Pet Shop | ナノ


▼ 1


 深月みつきと出会ったのは、もう二年程前になる。

「深月」
「んー……?」
 コーヒーを淹れていた深月は、間延びした返事をして顔を上げた。垂れ目の彼は、いつもどこか微笑んでいる様に見える。
 手をちょいちょいと振れば、それは確かな笑顔に変わって彼はすぐにこっちに来た。
 すぐ、といっても深月が走る事はまずない。スリッパをパタン、パタン、と鳴らしながらゆっくりと歩いて、でも確実に。
「コーヒーもう入るよ?」
「うん」
 ソファーに寝っころがっている俺を、背凭れに腰かけて深月が覗き込む。
 その濡れた様な漆黒の瞳に笑い返して、茶色の髪に指を伸ばして撫でた。
 垂れ目で優しげな、けれど精悍さも漂う顔立ち。けれど深月は顔立ちよりも何よりも、纏っているオーラが際立っていた。
 まったりと、そこだけ時間が何倍にも伸ばされているような空気を深月は纏っている。
 それは遅さによる腹立たしさは皆無で、現代では余り見つけられないのんびりとした、相手を癒す空気。
 逞しい首に腕を伸ばして頭を引き寄せると、少し硬めな髪に鼻先を埋めた。
 そうするだけで、仕事や日常の些細な事で溜めたストレスが端から霧散していく気がする。深月は俺にとって、何にも代えがたいオアシスとなっていた。
 そんな深月と出会った切っ掛けは、本当に今でも信じられないくらい夢物語の様な物だった。




 何が一番の切っ掛けかと言えば、友人の従姉の親戚、というなんとも遠い縁の一風変わったお爺さんに、友人宅で開かれた茶の席で出会ったのが切っ掛けだったのだろう。
 それから数日経ったある日、俺はその人の屋敷に招かれた。

「やぁ良く来てくれたね、嬉しいよ」
 にこやかに笑って、杖をつきながら穏やかそうな老紳士が扉を開ける。
「とっておきの茶葉で茶を淹れよう。本当に嬉しい客人だ」
 絨毯が敷かれた廊下は足音を吸い取り、豪邸というに相応しい調度品が置かれた部屋へと通された。
 けれどどれも品が良く、ただ高いだけでは無い所が家主のセンスの良さを教えてくれる。
「近くにケーキ屋さんがあってね。店は小さいんだが、扉を開けると甘い匂いで満ちているんだ。そこのマカロンがとても紅茶に合うんだよ」
 勧められた椅子に座りながら、老紳士の話をぼんやりと聞く。
 差し出された紅茶も、作り物みたいに綺麗なお菓子も、どれも美味しいのにまるで夢の中の様だった。
 倖せで、華やかで、現実味が無い。

 カップをソーサーにおろしながら、どうして自分はこの老人と仲良くなったのだろうと記憶を辿る。
 たしか紅茶の話で盛り上がった様な気がするのだが……どうしてか漠然としている。
 ふと目を遠くにやって考え事をしていると、耳を鳥の鳴き声が擽った。
 そういえばやけにこの屋敷は鳥の声がする。――まるで、南国の島の様な。
「騒がしいだろう?」
「え?」
 老人に目を向けると、カップを傾けながら彼は微笑んだ。
「鳥の声が」
「ああ……ええ、そうですね」
「久しぶりの客人にどうやら興奮しているのだろう。どれ、君もちょっと来るかい?」
 立ち上がった老紳士の後ろを静かについて行く。
 部屋を出て、廊下を曲がった先に大きなガラス戸があった。ガラス越しに鬱蒼と緑が茂っているのが見える。
「入ったらすぐ戸を閉めてもらえるかな。悪戯好きな子もいるから、逃げてしまいかねない」
 その言葉に頷いて中に入ると、むわりと熱気が身体を包む。
 温室、と思った頭の上でピチチ、と聞いた事も無い鳥の鳴き声がした。バササ、と鳴ったと思ったら頭に何かが乗る。

「こらラテラ、お客様の頭に止まるなんて行儀が悪い。降りなさい」
「ラテラ?」
「ああ、この子の名前だよ」
 老紳士は困った様に笑うと頭の上に手を伸ばした。
 伸ばした手が戻ってくると、そこには鮮やかな真紅の胸に緑色の羽根を持った鳥が止まっていた。
「ケツァールという鳥でね、綺麗だろう?」
 愛おしそうに微笑むと、彼は腕を軽く上げてラテラと呼んだ鳥を羽ばたかせた。
「ここには色々な動物達がいる。鳥だけじゃない。蝶も、魚も。この部屋は熱帯用だけれど、別室には違う環境で生活する動物達もいる。私は動物達が大好きでね、彼らの幸せが何よりも嬉しい」

