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「断る」
牙を剥き出して黒ヒョウは唸る。
そりゃそうだ。通りすがりの奴を、何故に負ぶさらなきゃいかんのだって話だ。断って当たり前――。
「その代わり……あいつらは俺が此処で、引き止めておく」
「なっ!?」
何言ってんですか――!?
俺はついさっき言った言葉を脳内で繰り返した。猫王はというと、少し考えている。
「駄目ですよ、ザインさん!!」
そんなのはいけない。俺がいなければザインさんは逃げられるのだ。
訴える様に縋りつくと、目を細めてザインさんは笑う。
「そんな顔、するな……ナトリの為じゃない。俺は、俺の縄張りを荒らされたくない……それだけだから……」
そう言って、俺の頭を撫でた。
な、縄張り?近くに大切な場所でもあるのだろうか?
そりゃ
「……分かった」
猫王はそう言うと、おろおろと考えていた俺に「乗れ」としぶしぶと背を向けた。
ザインさんが俺を無理矢理その背中に乗せる。
「行け」
その言葉と同時に黒ヒョウは走り出し、あっという間にザインさんは見えなくなってしまった。
もの凄い勢いで風景が後ろに流れていく。かなり大きい体つきといえど、欠けた脚で、且つ人を乗せているというのに走りに乱れは見えない。
俺はしがみつくのと、舌を噛まないようするのに精一杯だった。
大分走ると猫王さんの足が止まった。ずるりと落ちるように背から降りる。
膝が笑っている。もう大爆笑だ。
「情けないな」
ガクガクと笑っている膝を一瞥してそう言う猫王。その一言が、俺の中の何かをぷつんと焼き切った。
二夜にも、ネクロにも迷惑をかけて。ザインさんにも迷惑を掛けて、あまつさえ残してきてしまった。
(本当に……情けない……)
目頭が熱くなってきて、鼻がつんとする。あ、やばい、と思った時には涙が零れていた。
途端に、隣の猫王がぎょっとする気配が伝わってくる。
「な、泣かなくてもいいだろう!」
「泣いてなんかいませんっ」
黒ヒョウに背を向けて涙を袖で拭う。けれど他人の前で泣いてしまったという事に、情けなさを再び感じ、悪循環で涙が止まらない。
悔しい。悲しい。不甲斐ない。
「泣いているじゃないか!!」
「泣いてません!!」
「嘘つけ!じゃあなんだそれは!!」
「鼻水です!!」
「馬鹿か、そんな所から鼻水が出るか!!」
「俺は出るんです……!」
泣いている、泣いてない、という馬鹿らしい問答を繰り返す。
「っ、もう、ほっといてください!」
とうとう耐え切れずそう言って目をごしごしと拭く。
まだ俺の涙腺は決壊中で、涙を絶賛製造中だ。おかげで青のジャージの袖が紺色になってしまった。
「ぐ、〜〜……っ」
小さく唸るような声が聞こえると、目の前に不機嫌な黒ヒョウの顔があった。
泣き腫らした顔を見られたく無くて顔を背けようとしたら、べろりと顔を舐められた。
……はい?
ざらざらの舌が涙を舐めとっていく。
正直痛いのだが、予想外の状況に思考停止をした俺はなされるがままで、涙を絶賛製造中だった涙腺はエンストを起こした。
「……泣きやんだか」
べろりと最後に大きく舐め、黒ヒョウは非常に不機嫌そうな声でそう言うと。
「……すまなかった」
そう小さく呟いた。
うわぁ、あの「傍らに人無きが若し」の意味を持つ傍若無人の王様が謝ってる……。……誰に?
……俺に!?
「なっ、なんでっ、あやまるっですかっ」
口を開いた途端、開いた事を後悔する。
ずっと泣いていたから、ひぐひぐと喉が鳴って号泣したのが丸わかりの喋り方になってしまった。
「……お前が泣いたのは俺の所為だろう」
え、うーんと、そうか?
俺はしばらく考えて、息を整えて首を横に振った。
「ちがい……ます。貴方の言葉が、か、皮切りになったかもしれない……けれど、これはっ俺が、不甲斐ないっせいでっ」
ああ、自分で言っててまた泣けてきた。
「も、もう泣くな!!」
「泣いてません!!」
「泣いているだろうが!」
そう言って、さっきの繰り返しだと気付いたのか、猫王は苦虫百匹噛んだんじゃないかと思うくらい苦い顔をした。
そうして暫く黙ると、唸るような声を絞り出す。
「さっき“情けない”と言ったのは、お前の膝についてで、決して、お前の存在自体を“情けない”と言ったわけではない。それに熊は強いから安心しろ。……だからもう泣くな」
これは……もしやフォローしてくれているのか?
