Novel | ナノ


▼ 4


『……だから言いたくなかったんだよ。あたしも大分凹んだからね。……でもそれで諦める程、その人間がどうでも良い訳じゃないんだろう?』
 そうだ。俺がどんな存在であろうと、ナツラに会いたい。会って――。
『あいつの涙を止めてやりたいんだ……』
 ――泣くな、ナツラ。愛しいナツラ。お前が泣くと俺まで悲しい。
『……さて、本題に戻るよ。あたし等は獣の姿をした森の精気そのものだ。それは分かったね?そこに人間みたいに強い意思を持つ生き物の強い思考が加わると、時にこちらの体にも影響が出る。だからあんたはその人間の子に触れなかったのさ。“お前に触ってもらえる訳が無い”とでも思ったんだろうね』
『何がそこまでナツラを』
『分からんね。そこでだ。その人間の子はあんたが見える事を信じられなくなったんだろう?
なら解決方法は簡単だ。あんたが白い虎以外の姿になれば良い』
『……は?』
『言っただろう?あたし等は動物の腹を借りて、その動物の姿をした森の精気だと。あんたはたまたま偶然虎の腹に宿っただけで、蛇の腹に宿っていれば蛇になっていたかもしれない。この姿はいわば借り物なのさ。生まれた時に身に着けていたものだからこれが自然体になっているだけで、意識すれば違う姿にもなれるはずだ。そうだろう?』
『そう……なのか?』
『そうなんだよ。ただ、長年この姿を取り続けて来たし、これが普通だと思い込んでしまっているからね。違う姿になるのは大変だよ。なり方には二つ方法がある。なりたい動物の細部までを意識し、長い時を掛けて変化するか、またはなりたい動物の一部を取って、それを身の内に取り込むか……後者は前者に比べて早いが、お勧めしないね。何かしら失敗したり、痛みを伴う場合が……って、ちゃんと話は最後までお聞き!』
 張りのある声を背に村から森に入る付近の道へと急いだ。
 あの場所には時折人間が通る。ナツラに触れる事は出来なくても、他の人間なら接触もきっと可能だろう。
 茂みの中に身を潜めると人間が来るのを待った。

 数時間もしない内に一人の人間の男が通りかかった。狩りの時の様に息を殺して見計らい、地面を蹴る。
「ん?うわぁあああぁあっ!?」
 絶叫する男を爪を収めた手で押し倒すと、その髪を一房口に入れて思い切り引っ張った。
 危害を与えるつもりはない。だから出来るだけ丁寧に接してやったのに、情けない事に白目を剥いて泡を吹いていた。
『情けない』
 ブチブチと音を立てて引っこ抜いた髪を口に咥えて、悠々と俺は森の中に戻っていった。





