雪隠詰め | ナノ


▼ はじまり


 『雪隠せっちん詰め』という言葉の意味をご存じだろうか。
 将棋で相手の王将を、盤の隅に追い込んで詰めること、転じて逃げ場のない所へ追い詰めることを、『雪隠詰め』という。
 では雪隠とはなんなのか。これは知ってる人も多いかもしれない。かわや。つまりはトイレを指す。 
 何故こんなことを、唐突に語り始めたかというと、今まさに雪隠詰め状態だからだ。意味合い的にも。文字通りにも。
「はぁあああ」
 肺の中の空気を全部吐き出し、何度目かわからないが、視線をぐるりと巡らせる。
 清潔感漂う白い壁。リノリウムの床。煌煌と光る蛍光灯。ドアの上の方にはフックがあって、鞄がかけれるようになっている。
 海外に行ったら、あそこに鞄をかけると、外から針金かなんかで引っ掛けて盗られるから、かけるなとか言われたなぁ、なんて他愛の無いことを考えながら、それをぼんやり見つめた。
 去年の夏にリフォームされたばかりで、まだそこまで汚れていない此処は、そう。
 トイレの個室。
「はぁあああ」
 何回目かわからない溜息を、便座に座りながら吐いた。
 家に帰る前にトイレに行っておこう、と思ったのが間違いだったんだ。自転車で十五分もかからないなら、我慢しておけばよかった……と、今更遅い後悔をする。
 便座に座っているが、一応下着もズボンもきちんと履いている。吐き気を催し、便器に顔をうずめているわけでもない。
 此処に入ってかれこれ三時間――。
 こんなにトイレとは使用されないものなのか、と不思議に思う。例え、放課後という時間帯が問題だとしても、部活動はまだ全然やっているし、ましてやここは校舎内といえグランド近くの一階トイレだ。
 サッカー部とか、野球部とか、えっと……野球部とか来たって良いと思う。
 ちなみに自分は帰宅部だ。諸事情があってバイトが忙しいのでやっていない。
 ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろうと、半ば虚ろになり気味な視線を宙に向けながら回想した。


 放課後、家に帰る前にトイレに向かったのがそもそものきっかけだ。
 用を足して、手を洗っていると脚が何やら冷たい。
 驚いて視線を落とすと、自分が使っている手洗い場の排水管から、少しずつではあるが水が垂れて、ズボンのすそを濡らしていた。
「うわ、わ!」
 急いで蛇口を締め、ハンカチでは間に合わないから、トイレットペーパーで拭こうと個室に向かうと、何故かこんな時に限って一つもなかった。
 隣も同じ。その隣もまた。和式のトイレは、すべてトイレットペーパーがきれていた。芯すらない。
 不景気の影響……? なんて思いながら一番奥の洋式のトイレに向かった。
 この洋式のトイレはあまり使われていない。
 トイレによくある話だが、ここでタロー君だか、ジロー君だかがいじめられて死んだとか、ハナコさんが出るだとか、後は便座が冷たいとかで奥の洋式トイレは不人気なのだ。
 自分としては正直、一番最後の説が強いと思っている。しかし今では、それもありがたかった。不人気という事は、つまりトイレットペーパーが残っている可能性がある、という事だから。
 あまり使われていないせいなのか、まだ真新しいというのに軋みながら開いたドアの向こうには、待ちに望んだトイレットペーパーがあった。
 安堵しながら個室の中に入り、ついでだから便器に蓋をしたまま座り、そのまますそを拭く。
 使い終わったペーパーをトイレに流し、ドアに手をかけた――が、開かなかった。

「え?」
 鍵を確かめてみるが、かかっていない。

 押す――開かない。
 引く――開かない。
 横に引く――開かない。
 引っ掻く――開かない。
 叩く――開かない。
 蹴る――開かない。
 ぶつかる――開かない。
 撫でる――開かない。
 宥め賺す――開かない。
 ハンドパワー――開かない。
 「開けゴマ!!」――開いたらむしろ驚く。
 「オープンセサミ?」――開くわけが無かった。

「どうしよう……」
 自分に備わっている物全て……いや、いくつか備わっていないかもしれない物を、今ここで発動させる勢いで挑んでも、ドアは開かず、そして現在に至る。
 これはなんなんだろうか。タロー君が引きとめているのだろうか。ジロー君が恨んでいるのだろうか。ハナコさんが俺にアピールをしているのだろうか。
 ……いいだろう、全部受け止めてやろうじゃないか。自分は三人の想いくらいなら、受け止められる技量を持った男だと信じてる。いや、信じたい。
 だから……。