思ってたよりも良い人なのでは、という考えが頭を過る。
「あ、ありがとうございまず……?」
何を言ったらいいのかわからなくて、とりあえず鼻声でお礼を言うと、くるりと背を向けてがさがさと灌木の中に入って行ってしまった。
暫くして、がさがさと人間の姿で出て来る。どうやら此処に服を隠しておいたらしい。
右手には俺が拾ったあの球が、交互の色で連なっていた。あれはどうやらブレスレットだったようだ。
数珠みたいだ、と見ていると、俺の目線に気付いたのか、目線を下げ、ああ、と頷く。
「元に戻した。……新しい物をつくらせれば良かったのだが、わざわざ拾って来たからな」
そう言って、腰を下ろす。何だか拾って来られたから仕方なく、という意味に聞こえて少しだけ眉を寄せた。
「これは、≪王≫の証だが……。まあ無くても良い」
良くないんじゃないか?と思うけれど口にするのは止めておく。
「お前が拾って来た珠、一つとして足りなくなかった。礼を言っておく」
そう言って、すっと猫王が頭を下げた。
それを見て、ああこの人は本当に≪王≫なんだな、と不思議とストンと腑に落ちた。
プライベートな事は苦手そうだけれど、自分に非があったり、心から感心したりした事には素直に謝罪や感謝の言葉を言える人なんだろう。
だからここまで澄んだ気品を漂わせる事が出来るんだ。
皆の一番上にいる存在。
「俺の名前、名取って言います」
だからかもしれない。気付けば俺はあの時――屋上で別れ際に投げられた質問に答えるように名乗っていた。
それを聞いて少し驚いた顔をした猫王は、
「俺は
少し口角を上げてそう言った。
はいストップ。
胸中で停止を叫ぶ。
なにせ、猫王――ルエトさんの浮かべた笑みが、物凄くイケメンだったのだ。
何ですか、その今の小さいけど破壊力抜群な笑顔。通常氷の冷たさ放ってる人が少し溶けただけでこれですか。だったら全解凍したらこの世界滅びるんじゃないの!?
顔を引きつらせたまま凍り付いて、脳内では目の前のイケメンに呪詛を吐く。
くっそ――!!美形なんて、皆モテなければいいのに!!
俺はそれからずっと≪追いかけっこ≫が終わるまで拗ねていた。
祖父は≪王≫だった。父も候補までなっている。血族は申し分ない。
≪王≫となる最低限の条件もクリアしている。
そんな俺は、幼い頃から次期≪王≫と呼ばれて来た。
威厳のある祖父。尊敬の出来る父。そんな存在になれるのだと、まるで約束されているようだった。
そしてその思いは俺を自惚れさせるのに十分だった。
父と祖父以外の大人の話など聞かなかった。
よく授業はさぼった。
そんな俺を諫めるほど、両親も祖父も暇がなかった。だから尚更、自分よりも上の位置にいる者などいないのだと自惚れていた。
ある日いつものように学校裏で風に当たってさぼっていると、白い小鳥が側に降り立った。
人化出来ないただの鳥だった。
どうやら此処で食事をした奴の、食べこぼしをつつきに来たようだ。その鳥に鞄の中の昼食に、と持ってきていたパンをちぎってやったのは単なる気まぐれだった。
しかしそれがきっかけで、同じ時間になるとその鳥はやって来て、パンを食べては帰って行った。
来ては食い、帰るだけのその存在を畜生そのものだと最初は鼻で笑っていた。
……けれども何度も繰り返し来る、その黒い瞳を持つ白い小鳥にいつしか愛着が湧いていった。
今思えばあれは、友情のようなものだったのかもしれない。俺の周りには取り巻きは居れど、友人と呼べるものは居なかったから。
だから、何も言わず、何も伝えないその存在は居心地の良いものだった。
いつしかその白い鳥は俺の肩に止まるほど懐いていた。
ある日の事だ。俺に廊下でぶつかってこけた奴がいた。
小さい声で謝るそいつを、いつものように一度見下してから去ろうとしたら肩を掴まれた。
振り返るとそいつの友達なのか緑の目を怒らせた猫が立っていた。
「おい、お前も謝れ」
その猫の顔をまじまじと見る。
(――ああ≪猫王≫の第二候補のやつか)
どこかで見た事があると納得する。……まあ俺が有力だから、第二候補なんて無いようなものだが。
「聞いてんのかよ?」
瞳孔を細めてそいつは唸る。たかがこんな事でそんな感情的になれる事に、呆れを通り越して感心さえした。
「なんで俺が謝らないといけない?」
そう答えると、はぁ?とそいつは言った。
「お前にも非があるだろう!?お前≪王≫候補だからって、いっつもそんな態度とるなよ!――自分では何もできない子供の癖に」
『自分では何もできない子供』。その言葉は俺の心を突き刺した。
愕然と目を見開くと、俺はそいつを激情のまま殴り倒し、駆けだした。
気付けばいつもの校舎の裏側に来ていた。
頭をかきむしりながら俺は舌打ちをした。
なんであんな奴の言葉に惑わされなきゃいけない?なんで負け犬の遠吠えと割り切れない?なんでこんなに心が痛い?