 確かに視線を動かすだけで色々な生物が目に入った。今も鮮やかな蝶が目の前を羽ばたき、名前の知らない鳥が囀る。大きな葉の陰には何か動物が隠れている様だった。
 動物園の様な、けれど動物園の様に檻で隔離されていない空間は新鮮で、興味深く辺りを見回す。
 そんな様子を見て嬉しそうに笑った老人は、指を指しながら動物の種類と名前を呼び始めた。名前は外国名だけかと思ったらそうでも無く、和名や、時折中国や、違う国の名前の様なものも耳に入った。
「さて……君はどの子が良いかな」
「え?」
「いやいや、こちらの話だよ」
 どこに何があるのか把握しきっているのか、老人はさくさくと前へ進んで行ってしまうが、こっちは歩こうにも葉が前を遮ってとても歩きにくい。
 ともすれば目に入りそうになる葉を手で避けた時、視線を感じて横を向いた。
 そこには、枝にぶらりとぶら下がっている大きな、獣が。
「う、わ……!」
 驚いて飛び上がりそうになったが、直観的にこれを怖がらせてはいけないと悟った。
 怖がらせたらこちらに飛び掛かって来そうだ、という訳では無く、怖がらせる事がこの生き物にとって良い事では無いと思ったのだ。
 大きいと言っても、中型犬くらいの大きさの、茶色と白の混ざった様な硬そうな毛の生き物。それは動物とは思えない程のったりとこちらを見つめ、やはりゆっくりと瞬きをした。

「すまない、先に行きすぎてしまったね……おや」
 付いて来ていない事に気付いて戻って来てくれた老人は、俺と枝にぶら下がっている生き物を見つめて面白そうに目を細めた。
「その子が気になるかい?」
「これ……あの、何ですか?」
「ナマケモノだよ、正式にはノドチャミユビナマケモノ」
「ナマケモノ……」
 なるほど、確かに動作が鈍い。
 漆黒の瞳でじっとその生き物はこちらをみると、ゆっくりと、本当にゆっくりと、鉤爪のついた手を片方こちらに伸ばしてきた。
「おや……おやおや、これは。深月が興味を示すなんて本当に珍しい」
 ミツキ、と呼んだそれはこのナマケモノの名前だろうか。
 老紳士はまるで赤ん坊が初めて立ち上がった時の様に嬉しそうな声を上げると、そのナマケモノに視線を合わせた。
「深月、お前はこの人が良いのかい」
 ナマケモノは勿論喋りはしない。けれど、ゆっくりとした瞬きを見つめて老人は何度か頷いた。
「そうかそうか……。……高瀬たかせ君、君にお願いがあるんだが、深月を暫く預かってくれないかい?」
「……はい?」
 俺が?このナマケモノを?
 突然の事で目を瞬かせる。
 家のアパートは確かペット可だったが、そういう問題では無いだろう。犬や猫、小鳥ならばいざ知らず、ナマケモノだなんてどう世話をしたら良いのか分からない。

「なに、止まり木はこちらから貸してあげられるし、餌は結構色々な物を食べるから、食べさせないで欲しい物をリストアップした物を渡しておこう。そもそもナマケモノは余り食べないから、あまり心配はいらない。ただ、部屋の暖かい所に置いてやってくれないかな、この子達は哺乳類だが変温動物なんだ」
 ポンポンと進んでいく話を慌てて両手を振って遮った。
 そんな、困る。生態も知らない、ろくに見もしない動物の世話なんて到底出来る筈が無い。病気や怪我をさせたり、下手をして殺してしまったらどうするんだ。
「大丈夫だよ、世話の事は心配しなくて良い。万が一にでも怪我をさせても、私は君に責任を問う事はしないと誓おう。ただこの子を、ちょっとの間だけで良いんだ。預かってはくれないかい?」
「そ、そんな事言われても……」
 困って目を泳がせると、老人の後ろのナマケモノと目が合った。
 とても穏やかな眼差しでこちらを見つめている。その穏やかさに惹き付けられて、数秒間見つめ合うと、俺は口を開いていた。
「……本当にちょっとの、間だけ……なら……その、良いです、けど……」
「本当かい!そうかそうか、いや嬉しいなぁ」
 老人は本当に嬉しそうに顔を輝かせると、ナマケモノの方に身を屈めて両脇に手を入れると抱き上げた。
 そして、なされるがままのその動物をこちらに差し出す。
 半ば押し付けられて、慌てて人間の赤ん坊を抱き締めるようにその身体を受け取った。
「けれど……そう、もし離し難くなったなら、君の傍にずっと置いてくれても構わないんだよ」
 そうまるで呪文の様にそっと囁いたそれが、冗談なのか本気なのかは微笑を浮かべた瞳から探る事は出来なかった。


