雪隠詰め | ナノ


▼ 勿体ない


「てっめぇ……」
 怒りで赤い瞳を苛烈に輝かせながら、静かにアズが立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待ってア」
「この糞猫がぁ!!」
 味噌汁で濡れた髪を掻き上げ、アズが隣のテーブルの焼き魚を鷲掴んだかと思うと、ネクロの顔に叩きつけた。
「ぶっ、何すんだ匂いがとれねぇだろが!」
「おい、止め、がっ!」
 ネクロが緑の目を煌めかせながら、他の席に置いてあったサンドイッチを掴んで投げる。
 それが二人を止めさせようとして立ち上がった先生の顔にクリーンヒットした。
「……テメェら」
 額に青筋を浮かべて、先生が飲んでいたコーヒーを振り撒く。
「あぁっつ!」
「熱っ、何すんだこの馬鹿教師!!」
「うっせぇどいつもこいつも……!!」
 周りの席に座っていた人達は既に皆、退避している。
 気が利く人は食べていた物も一緒に下げてくれた。
 目の前で皿や食べ物や飲み物が飛び交い、惨状が繰り広げられる。
「た、食べ物で喧嘩はやめうぶっ」
 おろおろとしていた俺にも、とうとう食べ物が投げつけられた。
 べちょりと頭から落ちる物はどうやらパンケーキに似た食べ物のようだ。
 ……怒っていいね? これ怒っても俺悪くないよね?
 俺はクリームを頭から落しながら、思いっきり息を吸って――。
「お前等いい加減にしろぉおおっ!!」
 怒鳴ろうとして、怒鳴れなかった。
「……っは」
 怒鳴り声として吐き出されなかった呼吸が、一瞬胸に詰まってしまった。
 俺だけじゃなくアズもネクロも先生も、怒鳴り声の主を目を丸くして見つめる。
「お前等何歳だ! 食べ物で遊ぶんじゃねぇ!! ろくな教育受けて来なかったのか!」
 目を鋭く尖らせ、尾を怒りでぶわりと膨らませて怒っているのは――二夜だった。
 こんなに怒っているのは初めて見た。物凄く怖い。
「最初に食べ物使った奴も、それに乗った奴も、教師なのに一緒にやった奴もどいつもこいつも馬鹿か!!」
 がみがみと怒鳴る二夜に、三人ともたじろいでいる。
「おまけにミツルまで巻き添えにして……っ!」
 その言葉にハッと三人とも俺を見て真っ青になった。今まで全然気づいて無かったみたいだ。
 二夜が起こってくれたから怒りなんてどっかに行ってしまって、俺は苦笑いを浮かべるだけで留まる。
「ご、ごめんねナトリちゃ――」
「触んなっ!!」
 二夜の怒鳴り声で、俺に伸ばされかけていたネクロの手が止まる。
「俺がミツルを連れて行く。お前等はそこの食器と食べ物全部片してこい!」
 片し終わるまでミツルに触る権利なんて無いと思え!! と吐き捨てると二夜は俺の手を掴んで歩き出した。
 腕を掴まれてずんずんと歩く二夜は未だ怒っているようで、俺から見える横顔は強張っていてとても怖い。
 そうして二夜は自室に辿り着くと、無言で俺を浴室に連れて行った。

