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食堂について、昼食は何にしようか迷っていると俺の上に影が落ちた。
(――雲?)
室内だから曇りも晴れもないのだけれど、とっさにそう思って上を向くと――ザインさんがいた。
「あ」
ザインさんは俺がいる事を分かった上で近づいていたみたいで、俺が気がついたことに対して微笑んだ。
「……飯か?」
「はい。ザインさんもですか?」
「ああ」
やっぱり大きい。人が周りにいると頭一つ、下手すると二つ分くらい高いのが分かる。……俺と比べると三つか四つはするかもしれないけど……。
「ナトリちゃーん決まったー?――って、げ」
「どうしたネクロ――って、うぉ……!」
何にするか決まったか、とこちらに近づいてきた二人とも俺とザインさんを見て何故か固まる。
そしてネクロは表情を強張らせ、二夜はさぁっと青くなった。
「あ、二人ともこの人ね【追いかけっこ】の時に――」
お世話になったんだよ、と言うよりも先にザインさんに言葉を遮られた。
「……ナトリ」
「はい?」
顔を見上げると、ザインさんは何だか色々な思いが入り混じったような表情で口端に笑みを載せていた。
それは微笑のようだが、嘲笑にも見え、自嘲にも取れる不思議でどこか寂しい笑み。
「……俺は向こうに行くな」
静かに微笑んで「また今度」と言いながら俺の頭を撫でると、ザインさんは背を向けて行ってしまった。
その背中が見えなくなると、時間が止まっていた二人がふぅっと息を吐く。
「びびびっくりしたぁ……」
「なんでこんなところに
小さく呟きながら全身で安堵を示す二人。
「ナトリちゃん、今のクマさんとはどういうかんけー?」
げっそりと疲れた顔でネクロが俺に訊く。
「え、【追いかけっこ】の時に、追手に追われていた俺を助けてくれた人……だけど」
それを聞いて二夜とネクロはあんぐりと口を開けた。
「
「助けた……?」
ネクロの語尾が伸びてない。そんな反応があるほど珍しい事なのだろうか。
「珍しい事なの?」
「いやいやいや、珍しいとかじゃなくて」
「……奇跡?」
そこまで!?
「んとねぇ、
「血の海!?」
日常会話では耳にすることのない表現に、声がひっくり返る。
血の海とか、ザインさんに一番似合わない単語だ。
「その縄張りも、一人一人物が違う。たとえば、半径三メートル以内が縄張りとか、精神面で縄張り作ってるとか……」
「つまりねぇ、一人一人地雷原が違うから、うっかりすると踏んでとんでもない事になりやすいって事ぉ。普段は大らからしいんだけどー……攻略が一人一人異なると、リスクを冒してまで関わりを持たないというかー。触らぬ神になんとやらー、だったからさぁ」
「だからミツル。お前がした事は地雷原に素っ裸で飛びこんだようなもんなんだよ」
良く助かったな……と呟く二人に俺も猛烈に頷いた。
本当、ザインさんが優しさの化身で良かった。
そんなこんなで、二夜とネクロの二人と過ごしていると楽しくて、あっという間に日々は過ぎていった。
そうしてこっちにきてから三週間ほどしたある日。ちょっとした事件が起こった。
それは二限目の休み時間に、トイレから帰る道のこと。
そろそろ教室に帰らなくては、と急ぎ足になっていた俺は誰かとぶつかった。丁度腕のあたりにぶつかってしまったようで、その瞬間にその人が片手で抱えていた本がばさばさと落ちる。
「わ、すみません!」
慌ててしゃがみ、拾い上げ、渡す。するとその人は思い切り睨みつけ、奪うように本を受け取ると去って行ってしまった。
「……そんなに怒らなくても」
もの凄い目で睨まれたものだから、恐怖や不満よりもなんだか理不尽な気持ちが残る。嫌な事はさっさと忘れようと頭を切り替えて教室に足を向け、ふと立ち止まる。
「何だこれ?」
俺の目線の先には綺麗なビー玉――というには小さすぎる玉が落ちていた。
小指の爪程の大きさのそれを拾い上げて見てみると、真ん中に穴が開いている。きっと糸か何かを通すんだろう。ふと後ろを振り返ると、数メートル先に色は違うがまた一つ落ちているのが見えた。
これはもしかしなくても、さっきの彼の持ち物ではなかろうか……?
