▼ 満過去
「ただいま〜」
バイトから帰ると、玄関に母さんの靴が脱ぎ散らかしてあった。――そうか。今日は早く仕事が終わるとか言っていた。
明日は休み……やっぱりこりゃ飲んでるな。
「母さーん」
リビングのドアを開けると、がばりと抱きつかれる。胸に顔が埋まって苦しい。
「かっ、母さん、くる……っ苦しっ」
「お帰り〜!! 私の可愛いみっつん〜!」
みっつん……みっつんて何。
大きい方に入るであろう胸から解放されると、満面の笑みを浮かべる母の顔がドアップで視界に入った。緩くうねる茶色の髪に包まれるその顔は、美人と言う程ではないが、他人曰く愛嬌があるらしい。
父さんが出て行ってフリーになった後、俺がいると分かっていても男性からそこそこモテているとか。
明るいというより豪快な性格と向日葵の様な笑顔は、人を引き付けるのだろうか。
それでも母さんは新しい人を作らない。俺の事を考えてくれているのかは分からないけれど……。両頬に三回キスをされながらそんな事を考えた。
「お帰り、みっつん。疲れてない?」
「大丈夫だよ。母さんは?」
「頑張ったけど、疲れてはないわ」
そう言ってあはは、というよりもがははに近い笑い方をする母。そんな笑い方外でしてないだろうな。
「晩御飯は食べる? 作ってあるわよ〜」
「うん。あ、これ帰りに買ってきたよ。お土産」
きっと飲んでんじゃないかと思ってさ、と小さなビニール袋を渡す。
中身はコンビニで買ってきたお酒のお摘みだ。母さんの大好物のチーズ鱈もちゃんと入っている。
「
それを見るなり母さんが抱きついて熱烈なキスをしてきた。もちろん唇に。
いくら十五過ぎまで海外で過ごしたといえど、唇でちゅーはどうかと思うかもしれないけど、これも母の明るい…明るすぎる性格のなす技と俺は思っている。それに小さい頃からこれだったから、今更どうと思わないというのもある。
うへへへ、とオッサン臭い笑いをしながらチーズ鱈の袋を開ける母さんを尻目に、俺は既に作ってあった夕飯に火を通した。今日は鮭の西京焼きらしい。
「お母さんは思うのよ、みっつん」
「ん?」
ちらりと目を上げて、母さんを見る。
ビールの缶を傾けながら母さんは微笑を唇の端に浮かべて、遠くを見た。
「私は幸せねぇって」
「……なんじゃそりゃ」
鮭に目を戻して、ひっくり返す。
「だってこんなに優しくて可愛い息子がいて幸せじゃない訳がないじゃない」
「そうですかそうですか、俺は嬉しいですよ」
母さんは酔うと、どれだけ自分が幸せかをいつも力説する。
慣れっこだが、内心は普通に嬉しい。ただ真面目に取り合うと非常に恥ずかしいから、こんな対応になってしまうのだけれど。
「だから、みっつんは私以上に幸せにならなきゃ駄目なのよ」
そうそう、と母さんは一人で頷く。
「私をこんなに幸せにしたみっつんが、幸せにならないとかあっちゃならないのよ。そうよ、そうそう……そうなのよねぇ」
にこにこと缶を傾ける母さんは本当に幸せそうだ。
「みっつんはどんなお嫁さんをもらうのかしら。優しい子がいいなぁ、お母さん。あ、それとも婿入りかしら。その時はお母さんは一人でも大丈夫だからね! ……そうねぇその時は世界一周にでも行こうかしら」
ぶつぶつと呟いている母さんの横に、出来たおかずとご飯を並べて食べる。
ほんのりと赤くなっている頬や、とろんと細められた目からかなり酔っているのが分かった。……そろそろ寝るとか言いそうだ。
「まあ、どんな子でも良いわ。大切に出来て大切にしてもらえる人を見つけて、幸せになりなさいね、みっつん」
「……おう、まかせとけ」
もぐもぐと咀嚼しながら芝居がかった態度でガッツポーズをしてみせると、母さんは大声を上げて笑った。
そんな母さんは半年後、交通事故で死んだ。
雪でスリップした車に跳ね飛ばされ、全身を強打したのが死因だった。
最初は呆然として、泣いた。そんな悲しみに泣いていた時に、葬儀屋の人が持ってきたパンフレットが目に入った。
それは以前、ばあちゃんが死んだ時に母さんが持って帰ってきて一度見た事のある物だった。
遺骨や灰を加工し、セラミックや人工ダイヤモンドにして、それをペンダントとして身につけることが出来るというパンフレット。
『へぇ、今じゃこんなことも出来るのねぇ』
しげしげとそれを眺めていた母さんは、苦笑しながらパンフレットを畳んだ。
『ずっと側に置けて、おまけに知らない人が見ても分からないっていうのは素敵だけど、私はいいわ』
『なんで?』
『だってどういう技術かお母さん分かんないけど、それってなんか私じゃないみたいだもの』
あっけらかんと母さんは笑った。
おばあちゃんのお墓に入れて頂戴 と笑う母さんは、ふと思いついたように笑うのを止めた。
『あ、一つだけお願いがあったわ』
『何? ……仏壇にチョコレートを供えてくれってのは無しだよ』
冗談で釘を刺せば、しまった、とばかりの表情を母さんは浮かべた。
『え、それだったの……?』
『そ、それもあったけど……も、もう一つあるもん』
『何』
『笑ってね』
『へ?』
泣かないでね と母さんは微笑んだ。
『ちっとも泣いてもらえないのは流石に悲しいけど、ちょっと泣いてくれた後は満、笑っていてね』
そうしないとお母さん浮かばれないわ、と言って、母さんはまた笑った。
パンフレットを握りしめて、横隔膜の震えを深い呼吸で収めていく。
「ふ、う……」
涙を袖で拭うと前を向いた。
泣かない。泣かない。笑おう。
母さんの一番の望みはなんだった?
「俺、が……幸せに……なる事」
酔う毎に何度も繰り返していた母さんの言葉を呟いて、また泣きそうになった。
奥歯を噛み締めて涙をやり過ごす。
「よ、っし」
大丈夫だよ母さん。幸せになってみせるさ。
だって母さんの息子に生まれて既に幸せなんだ。そのスタートラインから幸せになるなんて簡単だよ、きっと。
こうやって泣きやんだ俺がその二年後、トイレのドアから違う世界に行ってしまうなんて勿論想像さえしてなかった。
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