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オリウルが見えなくなってからも、未練がましくあの場所へは足を運んだ。
いつの間にかぽつりと置いてある綺麗な花や羽根、石を見ては、オリウルが持って来てくれたのだろうかとそれを悲しい目で見つめた。それが見えたって、それが触れたって、オリウルは見えない。オリウルは触れない。触る権利が無い。
(――ごめんね、ごめんね、約束破って)
行くと言ったのに、行けなかったあの夜。
未練をいつまでも引きずってるのは辛くて、そしてオリウルにも申し訳なくて。もう忘れて欲しいと、そこにいるのかも分からないオリウルに呟いてから、森に行かなくなってどれだけの歳を重ねただろう。
歳を重ねる分だけ自分は汚れて浅ましくなっていって、もっとオリウルに相応しくない人間になってしまった。
それを解っているのにあの場所に行ったのは何となくだった。
過去の思い出となってしまったあの場所。心地よい記憶に浸って、名前を口の形だけでなぞって、それだけで心が軽くなった。
そこにオリウルの噂だ。
また再び会えないかと。そんな淡い期待を抱きながら、あの時以上に汚れた自分に会える訳が無いと自分で否定して足を運んだあの場所で、まさか子供に出会うとは。
真っ裸のその少年を見た瞬間、声を掛ける以前に凄い勢いで村に服を取りに行ってしまった。その少年がただ服を脱いで遊んでいただけかもしれないのに、だ。
服と体を拭く布を抱えて戻ってくると、彼は道の真ん中で蹲っていて、慌てて抱き起すと何故か出会った時よりも汚れが酷く、膝を擦りむいていた。
静かに泣く少年は抱き起した僕の首にその細い腕を巻きつけると、肩に顔を埋めてなんども頬を擦り付けてきた。
「これで良いかな。痛くない?」
質問に小さく頷く少年をまじまじと見る。水浴びをしていたら服が無くなっていたのだと言ったその少年は、肩に付くか付かないかの長さの髪は白く、瞳は薄い灰色という村では余り見ない色彩をしている。
釣り上がり気味のその目も、どこか強気そうなその顔も村では見たことが無かった。
そもそもこの瞳を見ても煩く騒ぎ立てたり、避けたりしないという事は、村のしきたりを知らない子だという事だ。
「村の子じゃ、無いよね?」
「……もりから、きた」
「森?森にお家があるの?」
どこか気まずそうに目を逸らすその子は、もしかして家出でもしてきたのだろうか。
しかし森に住んでいる人なんて聞いた事は無いし、もしかしたら旅の途中のどこかの村の人が借り小屋を建てたのかもしれない。この子はその連れ子か何かだろう。
言いたくないのなら無理に言わせるつもりはない。ただ、親御さんが心配しない内に帰った方がこの子の為にもなるだろうと思った。
「そっか。暗くならない内に帰るんだよ?」
静かに頷いた少年は久しぶりの子供の可愛らしさで、思わず笑みが零れる。その瞬間ぱっと少年の顔が輝いた。
嬉しそうに目を細め、手を伸ばして頬に触れてくるその仕草がやけに大人びていて、思わずどきりとする。
見た目は八、九歳なのだけれど、実質彼はいくつなのだろう。と不思議に思った。
「え、えっと、君、なんて名前なのかな?」
「……キーオン」
「キーオン。僕はナツラっていうんだ」
静かに頷いた彼はまた何かを言いたげな目で僕を覗き込むと、
「ナツラ……」
まるで万感の思いを込めるような声で名前を呼ばれた。
「――っ!」
ばっと顔が赤くなるのが分かる。
何で、何でそんな風に名前を呼ぶんだ。そんな風に名前を呼ばれた事なんてない。
子供特融のまだ幼く高い声なのに、甘さのあるその声でそんな風に呼ばれたら変に心臓が走ってしまう。
(――この子、将来凄いタラシになるんじゃ……)
そんな事を考えながら遠くを眺めていると、不思議そうな顔でキーオンが覗き込んできた。
「ナツラ……?」
「あ、ううん。その服僕が小さい頃に着てたやつなんだけど、ぴったりで良かったなぁって」
慌てて話を変えると、ふっとキーオンは微笑む。
「ナツラのにおいがする」
「なっ、僕の匂い?」
