうだ。ここでミツルはシャワーを浴びて、あれで身体を洗って……。
「う……ぁ!」
ぐっと絶頂が近くなって低く呻く。
な、なんで。何で何で何で俺はこんなに興奮してるんだ?
ミツルは男じゃないか。
(――でも、でも、あの白い指で俺を触って欲しい)
指で俺のコレ、触って――違う。
肌と肌を重ねて、熱を分け合って――違うって。
あの唇にむしゃぶりついて――だから、何で。
はっ、はっ、と息が早くなる。先端から漏れる先走りと、水の滑りを借りて、がしゅがしゅと激しく扱いた。
「あ、あ、ミツ……ミツ……ル、ミツル……っ」
抱き締めたい。キスしたい。そして、繋がって、あの綺麗な身体を俺でよご、したい――。
「あ……ぁあ!!」
その瞬間、今までに無い位感じて腰が跳ね上がり、白濁を飛ばした。
――俺、何してんの……。
「あ、羽。忘れてた」
多分借りても良いよね? と、脱衣所にある洗濯機に突っ込んだ制服のシャツの胸ポケットに、エレミヤ先生からもらった烏の羽いれっぱなしにしていた事を思い出した。
流石に洗濯してしまったら、匂いは落ちてしまうような気がする。
いや、おさがりの服をあそこまで臭い臭い言われたから、もしかしたら洗濯しても無事かもしれないけれど、心許なくはなる。
「危なかったー。良かった気付いて」
俺よくポケットに物入れたまま洗濯しちゃうんだよね、と、今回は気付けた自分に拍手を送る。
今まで一緒に洗濯してしまって、泣きそうになった物は数知れない。
「取り合えず、お札洗濯しちゃった時は悲しかったなー……」
そんな悲しい想い出を呟きながら、小さな声で失礼しまーす、と言って脱衣所のドアを開ける。
洗濯機の中からシャツを漁って、黒い羽根を取り出すと脱衣所を出ようとした。その時。
「……は、ぁ……っ」
呻くような声が聞こえた気がして、ふと足を止める。
シャワーの音に紛れていてよくわかんなかったけど……。
そのままちょっと耳を澄ませるが、その後に何も聴こえなかったので空耳かと思ってドアを閉め――。
「う……ぁ!」
やっぱり聴こえた。今度は空耳じゃない。
二夜に何かあったのだろうかと慌てて声を掛けようとして……。
その時の閃きは、神様が『気付け馬鹿、空気読め』と言ってくださったに違いない、と本気で思った。
荒い息、ぬちゃぬちゃという粘着音に、ハッと何をしているか気付く。
『二夜』と呼ぼうとして“に”の形の口のまま硬直した。
(あ、え……っそ、そっか発情、期……っ)
初めて接する他人の自慰であろうその音にカッと頬が熱くなる。
父親もいなかったし、バイト続きで向こうの世界では友人関係が希薄で、そういう男子特有の話も深くはした事が無い。
どう対応すればいいのか分からなくて、取り合えず物音を絶対に立てない様にと心がけてドアを閉めた。
そのまま小走りでリビングのソファーに座ると、膝を抱える。
(う、うわ、ど、どうしよう。俺どんな顔して二夜見れば良いの!)
男子としては当たり前の行為。むしろしてなかったら逆に心配だ。
(こ、ここは何も無かったようにー……)
二夜が来るまで必死で通常の顔を作る練習をする。
お、俺っていつもどんな顔してたっけ? と一人百面相をしていたら、ひたひたと足音が近づいて来た。
(うわわわ! ちょっと待って!)
