▼ 2
目の前で少しドアが開いた。でもチェーンをしたままのようで、ガチリと音を立てて途中で止まる。
隙間から除くが、俺の目の高さにはアズはいなかった。
「アズ?」
目線を下ろすとアズがいた。どうやら座り込んでいるみたいだ。俺もその場に座って話す。
「好きになってもらったのに、嘘を言い続けるのは嫌だし……そんなのフェアじゃないと思うから。俺はね、此処とは違う世界から来た、人間」
「ごめん……。気持ち悪いかな、嫌いになっ」
「んな訳ない」
指を掴まれ、隙間からドアの向こうに引っ張られて体勢が崩れる。今の俺は右腕が向こう側に全部ある状態だ。
「嫌いにならない。気持ち悪くない。関係ない。好きだ、それでも好きだ」
好きだ、と壊れたように繰り返して俺の掌に顔を寄せるアズ。
「嬉しい。俺に言ってくれて、まじで嬉しい……」
その言葉が凄く嬉しくて、俺は顔を綻ばせた。
「……ありがとう」
「ミツル……」
「ん?」
「ごめ……俺、もう無理だ……ミツルの匂いが……やばい……」
右手を貸してくれ。と余裕のない声で囁かれて、俺の右手に何か柔らかい物が押しあてられる感覚がした。
ドアから差し込まれた指に鼻を近づけると、ミツルの匂いがした。ただそこに
鳥どころか犬も、猫も、蛇も、他の獣の匂いもしない。
純粋にミツルの匂いだけ。
本当に人間なんだと思うのと同時に、胸一杯に匂いを嗅いで俺はうっとりと目を細めた。口に唾液が溢れる。鳥の匂いのしなくなったミツルは本当に良い匂いだ。
気持ち悪いかと聞くミツルの言葉を打ち消すそんなことない。俺は“ミツル”が好きなのだから。
嬉しそうに「ありがとう」と言うミツルに我慢は限界を迎えた。
小さく断ると手の甲に唇を落とす。
引っ張ったから、崩れた体勢では此方の様子が見えないんだろう。感覚だけに驚いて声を上げたが、発情期という事が分かっていて同情してくれたのか「右手でいいなら……?」と許してくれた。
俺の心は許しをもらった事で喜びに震える。
顔を摺り寄せ、心ゆくまで匂いを堪能すると、舌を出して這わせた。
びくっと震えるけれど、ミツルは何も言わない。
溢れる唾液が甲を伝う。それも舐めとると、細い指を口に含んだ。
――甘い。
舌を絡めたり、甘噛みしたり、吸ったりして丹念に一本一本順に口に含んでいく。
甘い毒が体中に回っていくみたいだ。でもその毒は今の俺には、とても心地いい。
「ん……ふ……」
音をたてて舐めしゃぶる。
チェーンに伸ばしそうになる手を、舐める事に集中して止める。
今開けたら、俺は何をするかわからない。
顎を唾液が伝っていく。
「好きだ……好きだ……好きだ……」
自身の唾液に塗れた手に顔をすりよせる。顔が濡れるとか、どうでもよかった。
「撫でてくれ……。撫でて……」
その言葉におずおずと動かされる手。
頬や髪を撫でられる感覚に満ち足りて目を閉じる。発情期でここ最近ろくに寝ていない身体を心地良さが包んで、眠りへと落としていった。
俺の手をずっとかまっていたアズは、撫でている内にいつのまにか寝てしまった様だ。
微かな寝息を聴きながら、そっと隙間から腕を抜いて小さく息をつく。
(――まさか舐められるなんて)
舐められることは気持ち悪くなかった。ただ、あまりにも熱くて、どうしていたらいいかわからなかった。
音を立てないようにドアを閉めて、ふっと微笑んだ。
(……良かった)
人間だと伝えて、拒まれなかったことが本当に嬉しい。あの時の夢が今でも頭でちらつくけれど、少しそれが薄れた気がする。
おやすみ、と呟くと足を自室へ帰る道へと向けた。
部屋に近づくにつれ、誰かがドアの前に立ってるのが見えて来た。
誰だろう、と首を傾げる。
壁に背をもたれかけているその人は組んだ腕を苛々と指で叩いていたが、俺に気付くと物凄い勢いで近寄って来て、いきなり抱き締めて来た。
「え、ぎ、ギリア先生!?」
体中の骨が折れそうな力で腕の力を強めたその人が、ギリア先生で思わず驚く。
何でここに?というより、何で俺を抱き締めてるんだ?余りに強い腕の力に息を詰まらせながらも言葉を口にする。