「……ふ、あーあ――」
 俺を脱衣所に押し込めた所で二夜が座り込み、顔を覆いながら呻いた。
 何事かと俺も膝をつく。そのまま意味のわからない呻きを上げた後、二夜がぽそりと呟く。
「あー……やっべ、怒鳴っちゃった……」
 顔は見えないけど、指の隙間から見える皮膚が真っ赤だ。良く良く見ると首も真っ赤。耳もへしょりと垂れている。
「……ぶっ」
 思わず吹き出してしまった。
 なんだ、怒っていたんじゃなくって、怒鳴ってしまったことを後悔していたのか。
「わっ、笑うな!!」
 手の平を外して怒る二夜はいつもの二夜だ。
「あんな勿体ない事して、おまけにミツルまで巻き込んで、マジで腹立ったから仕方ないじゃんか……」
 ぶつぶつと目を反らして言い訳する二夜はそりゃもう可愛くて、手を伸ばすとわしゃわしゃと目の前の頭を掻きまわした。
「二夜が怒って無かったら俺が怒ってたよ、ありがとう」
 格好良かったよと笑ったら、二夜が本当に呆けた顔で俺を見る。
(あれ、いつもなら喉を鳴らしたりして気持ち良さそうにしてくれるんだけど、俺どっかに爪でも引っ掛けた?)
 そういえば最近爪を切って無かったかもしれないと慌てて手に目を移す。
「げっ」
 自分の手を見て、俺は蛙が潰されたような声を上げた。
 爪は別に切らなくても大丈夫な長さだったが、手がべっとりと粘着質なもので濡れている。
 その粘着質なものの所為で、二夜の髪が指に絡まってしまっていたのだ。
「何これ!? ……あっ」
 思い当たる節が無い……と思いかけた俺の頭にさっきのぶつけられた食べ物が、パッと浮かぶ。
 大きな塊は当たった拍子に落ちたし、俺も怒りにまかせて叩き落としたから生地はもう残っていないようだけれど、上に掛っていた蜂蜜やクリームが体中に付着しているみたいだ。
 おそるおそる自分の髪に手を伸ばすと、何とも言えない感触が伝わって来た。
「うわぁー……」
 ベタベタするだけではなくヌルヌルもする。
 溜息が出る。そうだよな。だからこそ二夜が浴室に連れて来てくれた訳だし……って。
「ご、ごめん二夜っ」
 こんな手で撫で回してしまったら、食べ物の被害に合わなかったのに、二夜もシャワーを浴びなければいけなくなる。というか、時既に遅しだ。
「ごめんなっ? 俺気づかなくって……!」
 慌てている俺のべっとりとしている手を、二夜がぼんやりと見つめて、掴んだ。
「本当、ごめん。なんなら先にシャワー浴び――」
 それを凝視する二夜の表情は上手く見えなかったけど、「勿体、ない……よな?」という呟きが聞こえたと思ったら、指が二夜の口の中に含まれていた。
「え、あの……えっ?」
 人間の舌より若干ざらざらしているそれが、指に巻きついてゆっくりと舐るのが分かった。
 二夜の喉が何度も上下する。
 何が起こっているのか理解が出来ず、硬直している間に手の蜂蜜は舐め取りきったのか、二夜が顔を上げた。
「に……」
 二夜、と呼びかけようとして俺は息を呑んだ。
 薄い水色の瞳がとろりと蕩けたような、それでいて切羽詰まった物を匂わせるように光っていたから。
 大きな手が肩の押し、仰向けに倒れた俺に二夜が顔を近づけて、「勿体ないんだ……」という囁きと共に耳朶をべろりと舐めあげた。

 俺は耳が、弱い。知らなかったけど。
「ま、まっ、や……っ」
 ぞわぞわと快楽の端っこのような物が走り、何度か軽く噛まれると、二夜を押し返す力も無くなる。
 二夜はそのまま俺の髪を一房口に入れると、それさえもしゃぶり始めた。
「ちょ、そんなとこ口に入れ……!」
 髪なんて汚い。口に入れるなと抗議するが、目の前にある二夜の喉が何度も上下して髪に絡みついた蜜を嚥下してしまっている事を俺に伝えた。
 それだけでも真っ青なのに、それを啜る音が耳を刺激してとても恥ずかしい。
 口に含んだ一房もしゃぶりつくした二夜の顔が、ずるずると下りていく。
「二夜ぁっ!」
 片手でシャツの襟を引っ張られて、鎖骨に滑った感触がした瞬間、力一杯俺は叫んだ。
 舐められるのが嫌だと思ったわけではない。それ以前に二夜が怖かったのだ。
 その叫びは聞こえたのか、二夜はピタリと止まると勢いよく身体を離す。
「え、……あ……俺……っ」
 目を零れんばかりに見開いて、片手で口を押さえると二夜は背を向けてばたばたと出て行った。