まだ心の準備が――と思わず目を瞑るとぽすん、という音と共に隣のソファーが沈んだ。
人一人分の重みにしては浅い沈みに顔を向けると。
「ちょ、びっしょびしょ!?」
濡れそぼって一回りか二回り小さく感じる猫が隣で丸まっていた。
「ど、どうしたの二夜――はっ! ソファー!!」
二夜が座っている部分のソファーの布地がみるみる色を変えていく。
予想外の展開に、表情の問題は俺の頭からふっ飛んだ。
慌てて首に掛けていたタオルで二夜を包むとわしゃわしゃ拭く。
「どうしたの本当。風邪ひくよ」
俺の髪を先に拭いた分、既に湿っているから水の吸いが悪い。
新しいタオルを取りにソファーを立つと、ソファーの後ろから点々と足跡型に水溜りが出来ていた。
段々サイズが変わっているのは人間の姿から猫の姿になったからだろう。
駆け足でタオルを何枚か取りに行って、水溜りを拭きながら帰って来る。
無言のままの二夜を乾いたタオルで包んで持ち上げると、もう一枚のタオルで濡れたソファーを拭いた。
(なんかペットの世話してるみたいだ)
何も話してくれないと、普通の猫と接している様に感じる。
(いや、二夜にとってはこれが普通なのか)
何故かその瞬間、酷く寂しくなった。
初めて二夜と合った時に言われた“一人ぼっちで来たから寂しく無いのか”という意味が今更身に染みて来る。
本当に自分のような存在はこの世界では自分だけで、二夜やネクロのような存在の本当の姿はこういった動物なんだと本当に今更感じた。
ニンゲンの姿にだってなる。言葉だって通じる。
楽しいし、皆の事は好きだし、人間関係が希薄になりがちだった向こうの世界よりも充実した関係を作れている気さえする。
それでも言葉に出来ない寂しさを抱いた。
「二夜、ドライヤー使って乾かす? てか、使って大丈夫なのかな……」
犬にドライヤー使ってるのはテレビで見た事あるけど、猫は無いからなぁ……皮膚とか毛とか大丈夫? と無駄に明るい声で話しかける。
――返事をして欲しい。
喋って欲しい。
顔を見せて欲しい。
酷く――今、寂しいから。
皆がいるのに一人ぼっちな気がするから。手も動かして激しくわしゃわしゃと拭く。
余りの無言の長さに、もしかして言葉が喋れなくなってしまったのではないかという嫌な想像まで浮かんできた。
(二夜、二夜、喋って)
「あ……のさ、買い物行く筈だったんだけど、どうなったのかなぁ。行くのかなー……」
返ってくるのは相変わらず沈黙だ。
「に、や。その……返事して欲しいなぁ……なんて」
無言。
「え、えとー……喋ってよー」
やはり無言。
「……に……や……」
手が、止まってしまった。
「……ぁ……」
「……俺さ」
泣く前に感じる喉が引き絞られて閉塞する感覚がして、小さく声が漏れたのと同時に二夜が話し始めた。
「俺、おかしいんだ。俺、ホントは発情期終わってんだよ。終わってんのに、そいつに触られるとすげぇドキドキして、ヤバいんだ。どうしたんだろう。俺、女の子が好きな筈なんだ。ぜってぇそうなのに……なのに何で男の……」
「……ンなのその人が好きだからに決まってんじゃんかぁああ!!」
「にゃっ!?」
がばぁっと二夜を包んだタオルを抱きしめる。
「別に良いんじゃないの!? 男好きでも俺は二夜の事変だとは思わないよ!! ネクロだって皆だって大丈夫だよ……っ」
「そ、そうか……よかっ」
「うわぁあ、てかさっさと喋れよ馬鹿ぁああ!!」
「へ?」
無茶苦茶に抱きしめるから二夜のタオルがずれた。
顔が出たと思ったら二夜の目が丸くなる。
「ミ、ツル!? 泣い……っ!?」
「にっ、二夜が喋ってくんないから、言葉分かんなくなったんじゃないかって、俺すっごい寂しくなって……!」
おんおんと二夜を抱きしめて泣く。
拭かれて生渇きの柔らかい毛に俺の涙が染み込んでいくけど、今は放っておく。後で拭くから許して欲しい。
「返事しろって、喋ってって言ったのに……!」
ぼろろろと涙が零れる。
こんな事で泣くなんて女々しいにも程があると自分でも思う。でも、本当に安心してしまったのだ。
二夜が喋ってくれて。返事をしてくれて。
「ご、ごめんな? よしよし」
前脚を動かして二夜が頭に触った。尻尾も駆使して涙を拭ってくれる。
そうしている内に頭が冷めて来て、それと同時に段々恥ずかしくなってきた。
『二夜の所為で』というのが八つ当たりだという事は重々わかっているけど、恥ずかしさを紛らわせる為に、ぶつぶつそう呟きながら二夜の横っ腹に涙を擦りつけた。