「ど、どうしたんです、か」
「どーしたも、こーしたもねぇだろうがっ!襲われたって聞いて慌てて此処に来たら留守で、どれだけ肝を冷やしたと思ってんだ手前ぇは……!!」
なるほど、イロンが言ってくれたのかと納得する。
「大丈夫ですよ、ラージュさんが助けてくれましたし……ってかそろそろ……く、苦しいです」
そう言うと腕の力は緩んだけど、俺はまだ腕の中だ。
「あの、先生?」
上を向くと、身長差のせいで顔を見合わせる形になった。
黄金の鋭い目が光る精悍な顔。その顔を苦しげに歪ませて、もう一度強く抱き締めて。
「心配させんじゃねぇよ……っ」
と先生は小さく呟いた。
「すみません……」
「……手前ぇは抜けてんだからよ」
「む。それは失礼な」
「ホントの事言って何が悪い。……ん?お前……今、羽根持ってないのか?」
すんすんと鼻で息を吸う音がする。
「あ。はい」
「いつも持っておけって言われただろうが」
そう言いながら肩に顔を埋めてくる。高い鼻がすり、と首を少し掠めたのが擽ったい。
「……えーっと?」
「あー気にすんな。少し吸わせろ」
「はあ……」
まるで煙草か何かみたいな言い草にきょとんとしながらも、吸わせろと言うのならじっとしていれば良いのかとそのままにする。
俺の肩に顔を埋める先生を見ながら、何か違和感を覚えた。
その違和感が何かはっきりしないまま、何となく漠然として感じた物を言葉にする。
「先生、あの、もしかしてなんか疲れてます?」
すーはー、という音が止まる。
「……何でだ?」
「や、なんかいつもと違うっていうか……」
「ほお、そんなに俺の事を見てるのか?」
顔を上げながら、にやっと口角を上げる先生。
その目が悪戯っぽいような、嬉しそうなような色で輝いている。
「何言ってるんですか。えーっと、疲れてるっていうか……うーん……ああ!“弱気”な感じ!」
ぴったりな言葉を見つけてすっきりする。
そう、あの強気で俺様の先生がどことなく凹んでいるというか、弱気な感じがするんだ。
「そんなにか?」
「いや、なんとなくですけど……あ、発情期と関係してるんですか?」
「なんだ、お前が治めてくれるのか?」
にやにやと笑いながら腰を引き寄せる先生。
その発言は教師としてどうなんでしょうかね。それに俺は男ですってば。
「ちょっ……!せっかく人が心配したのに……!」
睨むと先生は目を細めた。
「心配、な。そりゃどうも。ちょっと個人的な問題があってな」
「隠し子でも出てきましたか」
「……お前も言うようになったな……」
嫌そうな顔をする先生に思わず吹き出してしまう。
「まあ、この調子ならメンタル面は大丈夫だな?」
頭に手を乗せてわしわしと撫でる先生に、心配してくれたんだなと思うと微かに笑みが頬に乗った。
そのまま部屋に戻ろうとドアを開けようとして、ふと思い出して先生を振り返る。
「あの」
「ああ?」
「……先生は、俺が『人間』って事、どう思いますか?」
何言ってんだ?と先生は煙草を取り出し、そしてその手を止めて首を傾げた。
「お前はどう思うんだよ」
「へ?」
「俺が蛇ってのは」
どうだ恐いか?と二つに割れた舌を見せつけられる。
「えっと……別に怖くないです。個性というか、それも有りだなって」
「俺もそれと同じだ」
そして例えそれを受け入れない奴がいても、俺はそういうのも有りだと思うぞ。真顔でそう言う表情は大人で、そして教師としての顔で、納得する。
「そっか……。ありがとうございます」
「おお。ゆっくりしろ」
そう言って先生は手を振ると、背を向けて廊下を歩いて行った。
ナトリと分かれて職員室に向かう道、懐に手を差し込むと仰々しい封筒を取り出した。紙の質が良い事は傍から見ただけでも分かる代物だ。
心底嫌そうな顔をして何度も見た中身を封筒を開けて、再度目を通す。
そこには金と透明の珠が連なる数珠と、『次期
「……チッ」
思わずそれを握りしめたい衝動を耐え、舌打ちで誤魔化すと再び懐にしまい足を動かす。
胸の内には色々な想いを抱えて。
16