苛々とその場に座ると、あの鳥が飛んできて俺の肩に止まる。
それを感じながら俺は良い事を思いついた。
少し離れた所に、使われていない工場があるらしい。そこでは以前ガラス製品を扱っていて、未だいくつか残っているそうだ。
危ない場所だから立ち入るなと言われていたが、そこに行く事は根性試しの様な物で、子供たちの間で拾って来た製品を持っている事は勇気がある事の証でもあった。
そのガラス製品を取ってきたのならば、あの猫の言葉を覆せるのではないだろうか。
今思えば、それこそが子どもの発想そのものだ。
けれど、その時、それが一番良い考えだと思ったのだ。――愚かなことに。
俺は鳥を肩に止まらせながらそれを実行するために立ち上がった。歩く事、数時間。
別に恐くなどなかった 自分の肩には心許せる存在がいる。
敗れたフェンスの間をくぐり抜け、ガラスの割れた窓をヒョウの脚力で跳び越え、製品を製造していたと思われる奥の部屋まで来ていた。
脚元に落ちているガラスのグラスを拾い上げながら「どうだ、見ろ」と小さく呟く。けれども心の痛みは癒えない。
また苛々しながら、帰るために踵を返したその脚に何かが引っかかった。
横にあった機材が自分の上に倒れてくるのを、スローモーションの様に感じながら、俺はとっさに右手で小鳥を庇った。
意識がはっきりしてくると左半身が機材の下敷きになっていた。左手に至ってはもう感覚が無い。
呻きながら身動ぎし、ふとあの小鳥の事を思い出す。慌てて右手の鳥に目をやると血は出ていなかったが、打ちどころが悪かったのか、鳥はピクリとも動かなかった。
「……あ……」
その途端。
押しつぶされる苦しさ、散らばるガラスが肌に食い込む痛み。そんなものは飛んでいった。
「……あ、あ……あ……」
右手が震える。全身に力を入れるが、子供の力でどうにか出来る重さでは無かった。
「あ……ああ……ああああ」
口の端から血が零れる感覚があった。
どこか冷静な自分が、頭の隅で口の中を切ったのだ、と囁く。それが酷く煩わしかった。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」
獣のように全身で吼える。
手の中で冷たくなっていく小さな身体。
あいつの言った通りだ。
だから腹がたったんだ。
本当はわかっていたのに。
自分が、本当は何もえらくない事を。
自分が、ただの無力な子供だという事を。
血がつながっているだけというだけで、そこに何も約束はない事を。
その不安から逃れたかったんだ。
だけど、自分のエゴで、たった一つの大切な存在を危険に晒し、あまつさえ守れずに何が≪王≫だ。
でももう後悔しても遅い。
俺は大切な存在の骸を右手に持ち、助けが来るまで零れ落ちる悼みの涙もそのままに吠え続けた。
助け出された時には左手はもう使い物にならなくなっていた。けれど俺はその時に決めた。全てを守る。誰にも恥じない≪王≫になると。
それからそれのことだけを見てずっと走り続けてきた。
勉学に励み、左手を失った事など補い余るほどの運動能力を身につけた。左手を失った事をどうこう言う奴は、実力を見せつけて黙らせた。
その努力も実り、正式な次期≪猫王≫としての座を手に入れた。
しかし気づけば俺は孤高の≪王≫になっていて、守るべき存在などいなかった。
前第二≪王≫候補が楽しそうに友人と話しているのを見て、羨んだことすらある。
俺の望んだ≪王≫の像に俺は向かってきた。そしてそれは叶えられたはずだ。けれど――どこで間違ってしまったのかと思う自分も確かにいた。
他人と慣れ合う術などわからない……。
この無くした左腕は、あの小さな命を守れなかった罰だ。他人と話すと、鈍く痛むこともしばしばあった程だ。
だから例えもう守る存在が出来なくとも、それも罰と受け入れよう。そう思っていた。
そんな事を思い出しながら、俺は横で膝を抱え何故か拗ねている存在を見た。
初めて会った時、俺が取り落とした本を拾って寄こした。こいつも左腕が無い事を憐れむつもりかと最初は睨んだが、どうやら左腕がない事に気付いたのは後だったようだ。
こんなに近くに他の存在があった事など久しぶりだ。これはあの小鳥の生まれ変わりだろうか……など、らしくない事を思ってしまって自嘲する。
けれどもまるで罪が少し軽くなった気さえした。
ただはっきり言えるのは、他人と話しても疼く事の無い左腕に俺は限りなく機嫌が良かったという事だ。
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