「タオル代わりにすんなっ」と怒られて小さく笑う。
空気が和んで、俺の気持ちもすっかり落ち着いた。落ち着いたけど、あの寂しさの残滓がまだ俺の中でくすぶっていた。
だから思わず、目の前に下ろしてお座りしている二夜の右の前脚を小さく握る。
初めて会った時に『寂しいなら繋いでやっても良い』と繋いでくれた手。
『嫌な思いはもうさせない』と言ってくれた事で、気持ちが楽になっていたのだと気付く。
思い返せば二夜は色々と面倒を見てくれている。
人間の俺なんて胡散臭かっただろうに、信じて、友達になってくれて。
それは二夜が優しいからに相違ない。
「俺さ」
「うん?」
俺にお手したままの二夜に笑顔を向けた。
「二夜なら、その好きな人と付き合えるんじゃないかと思うよ」
どこか二夜の目線が外れた気がするけど、気恥ずかしさ故だろう。
「『保障する』とかは責任感無い感じがあるから言えないけど、二夜なら例えフられても、良い人と一緒になれると思う」
そうなってくれると俺も嬉しい。
……そうやって二夜に大切な人が出来て、幸せになる事は嬉しい。嬉しいけど、その時俺の手は離されるんだろう。
それを思うと自分勝手だけど少し寂しかった。
「そ、うか……ありがと」
苦しげに返答するのは、それだけその人が好きなんだろうと思った。
「でも二夜が好きになる人かぁ……男ってことはこの学内なんだよな……誰だろ」
そう呟いたら二夜が慌てだす。
「いっ、いや、それはその、今は別にいいじゃ……っ」
「ええー、減るもんじゃ無し。ここは男らしくどーんと教えようよ」
その慌て様に楽しくなる。
おろおろと水色の目が泳いで、尻尾も山なりの形のまま忙しなく動く。
「そっ、それよりも! 寂しくなったって、どうしてだよ。俺も皆もいるだろ?」
次は俺が目を泳がせる番だ。
大きな意味でホームシックになりました、だなんて言えるか! ……女々しすぎる。
でも二夜の真面目な水色の瞳にしぶしぶ口を開いた。
「いや……その……何か今更だけど、“人間”って本当に俺だけなんだなぁって思ったら凄い寂しくなって……」
うわぁ、自分で口にしたら女々しさ倍増したよ。
余りの恥ずかしさに二夜から手を離して顔を覆おうとしたら、ぐっと手が引きとめられた。
手に目をやれば人間の手が俺の手を掴んでいる。
え? と目を上げると、二夜が人間の姿になる所だった。
ルエトさんの時と逆なのだけれど、滑らかな変化とそれに伴う神秘的な感覚は変わらない。
思わず見惚れていると、手を繋いだままソファーに押し倒された。
「二夜?」
「……帰りたいのか」
「か、帰りたいって?」
「向こうの世界に」
「か、帰りたいにも帰れないじゃん? だから……」
「帰りたいんだ……」
呆然と二夜が呟いた。
いつも前髪を止めているピンがないから、前髪が全て垂れていて表情が分かりにくい。
「いや、帰りたいんじゃなくって――」
「帰らせない」
「え?」
「何が駄目? どうしたら寂しく無くなる? ずっとニンゲンの姿でいれば寂しくないか?」
必死と言ってもいい声音で喋る。
俺の太腿に、するりと尻尾が巻き付く感覚がした。
「尾や耳が駄目っていうなら、どうにかして隠すから。……尾はなんなら、切り落しても大丈夫、か……?」
「切り落すって何!? 待って、待って二夜。俺は帰りたいって一言も――」
「でも、帰れるなら帰りたいんだろ?」
「え、や……うーん……」
思わず悩んでしまった。
帰りたいのだろうか。今なら、向こうに戻っても……まあ色々と……学校とか、バイトとか……色々と片付けなければいけない問題が待ってはいるけれど、いなかったのは三ヵ月ちょいだ。
社会人でも無いし、世間にはきっと簡単に戻れると思う。
それに、俺の世界には人間がいる。
確かにここの世界では人間と全く同じように喋って、意思疎通が出来る存在がいる。
でも、それはどんなに頑張っても『人間』ではなくて『ニンゲン』に変化しているだけなんだ。
同じ種族がいないという寂しさは、想像するよりも堪える。
「俺、は……」
……でも、こっちの世界でも大切な物が出来始めているのは確かだ。
それは日を追うごとに大きくなっていって、俺の向こうの世界で開いた『家族がいない』という寂しさをどんどん埋めていく。
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