 俺は暫く呆然とそこに座っていたが、背を向ける瞬間の二夜の泣きそうな顔に我を取り戻し、脱衣所から出る。
「わー……」
 脱衣所から出たとこに靴下が片方。もう少し離れた所にもう片方落ちている。
 それを辿ると次はズボンがべしゃりと落ちていて、最後に少し盛り上がったシャツが落ちていた。
「……二夜?」
 声を掛けるとも、ぞりとそのシャツが動く。
「に……」
「ごめん。なんか本当、ごめん」
 再度名前を呼びかけようとすると、シャツの中からくぐもった声で二夜が謝った。
「何か俺にも良くわかんない。ごめん、理由にならないよな。……ごめん」
「二夜……」
 えぐえぐと声が切れるのは、泣いているからなんだろうか。
 ちょん、とシャツを指で突いたらびくりと塊が動いた。
「二夜、出ておいでよ」
「ごめん……」
「二ー夜ー」
「うう、本当に……」
「おいでって」
「ごめん……」
「……はい、ご開帳――!」
「うわっ!」
 何を言っても謝る二夜に業を煮やし、むんずとシャツを掴んで二夜からシャツを引き剥がした。
 ごろんと中から、猫の姿の二夜が転がり出てくる。
 もう汚してしまったのだから、と、汚れるとか考えずに二夜の脇に手を突っ込んで持ち上げる。
 じたばたと暴れたけどニンゲンの姿には戻ろうとせず、そのまま諦めてだらりと四肢を伸ばした。
「なんで謝るの」
 首を傾げて二夜を目の高さに持ち上げたが、目が合わない。
「だって、泣きそうな顔してたから……っ」
 嫌な事してごめん。と再度謝る二夜は泣いていた。
 耳をへしょりと垂らして髭をふるふると震わせながら、目の隅からぽろぽろと涙が毛を伝って落ちる。
 その姿に――俺の胸が打ち抜かれる音が、確実にした。
「ごめん……っ俺まだ発情期なのかもしれね……っ」
「……わい……」
「え?」
「かぁああわいいい……!!」
 は?と 呆けた顔をする二夜をがばりと抱きしめる。
 ぶわっと二夜の毛が逆立った気がしたけど、別に大丈夫だろう。
「ど、どうしよう……っすっごい可愛い! その泣き顔核爆弾並みの破壊力……!」
 猫って涙ながせるんだぁ……としみじみと思っていたら、耳元で二夜が掠れた声で「怒ってないのか?」と恐る恐る聞いて来た。
「ん? 俺は怒ってないよ。嫌な事されたなんて思っても無い。ただ、俺の声が届かなかった二夜が少し怖かっただけなんだ。俺こそごめんな、大声出して」
「……ごめん」
「良いって、大丈夫」
「……俺の事嫌いになって無いか?」
 おず……と上目使いで聞く猫は、俺を可愛さで殺したいのだろうか。
「ンな訳ないじゃん」
「……そ、っか」
 安堵で顔を緩ませる二夜もまた可愛い。

「それにしても発情期って大変なんだね、まだ続くとか大丈夫?」
 俺の疑問に、二夜がちょっと考える素振りを見せた。
「う……ん、終わったはずなんだ、何で…………」
「俺こそごめん。べとべとの手で触って……そうだ、このまま一緒にシャワー浴びちゃうか」
「絶ぇっ対にだめだっ!!」
 いいアイディアだと思ったんだけど、何故かくわっと目を見開いて拒否されてしまった。




 じゃあ俺、先にシャワー借りるね、と言うとミツルは浴室に入っていった。
 ミツルの服を用意する為にニンゲンの姿に戻ると、とりあえず落ちていたシャツを腰に巻く。
 適当に選んだ服を、此処に置いておくから、と一声かけ、逃げるように脱衣所のドアを閉めると、ずるずるとその場に座り込んだ。
 組んだ腕の中に頭を突っ込むと溜息が零れる。
 ……なんでだ。
 俺は女の子が好きなんだ。
 男同士で恋愛対象に見るやつだっているのは、もちろん知っている。その事に対して偏見は無いが、自分には縁のない事だと思っていた。
 だって男より女の子の方が可愛いし、柔らかいし、惹かれる。
 なのに……。
「二夜? こんなとこで何してんの、シャワーあいたよ。シャワーとタオルと服ありがと。下着まで染みてなかったら下着は借り無かったよー……ってか、尻尾の出る穴? みたいのあったからさ……」
 苦笑交じりのミツルの声が上から降ってきて、俺は顔を反射的に上げた。
 脈が一つ飛ばしで鳴る。
 髪からぽたぽたと少し水滴を垂らして、俺の服を着ているミツルが俺を見おろしていた。
 サイズがでかいのか、僅かにだぶついた襟から鎖骨が覗いている。
「服、どうしようかな。良かったら洗濯機貸してもらって良――」
「シャワー浴びる……っ!!」
 ミツルの言葉を最後まで聞かずに脱衣所に駆けこんでドアを閉めた。
 腰に巻いてあったシャツを放り捨て、浴室に足音荒く入る。

 俺は女の子が好きだ。そうだその筈だ。
 なのに――。
 なのに、撫でられてぞくっとした。
 なのに、ミツルを押し倒してしまった。
 なのに、なのに――。

「なんで俺、勃ってんだよ――……」
 情けなくてまたその場で座りこんでしまった。



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