「だから開けてくれ――!」
 誰か――……! と、明らかにそんな技量を持ってなどいないような、情けない声で俺は助けを呼んだ。




 ……もう、かれこれ五時間……。
 電気は煌々とついているが、日はとっくの昔に暮れただろう。
 頼みの綱にしていた見回りの先生なんてのは気配すらなく、なんとなくこのままトイレで死ぬかもしれない、と軽く本気で思い始め、遺書でも書いておこうかと、鞄から紙を出し始めたその時。

 ――ガチャ

 ノブが捻られた。
 ガチャガチャと開きにくそうに数回音をたて、開けた時と同じようにギィイと軋みながら開いてゆく。
 ようやく、助けが!!ここから救い出してくれた人物は一体どなた!!??生徒でも先生でも用務員さんでも可!と、感動のあまり少し涙ぐみながら、俺は自分の救世主に礼とハグをすべく、座り込んでいた便座から素早く立ち上がった。
「あーもーやってらんねぇ」
 鬱陶しげに、ばりばりと頭をかきながら、ドアを開けてくれた俺の<救世主>は――二足直立の猫だった。

「……」
「……」
「……」
「……」

 ――パタン
 しばらく互いに見つめあった後、猫の方からドアを閉められた。
(……!?、!?、!!!???)
 無言で頭の中で整理をつける。
 ――え、猫!?猫だった!?二足直立した、喋る、ちょっと口の悪い……猫!!??……おおっふ……落ちつけ、落ちつけ俺。
 猫が二足直立、おまけに前足をあたかも手の如く使って、ましてや喋る訳ないだろう?
「ジ○リの見すぎかな……?」
 自嘲気味につぶやくと、また ギィイ……と軋んでドアが開いた。
 ……うん、やっぱ猫だ。黄土色と焦げ茶のトラ猫……。
 凄い高速で瞬きしても、それはブレることなくそこにあり続けている。
 しっかり二足直立してくれちゃってるよ。おまけに律儀に片手でドアを押さえちゃって。
「っはぁあああ。んだよ、何してんだよ、ビビったじゃないか」
 ぽりぽりと頭を掻いて猫は目を細め、にっと笑った(んだろう……。)
「匂いがしないから先公かと思ったわ……!なあ、まあトイレだしさ、この姿になってたことは言わないでくんね?」
 俺がファンタジーのような光景に何も言えずにいると、あれ、もしかしてやっぱり先公? と、猫は綺麗な薄水色の目をうろうろと泳がせた。
 その様子が少し可哀相で、安心させる為にも先生である事は否定してやらねば、と口を開く。
「いや、先生じゃあない、けど……」
「よかったぁああ!」
 猫はぶふぁあと鼻から息を出して、大袈裟に胸を撫で下している。
「なあなあなあ、お前えらくじょーずにやってんのな!まあ俺らも鼻は一番利くわけじゃないけど、それなりに利くのに、全っ然匂いで分からねぇもん!!お前、どこの奴?」
 安堵した反動か、勢いよく喋り始める猫にタジタジとなる。
「え、や、どこって?」
「グループだよ、グループ」
「ええっと……2−1です?」
「にのいち? 何それ。何言ってんだ?」
「え……ぐ、グループ?」
「にのいちなんて、んなのねえよ。何、教えたくないのか」
「いや、そういうんじゃなくって……あ、じゃ、じゃあ貴方は何処なんでしょう……?」
 きょとんと猫は小首をかしげると、にゃっはと笑った。
「見れば分かんだろ。猫だよ、【猫】!フィーライン!!そんな他のグループの元に化けるほど自分の素姓隠したがってねぇし、そもそもそんな力量あるわけねぇじゃん!それともナニ、猫以外に見えるか?俺?」
「あ、ああそういう事か」
 フィーライン、っていうのは何か分からないが、グループとはつまり自分の『種属』の事のようだ。
「それなら俺は、『人間』ってことになるのかな?」
「は?」
「ん?」
「いやいやいやそうじゃなくて、どこのグループの奴が、ニンゲンに化けてるかききたいんだけど?」
「いやえっと、俺は化けてなくて、もとから『人間』」
「…………元から?」
「うん」
「ニンゲン?」
「そう」
 猫の方は目をこれでもかと見開いた後、ふんふんすんすんと何度も何度も空気の匂いを嗅ぎ、両手で両目を塞いで。
「ううううっそぉおおおお」
 と、絞り出したような声で嘆いた。
「えっ、えっ……嘘だろ!?ありえない……いや、でも、ホントに匂いがわかんないし……。まてまてまてまて。だから俺、騙されやすいって皆に言われんじゃん!?これは冗談に違いな……でも『このトイレ』ってのはなんか妙に……辻褄が合うってゆーか、いやいやあれはおとぎ話だろーがよ?」
 ぶつぶつと目の前のトラ猫は呟いていたが、至極真面目な顔でこちらを振り向いた。
「なあ」
「はいっ?」
「お前が本当に『ニンゲン』って言うなら、此処のトイレって何かしらおどろおどろしい、いわくつきの場所じゃなかったか?」
「あー」
 タロー君、ジロー君、ハナコさんの事を言っているのだろうか。
「まあおどろおどろしいかと言われると別だけど……確かにいわくつきではあったな……」
 それを聞いた途端、猫は全身の毛を逆立て怒り始めた。
「なっ……!!じゃあなんで此処のトイレに入ったんだよ!?馬鹿か!?てめーは馬鹿なのか!?なんで危ない所に自ら踏み込むんだよ!?なんのために、そんな『いわくつき』のトイレになったのか考えろよぉおお!もう帰れ!頼むから帰ってくれ!見なかった事に喜んでしてやるから帰れぇぇええ!!」
「いや、だってそんなおどろおどろしい曰くじゃなかったし……。それに帰ることが出来たら俺も帰りたいけど……」
「ああああもう、最悪だ! 今日は厄日なんだよぉお!! だから嫌だったんだよ!朝から占いビリだったしー!! もう、俺は嫌だ……先公にねちねちいじいじ怒られるのはもー嫌だ!!」
 叫びながら、最終的にはべそべそと泣き始めてしまった猫。