頷いて嬉しそうに袖に鼻を押し付けるキーオン。僕ってそんな匂ったのかとちょっとショックを受けていると、村の方で自分の名前を呼ばれているのに気付いた。
「っあ、僕もう行くね、じゃあねキーオン」
そう言って背を向けようとしたら、ぐっと後ろに引っ張られる。
振り返るとキーオンの手が服の裾を握っていて、必死な形相でこちらを見ていた。
「あしたもくるか?」
「え?」
「おれは、俺はずっとここにいる。まってる。だから……」
その言葉と昔の自分が重なって、心が酷く揺らいだ。
思い切り握り締めるキーオンの手をそっと包んで、汚い自分に出来るだけの綺麗な笑みを浮かべてみせる。
子供は綺麗だから。純粋だから。自分のこの穢れがばれないように。
「……明日も来るよ」
「!ほんとうか?」
「うん、だからキーオンもお家に帰りなね?お父さんお母さんが心配してるよ」
「まってる、ナツラ」
「うん」
何度も頷きあって、手を振って別れた。
あの子はきっと明日本当に待ってくれるのだろう。――なら行かないといけないよね。待たせたら可哀そうだから。
心の底からの本当の柔らかい笑みを久しぶりに浮かべる。彼を思っていれば、村に帰って行われる事も少しは楽に感じれそうだった。
ごろごろと白い虎が地面で身悶えている。
ぐるぐるという機嫌の良さそうな音は、絶え間なくその喉の奥から発せられ、細められている目は本当に嬉しそうだ。
『あのねぇ。そろそろお止め、みっともない』
『ああ、ナツラ、大きくなっていた。声も少し低くなっていたな。でも優しく、暖かい所は変わっていなかった。久しぶりに笑顔を見れたぞ。それだけじゃなく、約束もした。明日また会える……!』
『どれだけ惚れ込んでいるんだい』
溜息混じりの声も耳に入らないくらいオリウルは浮かれていた。
再びナツラの瞳に映っただけでなく、言葉を交わし、再び会えるとは。
気持ち悪いくらいに緩んだ顔をした虎は、ただただ明日に思いを馳せていた。
「……また大きくなった?キーオン」
ある日あの場所で会うなりナツラは不思議そうに聞いてきた。
育て親に言われた通り、人間の姿になる度に体は歳を重ねていた。おかげでもらった服はとうの昔に丈が短くなり、肩幅などが若干きつい。
どう見ても出会った時から一、二歳は歳を取っていて、それは七日間という日数では考えられない成長だった。
「あ、お、俺……」
一体どう言い訳していいのか分からず目を泳がせ、口籠る。
人間ではありえない症状を、ナツラが不思議に思わない訳が無い。
それが自分がオリウルと分かる糸口になってしまったら大変だ。この身体はまだまだ歳を取るだろう。これからも使える言い訳は……。
「……びょ、病気なんだ」
「病気?」
「……その、としを早くとる病気。不思議な病気だから、前にいた村にいられなくなって、それにきく薬をさがして――」
苦し過ぎる言い訳だが、ナツラの瞳を見る限り、疑っている用ではなさそうだ。
胸元の布を掴んで眉根をよせて一気に喋る。嘘を吐いている心苦しさからそんな態度を取っていたのだが、ナツラにはそれが悲しい事を思い出している故の態度に映った様だ。
はっとした表情を浮かべた後、目に悲しげな色を浮かべる。
「そっか……家に丁度良い服無い?良かったら僕また服持ってくるからね」
「あ、ありがとう……」
もごもごと礼を言うと、ナツラが腕を広げて抱きしめて来た。
初めて誰かに包み込まれる温かさに、ぎょっと身を強張らせる。
「病気なんだもん、仕方ないよね。大丈夫だよ、何もおかしくないよ。キーオンはキーオンなんだから。何か力になれる事があったら何でも言ってね、出来る事は何でもするから」
暖かい声音に心が震えた。
(――それはお前が言って欲しかった言葉なのではないか)
ナツラが一つ一つ大切そうに口にする言葉に涙が出そうになった。
優しいナツラ。幼いお前と会えなくなって、傷を癒してくれる存在はちゃんといたか?
毎日毎日泣き暮らしていなかったか?
村でもちゃんと笑っていたか?
その言葉を誰かに言ってもらえたか?
今、その傷はちゃんと癒えているか?
