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神々しいまでに美しい獣に僕は出会った。
白い毛皮に入る黒い縞も、白く鋭い目も、時折覗く牙や、大きな手。全部が猛々しく、気高かった。
そんな彼の毛並が凄く気持ちいいなんて事、誰も知らない。
そんな彼が誰よりも優しい眼差しをするなんて事、僕だけしか知らない。
村の誰よりも大切で、仲の良い彼に会う事が毎日の楽しみだった。
(――とっておきの場所ってどこかな……)
あの広く大きな背中に乗せていってくれるのだろうか。
彼の背中に乗って森の中を駆けるのはとても気持ち良い。毛の下で躍動する四肢を思い浮かべて、どきどきと胸を高鳴らせながら白地に紺の文様を染め抜いた衣に袖を通す。
オリウルの頬の柔らかい毛並も好きだし、それよりもずっとあの温かい目が好きだ。
灰色とも水色とも言い難い瞳はいつも穏やかで、寝顔なんて本当無防備なんだ。
思い出して小さく唇に笑みを浮かべていると、戸を叩かれて慌てて直ぐに開ける。
「は、はいっ」
村の隅に小さくぽつんと建った小屋に誰かが来る時は大抵――……。
扉を開けたそこには、年老いた一人の女性が無表情で立っていた。
「ナツラ、大婆様がお呼びだ。支度をして付いてきなさい」
香の焚き染められた薄暗い部屋は、地下に存在していて風通りが悪い。
ふわりふわりと四方から漂う紫煙は、風に掻き消される事なく視界を悪くした。
この部屋が自分は苦手だ。いつも悲しい事ばかりを言われ、そしてそれはすぐ村全体に伝わるから。
世界の理を描いたという古びた重々しい織物を背にして一段高い所に座っているのは、老木と見紛うくらいに年老いた大婆様だ。
大婆様は村長に知恵を授け、村長がそれに従った指示を出す。
大婆様が言った事は絶対であり、それが間違いである事は無い。
微かに身動ぎした大婆様の瞳が見開かれる。
小さく体を縮める自分を見つめる白く濁った瞳は鋭く体を突き抜けるようだ。
「……ナツラよ」
名前を呼ばれるが返事を返してはいけない。
この神聖な空間で呪われ子である自分が口を開く権利は与えられていなかった。
「今年の作物の出来が悪い。この年で連続して三回目だ……何故だか分かるかい?」
服の裾を握りしめながら首を振る。
「お前の忌むべき力が強まっているからだ。このままでは村に大きな飢饉が訪れ、さらなる災厄を撒き散らすであろう……。お前の力を抑える為に次の満月の夜、その体に入れ墨を施す。良いな……?」
この村の男達は皆体のどこかに入れ墨をしている。
それは一人前の男である印であったり、村一番の狩人である印であったり、薬師である印であったり、ともすれば幸いを願う印など形によって意味合いが違った。
……自分はその中で誰もしていない入れ墨をされるのだろうと震える。
それは更に一目見ただけで、自分が忌むべき存在なのだと知らしめる印になる事は明確で、それでもそれを拒むことは許されなかった。
おずおずと頷くと、まだ話があるのか大婆様がしわがれた声を上げる。
「それと……十二になった忌み子には役割が与えられる。お前は……穢れを受け入れる器となるのだ」
「……え?」
思わず声を発してしまって、それからぞわりと背中が粟立つ。
何事かと思うより先に後ろの闇から何本も太く逞しい手が伸びて来て床に押さえつけられた。叩きつけられる勢いのそれに顔を歪めると助けの声を上げる。
「お、大婆様!」
「口を噤め。お前はその者共の穢れを受け入れる灰汁取り紙になるべき定めだ……」
恐怖で引き攣る顔を後ろに捩じると、そこにあったのは村の中で一度は見かけたことのあるような顔ぶれで――そして皆、見たことも無い表情を浮かべていた。
怯えに息を呑んだ瞬間その何本もの腕が衣服の中に潜り込んできて――……。
暗く狭い部屋の中で絶叫が一つ、長々と響き渡った。
(――遅い)
いつもの場所で静かに座ってナツラを待っていた。口に咥えるのは、ぼうっと光る小さな花。
自分の様に闇で目が利かないあの少年の為に、遠くの谷の底にしか咲かないこれを摘んできた。今は無い月光の様な青白い光が、月の代わりに辺りを照らす。
(――何か用事でも出来たのか)
彼は人間で、人間同士の付き合いと言う物があるだろう。……それが村八分の様な状態にされていて、尚且つ親は二親とも死んでいるという人間関係でも。
一抹の根拠の無い不安が胸の内を過るが、頭を振ってそれを打ち消した。
村で誰か祝ってくれる人がいるのなら良い。彼は人間だ。自分の様な獣と慣れ合うよりも、同じ人間の中で生きていけるのならばそれが一番だ。……そう思うと微かに胸が痛んだ。
溜息を吐いてそっと足元に花を置くと、彼がいつも来る方向へ鼻面を向けた。
ふらつく足で約束の場所へと足を向ける。
ぐしゃぐしゃになって所々破れた衣服をどうにか身に着けているが、いつも履いている布靴は無かった。
色々な所が痛み、一歩踏み出す毎に内股を伝う液体が不快で堪らない。
虚ろな目をしてまた一歩足を進めた。
茂みを潜った向こうの少し開けた空間には誰もおらず、弱弱しい光を放つ萎れた小さな花が一つ落ちていた。
それを身を屈めて震える手で拾い、握りしめる。
