Novel | ナノ


▼ 3


 それから毎日あの場所へ通った。
 ナツラはあれからという物、前の様な頻度でこの場所に来る事は無く、五日に一、二度いるかいないかで、いたとしてもいつも泣き腫らした目をしていた。
 それを尾で撫でてやりたいのに。声を掛け、いつもの様に体に顔を埋めさせてやりたいのに出来ないもどかしさに、気も狂わんばかりだった。
「オリウル……」
『俺はここに居る。ナツラ、ここに居る……っ』
 ナツラが縋る様に呼ぶ名前に応える為に何度も吼え、すり抜けてしまうそれを無駄と分かっていながら抱きしめようと体を寄せた。
 満月の夜以降更にナツラの足は遠ざかり、三ヵ月後、ふらりと現れたナツラの短い袖から覗く腕には包帯が巻かれており、目には生気が無くなっていた。
『ナツラ』
「オリウル、ごめんね……ごめんね……」
『何故謝るんだ、ナツラ。ナツラ、俺を何故見ない』
 相手に届くはずの無い会話を何度も繰り返し、その虚しさを噛みしめる。
 ふと、自分が此処にいるという事を知らしめる何かがあれば良いのではないかと思いつき、毎日何かを咥えて持って行くようになった。
 それは森の深くで咲く可憐な花であったり、川底に光る美しい石であったり。
 しかし地面に置いてあるそれを見つける度に、ナツラは悲しげに顔を歪めた。
 それは季節がぐるっと一周するまで毎回毎回続いた。



『今日は奥地に咲く花が付けた実を持って来た、これなら見えるか?芳しい香りだろう』
「オリウル……」
『ナツラ、俺はここにいる。ナツラ……頼む、俺を見てくれ……』
「ごめんね……ごめんね、オリウル……もう、僕の事は忘れてね」
 その言葉に心にびしりと音を鳴らして罅が入った気がした。
 ずっと頭の隅では諦めている自分がいた。もう、無理なのだと。
 しかしそれを認めたくなどなくて、ずっとこうやって――……。
『……っ何故だ!何故だ、ナツラ、おい!!何故、どうして……!!見ろ、俺を見ろ!俺はここに居る……!!ずっと、ずっと……っ』
「ごめんね、僕が悪いんだ。ごめんね……ごめんね……っ」

 その日からナツラはここに来なくなった。
 それでも俺は待った。雨の日も雷の日もただずっと待ち続けた。彼は俺に言ったから。俺を信じ続けると。




『ったく、老体なのに飛ばせるんじゃないよ』
 頭の上の枝に聞きなれた声が止まる。それを無視し、体を崩そうとはしなかった。
『帰っておいで。いくらあんたでもそんな長く食ってないと体に障る』
『煩い』
 痩せた体を彼がいつも来る方向へ向け、動こうとはしない。
 そんな俺を見て彼女が長い溜息を吐くのが分かる。
『……わかったよ。何であんたがその人間に見えなくなったのか教えてあげるよ』
『分かるのか!?』
 がばっと上の枝を仰ぎ見て、空腹にくらりと目が眩んだ。
『ほら、言わんこっちゃない。一狩りしておいで。まだそれくらいの力は残っているだろう。話をするのはそれからだ』
 仕方なく頷き、立ち上がる。
 彼女の声に促されるまま、ナツラが来る道に背を向け、森の深くに足を向けた。