そう聞きたいのに、自分がオリウルだと分かってナツラに再び見えなくなってしまうのが怖い。
ナツラを泣き止ませたいだけなんて嘘だ。
(――本当は、その美しい色の瞳に再び自分を映して欲しくて欲しくて堪らなかった)
身を焦がすような思いにつける名前を自分は知らず、ナツラの胸に顔を埋めるくらいしか出来なかった。
『あんた、そりゃ恋だよ。むしろ今まで気づいて無かったのが驚きだね』
「こい?」
人間の姿のまま樹に止まる赤い姿を仰ぎ見る。
ナツラに新しくもらった大きい服に袖を通しながら初めて聞く名前を繰り返した。
(――良し。それなりにゆとりもあるから、当分これを着続ける事が出来るだろう)
『何だい、恋も知らないのかい。あんた、その人間の子が大切なんだろう?』
「ああ」
『誰よりも、何よりも』
「そうだ」
『笑顔が見たくて、そしてその笑顔が自分に向けば猶更良い』
「ああ」
『むしろその笑顔が他に向けられるのが嫌なんじゃないかい?』
「……そんな事は」
ナツラがあの笑顔を村の人間に向ける。それは喜ばしい事だ。……だが。
「……少し、だけだ」
その笑顔を独り占めしたい気もする。
ナツラの笑顔は可愛らしい。他の誰かが自分と同じような気持ちになるのは――……。
……何だ、この腹立たしい気持ちは。
何だか酷く自分が醜い生き物の様な気がして少し俯く。
『それが恋だ。あんたが今少し苛々したのは、嫉妬したからさ。その人間の子が自分以外の誰かに笑顔を向ける事に』
その言葉に、無言で返す。
『特別な好きという気持ちが“恋”だ。そんな想いがなければ人間になってまでその瞳に映りたいだなんて思うわけないだろう』
「……なぁ」
『何だい』
「……じゃあ俺はいつからナツラに“恋”をしていたんだ」
『……のろけは十分だよ』
「ナツラ」
「うん、何?」
目を細めて返事をしてくれるナツラに少し胸が高鳴る。
昨日あいつがあんな事を言ったから妙に意識せざるを得ない。
「……なんでもない」
「ふふ、キーオンどうしたの。さっきから変だよ?」
ナツラは笑みを浮かべると手の中で弄っていた花の塊をはい、と俺の頭に乗せた。
「出来た、キーオンにあげる」
手をやってそれを触る。
何だか輪になっているような感触にそっとそれを頭の上から下ろしてみると、白い花を軸に色とりどりの花が編み込まれた輪だった。
――オリウル、あげる。――
ぱっと昔の光景が思い出される。
昔、幼いナツラもこうやって花輪を作って俺の頭に乗せてくれた。
あの時に比べてもっと形が良く、色の配置も良い。上手くなったな、と口にしようとして慌てて噤む。
「うん、キーオンに似合う」
明るい笑顔を浮かべたナツラにまた胸が強く脈打った。
手を伸ばし、今貰った花輪をナツラの頭に乗せる。
「――ナツラの方がきれいだから、似合う」
綺麗だ、お前の心は眩しい程に。そう思いながらふっと笑うとナツラの顔が驚きの表情を浮かべ、そして曇った。
「……僕は綺麗じゃないよ」
「なぜ?きれいだ」
「……キーオンは僕を知らないからそんな事を言えるんだよ」
その言葉に思わずカッとしそうになる。
俺はお前の幼い頃を知っているんだぞ。お前はあの時から優しく、綺麗な心の持ち主だった。
「知らない……?」
そう呟いたのが聴こえたのか、はっとナツラはこっちを見た。
「キーオ……」
「俺のことも知らないじゃないか……っ」
わなわなと拳が震える。ナツラが自分を卑下するのが堪らなく嫌だった。
(どうして、お前は……っ)
「キーオン、落ち着いて。ね、ごめんね。ちょっと村での事を思い出しただけ。ごめんね」
慌てて謝るナツラが憎い。何だ、その言いぐさは。まるで俺は関係ないとでも言うかのように。
「……じゃあ、俺に教えればいいだろ…っ知らないって言うなら、全部……!」
そう言った瞬間にナツラが息を呑んだ気がしたが、その場にいるのが絶えれなくなって背を向けて森の奥に走り出した。
これ以上この場にいたら自分がオリウルだと言ってしまいそうで。
背でナツラが呼ぶ名前を聞きながら、振り切る様に走った。