俺は少し悩んだ。
あんな風に睨まれたのに拾っていくというのは、何か気が乗らない。というか、また睨まれたりするのは嫌だ。
でも、さっきぶつかった所為で千切れてこうなってしまったとしたら……。
ここは昼食時になると人通りが多くなる。こんな小さい物、皆に蹴られてどこか行って無くなってしまうだろう。
(――仕方が無いかぁ)
俺は向こうに落ちている玉を拾うと、まだ落ちていないか辺りを見渡した。
……もうこれで十五個くらいだろうか。
玉は等間隔とまではいかないけど、次にどの道を進めばいいか程度には落ちていた。
それにしても綺麗な珠だ。どうやら二色みたいで、透明なものと緑のものがある。
一つ一つに確かな重みがあるから、きっと安物のビーズとかではないと思う。一つ拾って、辺りを見回して、見つけて拾いに行く。
昔見たアニメみたいだなぁ、と俺は少し楽しんでいた。
それを何回か繰り返している内に、一つのドアの前につく。
「ここかな?」
ドアノブを捻り、開けると、そこには空が広がって心地良い風が吹いていた。どうやら屋上のようだ。
「道理でかなりの階段上がったわけだ」
ちゃんと帰れるのだろうか?と思うが今更だ。玉を零れない様に気を付けて周りを見回すと、黒いものが視界に入った。
出てきた扉のある建物の隅から、はみ出しているようなそれは、しっとりと黒くて、長くて、時々ゆらゆらと揺れていた。
(――尻尾だ)
滑らかに動くそれはとても興味をそそられる。そろそろ近づいて、触ってみようと手を伸ばし、後少しで触れるというところで。
「触るな」
冷たい声で制される。
「あ、すみません」
慌てて手を引っ込めて顔を上げると、そこにはさらさらと揺れる漆黒の髪と、段々見慣れた猫耳……というには少し丸みを帯びた耳、拾ってきた珠と同じ翠緑の鋭い目の冷たい美貌の持ち主がいた。
「何しに来た」
冷たくそう言うこの人に腹が立ってくるが、そこはぐっと堪えて「これ、貴方のじゃないですか?」と掌を広げて見せると、驚いているのか少し沈黙した。
「零れていたのか……。というより、わざわざ拾ってきたのか?」
零したという事は、俺の所為で千切れたという訳では無かったのだろうか。
……何だか損をした気分だ、と言ったら死んだ母さんに怒られそうだ。
「無くしたらもうみつからないサイズだと思って」
ご苦労な事だ、と呟く目の前の人に一瞬、拾ってきた玉を節分の豆撒きの要領で全部ぶつけたい衝動に駆られた。堪えろ俺。大人になるんだ俺。
彼は持っていた本を置いて、渡せと言わんばかりに手の平をこちらに向けて来る。
その時本を持っていた方では無い方の袖が、ぺしゃんこである事に漸く気付いた。
一瞬肩にブレザーを掛けているだけかと思ったが、右腕はちゃんと袖を通しているし、左腕が隠れているような膨らみが彼には見当たらなかった。
(――この人隻腕なんだ)
でもだからといって俺の中で扱いは変わらないのだけど。一瞬驚いた事で苛立ちが薄れたものの、渡されるのは当たり前、みたいな顔をしている彼にムカつきを再燃させて、俺は押しつけるように玉を全部渡した。
「それじゃ」と言って離れようとした俺を「お前、名は?」と礼も無しに引き止める、その傍若無人ぶりに流石にぷつんと来た。
いや別にお礼を言って貰いたくてやった訳じゃないけど、礼儀として一言くらいあったらどうなんだっ!
「知らない人に名乗る名前はありません!」
だからそう怒鳴ると俺は走って屋上を去った。
足音も荒く教室に帰って、苛立ちをぶつけてスパーン!とドアを開ける。……俺はすっかり忘れていたんだ。
「ナートーリぃいいぃ?」
既に授業は始まっていた事を。
授業後、何時ぞやのネクロの二の舞になって撃沈した俺を、二夜とネクロが心配そうに見に来た。
「大丈夫ぅ?」
「お前が遅れるなんて珍しいな」
その言葉を聞いてガバリと顔を上げる。
「聞いてよー!廊下で人とぶつかったら、その人落し物をしてて、俺の所為かと思って拾って行ったら、『拾ってきたのか、御苦労なことだ』ーって言われてっ!別にお礼が欲しかったんじゃないけどさっ、そういう態度ってどうなのさぁあ……!」
「うわー、ナトリちゃん、お疲れ様だねぇ」
イイコイイコとネクロに頭を撫でられて少しだけ落ち着く。
「どんな奴だ?」
「ううう……黒髪で黒耳で、緑の目の猫、さん」
途端、ピタリと二人の動きが止まって、ぎぎ、と軋むように顔をこっちに向ける。
「……ナ、ナトリちゃん……」
「……そいつ片腕無かったりする……?」
あれ何で知ってるんだろう。うん無かったよ、と頷くと、みるみるうちに二人の顔の血の気が下がっていった。
「……それ……」
「……俺らの王だ……」
「はい?」
おう?追う?負う?
「前、言っただろ……?ここの学校はグループの次期トップになる≪王≫を輩出してるって」
「その人は俺ら
あ、王ね。納得して、一拍。思い切り目を見開く。
「って、まじ!?」
「うん」
「ああ」
「ど、どんな人……?」
「プライドが高くて、他に冷たい」
「氷のような眼差しってあの事を言うんだよぉ……。王は何にかけても優秀でないといけないからねぇ……次期の猫王さんは歴代のなかでもそーとー強いとか」
「お、俺、その人に怒鳴っちゃった」
俺も合わせて三人で真っ白になる。
「ど、うしよ」
そんな、次世代のトップなんかに怒鳴ってしまって……。
色々な不安から少し涙ぐんで二人を見上げると、二人は急に真っ赤になって、がしっと肩を掴んできた。
「大丈夫だ、≪王≫はきっとそんな事覚えてない!」
「あの人、自分の関心の無い事すぐ忘れるタイプらしいし!」
「それになんかあったら、ま、守ってやるから!」
「だからナトリちゃんは安心して!!」
な、なんていい友達なんだ……!交互にそう言う二人に感動で泣きそうになる。
心を打たれた俺は二人の首に抱きついた。
二人は真っ赤になりながらさっきの満を思い出し、同じ事を思った。
(――さっきの涙目、やばかった……!!)
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