 まだ力が残っていると言えど、通常の狩りを行うには弱り過ぎていた。
 いつもは後味が悪い為まだ子供と思われる動物は食べない様にしているのだが、今回は仕方無しに足の遅い子供の首に牙を突き立てた。
 口の周りを血で染めながら温かい肉を咀嚼する。
 一口飲みこみ、胃に送る度に体に力が溢れてくるのが分かる。全部喰らい尽くした満足感に深い息を吐きながら舌で毛を舐めると、育て親はやれやれと溜息を吐いた。
『いつ見ても豪快な食いっぷりなこった』
『それよりも、どうしてなのか教えてくれ』
 忘れてなかったのかいとでも言いたげな目つきでちらっとこちらを見ると彼女は何度目か分からない溜息を吐いて、巣の中で身動ぎをした。
『人間っていうのはね、思い込みで物を見るんだよ』
『……それがなんだ』
『その思い込みは自分の目を塞ぎ、耳を塞ぎ、見える物を見せない。聞こえる物を聞こえさせない。それだけじゃないよ、五感全てを惑わす事が出来るほどだ』
『……』
『だから、あたしらの言葉は人間に届かなくなってしまう。“動物が話す事なんてある訳が無い”と思うからだ』
『ナツラは信じると言った』
『あんたの事は信じても、その子が他に信じられなくなる物があるだろう?』
『なんだ、それは』
 ナツラが一体何を信じられなくなってしまったというのだろう。
 あの純真な目は何を諦め、信じる事を止めてしまったのか。
『“あんたを見る事が出来る自分”さ』
『なっ』
『あんたが気にしてる人間の子は――自分を、信じる事を止めちまったのさ』
 吐かれた言葉は衝撃的で、足元が崩れるような気分に襲われた。
 ナツラが俺を見る事も感じる事も出来なくなった訳は分かったが、何故触れる事すら出来なくなったのか聞いてみると、彼女は知っているような雰囲気をしていたが、それ以降口を開こうとはしなかった。
 例え触れる事が出来てもナツラはそれを認知しないのだろうと思うと、これ以上この事を考えるのが酷く辛く感じた。
 もう、ナツラが俺を見る事は無いだろう。
 彼が自分を信じる事が出来なくなった理由は、きっと彼の村にあるに違いない。
 それを突き止める事は出来ないし、励ますための言葉も掛けられない。……もう、手詰まりだ。
 ――たかが人間一人、ほんの気まぐれで過ごしただけだ。……すぐに忘れる。
 彼女に言われた言葉を胸の中で言い聞かせる、が。……そのほんの僅かな時のなんて輝かしい事か。
 ナツラと喋り、笑い、身を寄せ合い過ごした日々は今まで生きてきたどの時よりも楽しく、砂利の中で光る宝石の様に輝いていた。
 これをどうして忘れる事が出来るだろうか。
(――ナツラ……っ)
 何度となく呟いた名前を口の中で再び転がし、苦々しく噛みしめた。




 それから何回季節が廻っただろうか。
 ナツラを思い出さない日々なんてなくて、咲いている花一つに彼との思い出を重ねて顔を歪めた。
 もう忘れてしまおうと思うのに、気付けばあの場所で座り込んでいて、それでもナツラは一度も来る事はなかった。

 長い雨季に入って、巣の一つにしている大きな樹の洞の中で降り止まない雨を見ながら、本当に終わりにしようと思った。
 最後の思い出にと再びあの場所へ足を向け、いつもは無い人の気配を感じて警戒する。
(――誰だ)
 一瞬ナツラかと思ったが、背の高いそれに違うと判断を下した。
 自分とナツラの思い出が深く残る場所にずかずかと入り込んで来たそれに無性に腹が立つ。
 吼えて驚かしてやろうかと思った瞬間、その人影が顔を上げた。
 長い薄茶の髪に、ぼんやりとした表情。薄らと開いた唇に二重の目は眠そうで……そしてその色に目を奪われた。
 赤とも緑とも言えない不思議な美しい色彩の瞳。
『ナツ、ラ……?』
 いや、ナツラである訳が無い。ナツラはまだあんなに――。そこまで考えて、はっとあれからどれくらいの時が経ったのかと考える。
 七……いや、八回だろうか。少なくとも五回は季節が廻っていないか。
 それだけ時が経てば人間であるナツラは大人になっている訳で。
 恐る恐る茂みから足を出し、その人間が自分を認識しない事に更に確信が深まる。
 見えない事が識別の手立てになるなんてと自嘲しながら、その人間の大人と鼻と鼻がくっ付きそうなほど近づいた。
 これだけの近さにいるのに、人間はまるで何も見えていないかの様に動かない。
『……ナツラ、なのか?』
 吐息が掛かる近さでそっとそう呟くと、まるでそれに呼応するように人間は目を閉じて、声に出さずに口だけで何かを言った。
 音として耳には入らなかったが、何と言ったかはっきり分かった途端にその人間に背を向けて走り出す。
 向かう先は森の奥深く。
(――覚えていた、覚えていた……!)
 興奮が皮膚の下を駆け巡る。