 ――多分 嫌なことがありすぎたんだろうなぁ……。なんて、他人事のようだが、その気持ちはよく分かる。
 泣きっ面に蜂が刺さると、どうしようもなく凹んで、泣きたくなる事は良くある。
 ただでさえちょっと同情しているのに、自分よりずっと小さい猫がぐしぐしと手で涙を拭っている姿は凄く愛らしく、更に可哀想だ。どうしてやるべきか、と暫くおろおろしていたが、泣き止ませる常套手段として、その場にしゃがみ込むと、頭に手を乗せ撫でた。
 途端、びっくりしたように猫がこっちを見る。
(猫って、耳の後ろとかきもちいんだっけ?)
 指を伸ばして耳の後ろをかりかりとかいてやると、うっとりと目を細め、ごろごろとのどを鳴らし始めた。
 良かった、泣き止んだとホッとしつつ、撫で続けていると、暫くはそのまま気持ちよさそうにしていたが、我に返ったのか、猫は慌てて俺の手から離れた。
 しっとりとした柔らかい手触りが手から離れたのが何だか残念で、思わず両手をこすり合わせる。
「こっ、こんなことしてる場合じゃねぇ!!」
 猫は叫ぶと、ちらりとこっちを向いて、何故か顔を赤らめながら(多分そうだと思う。なにせ毛があるから分かりにくい)もしゃりと顔を顰めた。
「ふ、不本意だけど、俺にはどうしようもないから、とりあえず先公のとこに案内してやるよ」
 とだけ言うと、くるりと背を向けた。
「じゃあ、先公のとこに行くなら、俺は『ニンゲン』の姿になんなきゃいけないから後ろ向いてな」
 ということは……変身!?タヌキみたいな感じで化けたりするんだろうか。……というかこの状態から人間になったらどうなるんだろう。
「……見てみたいって言ったら、ダメ?」
「ダーメ」
 お前が、俺達にとってどんな存在になるのか分からない今は、見せらんない。と至極真っ当なことを言うので、「確かに」と俺は猫に背を向けた。
 暇だから、トイレの壁のタイルの模様の規則性を考えていると、「あのさぁ」と、声を掛けられる。
「お前、名前なんていうの?」
「あ、そっか、言って無かったっけ。ごめん、名取 満なとり みつるって言うんだ」
「ナトリミツル?変な名前だなぁ」
「そういう君は?」
「う……まあ名前くらいいっか。俺はニヤ」
 余り聞かない名前の響きにふぅん、と相槌を返す。
「じゃあ名字は?」
「ミョウジ?何それ?」
 疑問と同時に、ばさばさと服を着る音がする。
 あ、服は後で着るんだ。じゃあ持ち運んでんのかな?なんてことを、音だけで推測しながら口を開く。
「俺で言う『名取』の所」
「へぇ、じゃあミツルは、名前はミツルで、ミョウジってのがナトリなわけ?」
「そう。俺らは家族とかだと、みんな名字が一緒なんだよ」
「へええ、じゃあミツルんちは皆『ナトリ○○』なんだ?」
「そうなるね」
「んにゃっはっはっは、なにそれ、おもしろー。俺たちは名前だけ。生まれた時に意味を持った名前を親から貰うんだ」
「意味……」
「産まれた時の出来事とか、子供の未来を願ってとか。俺は『月が二つ出てた夜』って意味があるんだ」
 それを聞いて、もしかしてニヤは、漢字で書くと『二夜』なのかもしれないとふと思い当った。
「綺麗な名前だね」
「そ、そうかぁ?」
 声だけでも照れた調子がわかる。暫くもごもごと何やら呟いていたが、もういいよ、と言われたのでくるりとその場で反転した。



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