「オリウル……」
震える声でたった一つの心の支えを呼んだ。
強くて、暖かくて、優しくて、大好きな存在。
心を鋭く尖ったガラスの様な言葉や態度で抉られても、彼の傍にいれば癒された。元気が出た。
「オリウル……っ」
……お願い、顔を見せて。
その大きな体に顔を埋めて、緩やかな鼓動を耳にして、穏やかな声を聴かせて。あの眼差しを僕に向けて。
「オリウル……っ!」
ここに居なくてもオリウルはいつも一度名前を呼べば出て来てくれた。
でも何度呼んでも彼は来ない。
否。僕に会う資格が無くなってしまった。
「ふ、うわぁああぁああ!!」
初めて大声を上げて泣き、涙が滝の様に流れる。
もう、もうオリウルに会えない。オリウルを感じる事は二度とない。
――だって僕はとっても、誰よりも汚くなってしまったから。
呪われ子であるだけではなく、汚くなってしまった。
そんな僕があの美しくて強い獣を感じるなんておこがましいにも程がある。
体に残るあの感覚が一層気持ち悪くなって、ばりばりと腕に爪を立てる。穢れを身の内に受け入れ、そしてその事をこの体は浅ましくも――悦んだ。
大人に揺さぶられる度に激痛と、そしてまぎれも無い微かな快楽が体を走った。
体内に撒かれる熱を求める様に腰を動かした。
「あぅ、ああぁ、あ、ごめ、ごめんなさい……っごめんなさい……!」
誰に詫びるでもなく、明るくなり始めた闇に向かって何度も何度も謝る。
額を地面に擦り付けて、何度も。
赦してもらえる訳が無いのは分かってる。だけど泣きながら謝る事を止める事が出来なかった。
「ごめんなさい……!!」
もう今夜は来ないだろうと森へと足を向けて少し経った頃、
(――オリウル……――)
『!』
耳をピクリと動かし、ばっと後ろを振り返る。
その勢いが尾に伝わる前に足は地面を蹴っていた。
茂みから音を立てて飛び出すとそこには待ちに待っていた存在がいて、思わず頬を緩ませる。
『遅かったな、夜も明けるから今日は来ないかと思った』
走ってきた事なんてバレない様にゆったりと足を近づけた。
『持って来た花は萎れてしまったが、そこそこ明るくなってきた。これならお前も見えるだろう……さあ、背に乗れ。約束の場所に連れて行ってやる』
しゃがみ込んでいるそれに声を掛けるが返事が無い。
待っていなかった事に臍を曲げているのかと思ったが、そうでも無さそうだ。
『どうした?今日はもう疲れ――』
「ふ、うわぁああぁああ!!」
突然大声で泣き始めたナツラにぎょっと目を見開く。
今まで何を言っても声を上げて泣かなかった彼が何故。
その時漸く自分の目はナツラの乱れた服を見つけ、自分の鼻はナツラの物では無い多くの人間の匂いを得た。
『ナツラ、どうした!?何があった!』
「ああ、あ、あああぁあ……!!」
『ナツラ、ナツラ、泣いているだけでは分からん!』
「あぅ、ああぁ、あ、ごめ、ごめんなさい……っごめんなさい……!」
『っ!!』
ナツラの口から零れた謝罪の言葉に胸の内で嵐が巻き起こり、それに駆られる様にナツラの頬に伝う幾筋の涙を舐めとろうとして――近づけた舌はナツラに触れる事が出来なかった。
『!?』
自分の舌が蜃気楼を舐めているようにナツラを通り抜ける。
意味が分からず次は尾を使うが、それも通り抜けてしまった。
『ナツラ、これはどういう事だ!』
吼える様に聞いた瞬間、彼の瞳が、自分を映していない事に気付いた。
余りの衝撃に思わずその場で後ずさる。足の下でぱしりと音を立てて小枝が折れて、ナツラだけに触れられなくなっている事を理解した。
『ナツラ、お前は俺を信じるんじゃなかったのか……!』
「あ、あぁ、ひぐっ、ご、め……ごめん、なさい……!!」
『ナツラ、ナツラ……っ俺を見ろ!!』
「ごめんなさい……!!」
『俺を見ろ……!!』
まだ夜の明けない森の中、一人の泣き声と一匹の叫びが木霊した。
森の奥深く。光さえ届くのが億劫な程の深い暗い緑の中の大樹に一つ巣があった。
そこに身を横たえるのは嘴の大きい真紅の鳥。しかし余程の歳なのか、燃える様な色であっただろうその羽根の色は色褪せて煉瓦色になっていた。
『何を苛々しているんだい、白い虎』
年老いた、それでいて張りのある声が鳥から発せられる。
大樹の根本には、オリウルが尾で何度も地面を叩いて苛立たしげに歯を剥き出している。
『何故だ、何故俺の姿さえ見えなくなった……っ』
『……忘れておしまい。たかが人間の子、一人じゃないか。あたし程じゃないが、あんたもそれなりの時を生きて来ただろう?その中でその人間と過ごした時間はほんの一瞬だ。その苛立ちも、その人間の事もすぐに忘れられるさ』
『違う……!』
吼える様にその言葉を吐き捨てた。
そんな簡単な物じゃない。そんな簡単に忘れられる筈がない。
そう言うオリウルを黄色の瞳で眺めた後、呆れが籠った声が諭す。
『最初だけだよ、そう思うのは。時は色々な物を風化させる。忘れておしまい。それがあんたの為だ』
『何故だ、どうして……っ』
彼の涙が、悲痛な叫びが忘れられない。あの謝罪が耳にこびり付いて離れない。
悲しげに呻くオリウルを一瞥し小さく溜息を吐くと、彼の育ての親は再び目を閉じた。