(――オリウル……――)
 彼ははっきりそう呟いた。この目でしっかり見た。
 あんな大切な物を呼ぶように、思い出に浸る様に噛みしめて呟かれた名前に衝動が胸を突き上げた。
 同じ様に自分も何度も口にしていた。
 忘れる事なんて、もう出来なかった。




『方法は何も無いのか!?』
 育て親の巣がある樹の真下で大声で怒鳴る。
 うつらうつらとしていた育て親は驚いたように翼を二、三度動かすと、眠たげな眼差しで俺を見下ろしてきた。
『まだ諦めてなかったのかい』
『なぁ、何も無いのか……!?』
 溜息を吐いて黄色の目が俺を見つめる。
 年寄りとは思えない程の強い眼差しが自分を貫いて、そして諦めたように閉じられた。
『……あるにはあるよ』
『本当か!?』
『……だけどそれにはあたしらの出生について話さなきゃいけない。……本当は教えたくなかったんだけどねぇ。あんたも知らない方が幸せだったかもしれないのに』
『どういう事だ』
『……話は変わるけど、あんた、森を出たいと思った事はあるかい?森を出て、人間の住む村に行こうと思った事は?あんたが会いたい人間に何故森を出て会いに行こうと思わない?』
 無言で目を見開く。
 そうだ。向こうがこちらに来ようと思わないなら会いにいけば良いだけの話。……いやでもナツラに俺が見えないという問題は解決していない訳で。
 でもその問題を置いておいても、不思議なくらい森を出ようといった考えに“至らなかった”。
『思った事なんて無いだろう?そりゃそうだ。どうして胎児が母親の腹の中から自ら出て臍の緒を千切って散歩しようなんて思うもんかい』
『どういう意味だ』
『あんた、同じ虎の雌に欲情した事があるかい?無いだろう?いや、雌じゃなくても良い。同じ虎を見て、“仲間”だと思った事があるかい?むしろあたしの方が仲間だと思わないかい?』
『……どういう意味だ』
『後ろ髪が引かれるからっていって子供の獣を襲わない虎がどこにいるかい。こんなに長く生きていられる事を、言葉を操られる事を、少し特別って言葉だけで片付けられると思うかい』
『どういう意味だと言っているっ!』
 樹々がざわめく程の大声で吼えると、育て親は口を噤んだ。
『……あたしらはおかしいんだよ。いや、この森がおかしいのかね』
 ぼそりと小さく彼女は吐き捨てた。
『この広大な森には精気が溢れている。そりゃあもう濃いくらいにね。……溜まりに溜まった森の精気は、ある時凝り固まって、丁度その時に身籠っている動物の腹を借りて排出される。……そうして生まれた子があたしらさ』
『な……』
『長生きしてきて、あたしらみたいな存在が生まれる瞬間を見届けて来たよ。皆、親に捨てられた。だってそもそも基が違うんだからね。異質なのは仕方ない事さ。あたしらはこの森そのものなんだ。いや、分身と言った方がいいかね。だからこの森から出ようと思わない。……出られないんだよ。あたしらの考えが森の考えだとは言わない。あたしらはこの森の溢れた力で出来た余計な物なんだからね。でも、だからあたしらは言葉が扱える。長生きする。獣みたいに食欲と生殖欲に駆られない』
 初めて知らされる事実に開いた口がふさがらない。
『それ、じゃ、俺は……』
『ただの少し変わった虎という言葉で片付けるには異質だね。……むしろ生物として異質だ』
 面と向かって化け物と言われた気がして目の前が真っ暗になりそうになる。
 ……ああ、こんな悲しみをナツラは味わって来たのか。いや、それ以上だろう。何もしていないのに、他人から後ろ指を指されてきたのだから。



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