「お、大婆様!」
「何ぞえ、五月蠅い」
「お、お、オリウル・タルグ・ヴィヌアが、トカトに襲い掛かったと……!」
「白の虎が?それでトカトの命は」
「命に別状は無いですが、酷く怯えていて……」
「……白の虎は神の使い。トカトを襲ったのは裁きだ。生きて罪を償えと。トカトを地下牢へ連れてお行き。そこで己の罪を贖わせるのだ」
「はっ」
 その話は村に瞬く間に広がり、ナツラの耳にも入ってきた。
「オリウル……」
 懐かしい名前に胸がこんなにも切なくなる。
 服の胸を握りしめながら、微笑みとも泣き顔ともつかない表情を浮かべて彼に思いを馳せた。何故彼はトカトを襲ったのだろう。何かきっと理由があったに違いない。
(――トカト……トカト、ああ、あの人か)
 顔を思い出した途端、ナツラの目から生気が消えた。
 そこにあるのは重い気怠さ。
 自分より濃い茶色の長髪に、厭らしい笑みを浮かべる人だった。乱暴に扱われ、次の日動けなくなる事も多々あったくらいだ。
(――……トカトだけじゃない)
 穢れを掃いに来る男は誰一人優しくなんて扱わない。何故なら呪われ子はもう既に汚れているから。汚れつくして、いつ壊れたって良い存在だから皆乱暴に扱うのだ。
 ナツラは大人になった体躯を屈め、静かにベッドに敷いてある粗末な布の皺を伸ばした。
 ここが自分の主な仕事場だ。ナツラの、呪われ子の役目とは、男性に抱かれ、その穢れをこの体で拭う事。
 大婆様の「灰汁取り紙」の意味がこの役目を任されてしばらく経って、良く分かった。
 この村の成人した男性全員と言っても良いくらいの人間が、一度は自分を抱いた事があるだろう。
 毎夜毎夜――最近では夜だけではないが――穢れを掃う為に村の男がこの部屋を訪れに来る。
 このことは女子供には知らされていない。大婆様とその側近の人間、そして村の男達の暗い秘密なのだ。
 公認された性奴を村の男性は罵り、嘲りながら抱いた。
 最初は毎朝毎朝泣いた。受け入れた穢れを清めるようにと言われて与えられた井戸の水で体と白濁を流しながら、悲しくて仕方が無かった。
(――今では違う)
 泣いたって何も変わらないと分かった日を境に、自分は泣かなくなった。むしろ浅ましくこの村の外れの小屋の中で男を銜え込み、厭らしく声を上げる。自ら腰を振り、早く満足して帰ってもらおうと思いながら自分も快楽を得た。
 自分を嘲るような笑みを口の端に浮かべたその時、小屋の戸を荒く叩く音が現実に自分を引き戻した。
「――はい」
 戸を押して開きながら、ナツラは淫らな空気を放つ笑みを外に立っている存在に向ける。肩を強く押され、後ろに押し倒されながらナツラの目は欠けた月を眺めていた。




『で、これを食えば良いのか?』
『……迷わず人間を選んだね、あんた。それも髪の毛とはまた食べにくい所を……まぁ気持ちも分かるけどね』
 咥えた毛を育て親に見せると、ほとほと呆れたと言わんばかりの顔をされた。
『で、食えば良いのか?』
『食べるだけで変わる訳が無いだろう。そんな事をしていたら毎回毎回食事の度に姿が変わるだろうに。……こっちへおいで』
 面倒臭そうに赤い翼を広げると、育ての親は枝伝いにどこかへと飛んでゆく。その後を追って森の中を歩いた。
『――ここだよ』
 翼で指し示されて着いた場所は、広く澄んだ水が広がる池。今まで一度も来た事の無いそこは、清涼な空気が広がっていた。足元をみると小さな魚が泳いでいる。
『ちょっと待ってな』
 育て親はそういうなり翼を広げ、池に飛び立つと、池にぽつぽつと幾つか咲いている薄い花の一つを嘴に咥えて戻ってきた。落とされたそれを見て、顔を上げる。
『それと一緒に食べるんだ』
『この花と?』
『その花はこの池でしか咲かない花でね、こいつは森の精気を糧にして咲く花なのさ。これを媒介に森の精気を体に取り込んで、一緒に動物の一部を口にすれば姿が変わる。ただし、強く意識するんだよ。なりたいと』
『……分かった』
 一つ頷くと、育ての親はナツラに会っていた場所の近くまで行けと言った。
『何故だ?』
『今この場所で人間の姿になったらそこに行くのに一体どれだけ時間がかかると思うんだい。ただでさえ人間の足の裏は柔らかく、鼻はろくに利かない。迷うのがオチだよ』
『なるほど』
 花と人間の一部を咥えて、言われた通りナツラと過ごしたあの場所へと向かう。
 傍まで来るとそわそわと尾を動かし、耐え切れずに花と毛を口に入れて咀嚼した。毛は別に美味くもなんともないが、花は噛むなりその小ささには似合わない咽る程の甘い匂いが咥内に広がる。
『元の姿に戻る時は簡単だ。その姿を思い描くだけで良い。長年取り続けてきた姿は体が覚えているからね』
『そうか。……それにしても、お前は何でも知っているな』
 飲み下した後そう言うと、育ての親は澄ました顔で『あんたとは生きてる時間が違うのさ』と言った。