 それから、気付いたら自分のアパートに戻っていて。
 まさか白昼夢でも見ていたのか、と思ったけれど車の後部座席にはナマケモノが入っているケージがちゃんとあった。
 けれど、今更、本当に今更あの老人の名前を知らない事を思い出し、そしてあの館の場所もうろ覚えな事に気付いた。
 あの老人は「万一、怪我をさせても責任は問わない」と言っていたが、もしかして飼えない様な動物を押し付けておいて、弱った所で引き取りに来て、医療費を要求する様な新手の詐欺では無かろうか、などと嫌な考えが頭を過ぎる。
 連絡を取ろうにも電話番号も住所も知らず、俺はナマケモノの入ったケージを抱えて真っ青になったのだった。

 ――だからと言って放っておくわけにもいかず。溜息を零しながら部屋にナマケモノを運び入れた。ちょっと広い部屋を借りている事に感謝をする。
 借りた止まり木もセットし、張り出した枝に恐る恐るナマケモノを近づけると、腕を引っかけてぶら下がってくれた。
「えっと……深月、だったっけ、お前の名前」
 腰を屈めて目線を同じにして話しかける。
勿論言葉が分かっているとは思わないけれど、こう行った時に話しかけてしまうのは誰でもある事では無いだろうか。
「お前も災難だよなぁ……」
 誰が一番の被害者かというと、自分と同じくらいにこの動物も可愛そうなのだ。
 飼育に慣れていない相手に面倒を見られるハメになり、さらには環境も変わってストレスも感じているだろう。本当に詐欺の手口に使われていたら、更に可哀そうだ。
「あの人、悪い人には見えなかったけど……」
 いや、悪い人に見えないなんてなんの理由にもならない。
 溜息を吐きながら、身体に対して結構小さめの頭を軽く撫でてやる。
 深月――という名のナマケモノはそれにゆっくり目を閉じると、手の平に頭を擦り付けるような仕草をした。
「えっ」
 ゆっくりとだけれど、確実にすりすりと動いている頭に、途端にぶわっと胸の内に愛着が湧く。閉じられた目はどことなく気持ち良さそうにも見えて、何だかとても可愛い生き物に見えて来た。
「あっ、あっ、そうだ」
 取りあえず、初日の分の餌だと、老人に渡されたジッパー付きのビニール袋に入れられた葉を取り出して、口元に持って行ってやる。
 すると、やっぱりゆっくりだが、深月は迷うことなくモシャモシャとそれを食べ始めた。
「た、食べた……!」
 奇妙な感動を抱きながら、結構ナマケモノも悪くないと思い始めていた。


 けれどそんな和やかな空気は、深月が来た次の日の朝にはぶち壊された。
 何故なら止まり木にナマケモノはおらず、その代りに全裸の男が止まり木の下で寝ていたのだから。
「おおおおおいお前、何してんだよ!?てかどこから入った!?それより前に服は!?」
 男が目を覚ます前に警察、とか思うよりも先に俺はその場で絶叫をした。
 鍵に関しては神経質だからまさか閉め忘れたなんて事は無い筈だ。じゃあこの男はどこから入って来た?窓を割って?鍵を壊して?ナマケモノは、深月はどこだ?
 部屋を震わせんばかりの絶叫に全裸の男は呻くと、眠そうな顔をして身体をのそりと起き上がらせた。
 やけに幼い仕草で目を擦って、とろんとした目でこちらを見る。
 そして嬉しそうに頬を緩めると「たかせー」と俺の名前を呼んだのだった。




 何故か俺の名前を知っていた男に、とにかく服を着させようと持っていたフリーサイズの服を着させると、テーブルを挟んで話を聞く。
「で、アンタどうしてここにいるの。服はどーしたの。俺アンタと会った事あったっけ?覚えてないんだけど」
「んー……」
 矢継ぎ早で質問をすると、両手で湯気の立っているホットミルクの入ったコップを包みながら男は小首を傾げた。
 ホットミルクは俺が出してやったのだ。かなりの間全裸だったのか、容量悪く服を着るから手伝ってやった時に触れた肌が余りにも冷えていたから仕方なく。
「僕がここにいるのは、たかせが連れて来てくれたからだし、服は元々着てなくて、たかせと会ったのは昨日だよ」
「は?俺は昨日は――……」
 そこまで言ってざぁっと血の気が引いた。見知らぬ男に気を取られていたばっかりに、ナマケモノの事をすっかり忘れていた。
「み、深月!」
「うん?」
「な、ナマケモノ!お前ナマケモノ見なかったか!?あれ預かったんだよ、どこ行ったんだ……!?」
 テーブルの下を覗き込んだり、台所に駆けて行ったりしながら大声で男にも聞く。
 逃がしていたりしたら本当に洒落にならない。ナマケモノっていくらするんだ。
「たかせ、僕はここにいるけど……」
「ま、まさか、お前あの老人と手ぇ組んでて、深月盗んで知らんぷりして、俺に賠償金を払わせようと……っ!?」
「僕が深月なんだけど……」
「……はぁ?」



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