『それにしてもまぁ、なんて可愛らしい姿になっちまったんだい、白い虎』
(――これはどういう事だ!)
 育ての親が面白そうな顔で俺を覗き込む。
 その顔を不機嫌に眺めた後、思い通りに動かない体でぎりぎりと歯ぎしりをした。
 あの後、突然全身を襲った痛みに意識を失い、目が覚めると人間になっていた……のは良かったのだが、
(――どうして幼子の姿なんだ!)
 水面に映った姿は白い髪と薄い灰色の瞳をした人間の子供で、出会った頃のナツラ並みに幼い姿に仰天した。
 おまけに何だか二本足で立つというのが酷く違和感を感じて、思わずその場で四つん這いになってみたのだが、やはり何だか違う気がする。
 人間の体というのは四足には慣れていないのだろう。
『だから言っただろう?後者の方法では痛みも伴うし、失敗する事もあると。あんたの場合、接してきたのが人間の子供が主というのが失敗の原因じゃないかい?……まぁ、多分時間が経てばそれ相応の歳の姿になれるだろうよ。取りあえず、きちんとその足で立てるようになってから、その人間の子に会いに行きな』
 小馬鹿にされた物言いに俺は再び歯軋りをした。

 かなりの時間を掛けてぎこちなくはあるが立ち上がる事が出来た俺はふらふらと歩き始める。
 ナツラはいつくるか分からない。でも、再び来てくれたんだ。もう一度会える可能性は無くも無いだろう。
「じゃあ、もう行く」
『言葉も操りにくいとは、災難だね白い虎』
「うるさい、わらうな」
 一度思い切り睨むと、おお怖い怖いと芝居がかった仕草で身を竦める育て親。
『あんた、その人間の子に会えたらなんて名乗るつもりだい?』
「オリウ……あ」
 それでは本末転倒だ。ナツラが“オリウル”という存在を見る事が出来ないと信じている以上、自分がそうだと分かってしまったら再び触れなくなってしまうかもしれない。
『やっぱり考えてなかったかい。……白い虎、最後にあんたに名前をやろう。≪キーオン≫どうかお前に幸あれ』
 そう言って翼を翻して去って行ったその背中を眺め、感謝を捧げると、俺は茂みを抜けてあの場所に向かった。


(――いや、会える可能性が無いとは思っていなかった)
 だが、まさか茂みを抜けた瞬間に出会う事になろうとは。
 きょとんとこちらを見ていたナツラは瞬く間にびっくりした表情を浮かべた。
(――ナツラが、俺を見て表情を変えた……!)
 それだけでこんなに嬉しいとは。思わず喜びに身震いして、おそるおそる手を伸ばそうとしたら、ばっとナツラは俺に背を向けて走り出した。
「……え……?」
 予想外の反応にどう対処すればいいのか分からない。
 どうして。この姿は人間で、俺が俺である事なんて分かりはしないのに。慌てて後を追おうとしてふらつく足は縺れ、思い切りそこで転んだ。
 地面に打ち付けられる痛みなんて久しぶり過ぎて目を白黒させる。
「……ぁ、ラ……」
 避けられた。逃げられた。
 その事が悲しくて悲しくて、涙が滲みそうになる。
 ああ、泣いたことなんてないのに。これはこんな歳の姿をしているからだろうか。だからこんな簡単に涙が――。
 ぐしりと鼻を啜って、立ち上がるとよたよたと道を歩き出す。追い付くとは思わない。でも、もしかしたら立ち止まっているかもしれない。そうしたら――。
 ぽろぽろと頬を伝う雫を無視して足を進めると、道の途中でバチッと音を立てて弾かれた。
「――っ!?」
 もんどりうって転がり、全身に走った衝撃に耐える。
 どうして、と思った脳内に以前育て親が口にした『どうして胎児が母親の腹の中から出て臍の緒を千切って散歩しようなんて思うもんかい』という言葉を思い出した。
 これが、俺の行動出来る限界の範囲。地面に爪を立てて、悔しさと悲しさに奥歯を噛みしめた時。
「はっ、はっ、あ、いた!」
 自分よりずっと大きな手が俺を抱き起した。
「ごめんね、君何も服つけて無かったから……村に走って取りに行ってたんだ。うわぁ、泥だらけだね。汚れを落としてから服を――ああ、泣かないで」
 滲む視界にはあの綺麗で不思議な色彩の目と、薄茶色の長い髪。
 ずっと、ずっと触れたかったその人そのもので。両目から零れる涙は止まる事を知らなかった。



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