Novel | ナノ


▼ 1


 体に感じる風に目を細め、頭の上に小鳥が止まって囀る。
 足の裏で土や草花を感じながらゆったりと歩く。
 いつもの日常。そんな自分の耳に何かの音が入った。
(――何だ?)
 耳を動かし、風を嗅ぐ。
 細く、押し殺すような悲しげな声。
(――誰だ)
 ぐるぐると喉の奥で唸りともつかない声をあげると、小鳥が慌てた様に頭から離れる。
 別に怒っていないつもりだが、怖がらせてしまったかと苦い笑みを僅かに浮かべた。
(――それにしても、騒々しい)
 目をふっと細める。
 声そのものは大きくない。だが、こんなにも心を締め付けるような悲しみに満ちていると胸がざわつく。
 何の気もなしに、己の足を声の方向へ向けた。


(――やはり、人の子か)
 声の主を茂みの中に潜みながら見つめ、僅かに溜息を吐く。
「う……ふぇ、うぐっ……」
 ぐずぐずと鼻を鳴らして、人の子が緑生い茂る森の中の泉の畔で泣いていた。
 滾々と澄んだ水の湧くこの泉は、この森のそう遠くない所に存在する村の貴重な水源となっていて、畑へと引く水はここから得ているらしい。
 しかしここに用があるのは大人ばかりで、子供がここに来る事は余り無いはずである。ならばこの人の子は、何故ここに居るのか。
 森で迷ってしまった訳でもないだろう。この泉から村までの細い道があるのは知っている。ならば子供同士で遊んでいて、逸れたのだろうか……。
「ひぐっ、っぐ……」
 今までにも何人かの人の子に出会ってきたが、こんなにも押し殺した泣き方をする奴はいなかった。
 年相応、大声で泣き喚けば良いのに何故我慢をしているのか。
 悲しくて悲しくて仕方がない、というような泣き方に、やれやれと溜息を再び吐いて茂みから身を表す。
『――おい』
「え……?ひぃっ!」
 子供は立てていた膝に埋めていた顔をこちらに向け、不思議そうな声を上げた後、目を見開くと真っ青になって震え始めた。
「白い虎!?」
『泣くな、人の子』
「ひぃっ!嫌だ、やだっ!来ないでっ!!僕を食べても美味しくないよ……!!」
『おい、こら』
「やだぁああ……っ」
 頭を己の腕で覆ってガタガタと震える幼子は、恐怖故にこちらの声が入って来ないようだ。
 何度目か分からない溜息を吐いて一歩一歩近寄り、子供の前で座ると、太い尾を持ち上げ、その細い腕を何度か撫でた。
 突き立てられる牙の痛みでは無く、柔らかい毛の感覚に驚いたのか顔を恐る恐る上げるのを見ると、その幼い頬を汚している涙を拭ってやるように尻尾でぐいぐい擦る。
 ポカンと見開いている人の子の目からは涙は既に零れておらず、それが分かってから再び口を開いた。
『あまり泣くんじゃない人の子。何があった、俺に言ってみろ』




 白く細い足が軽やかに地面を蹴る。
 薄い茶色の柔らかそうな跳ねっ毛が、それに合わせてぴょこぴょこと跳ねた。
「オリウル!」
 少年は高い声で誰かを呼ぶ。
 笑みを湛えた不思議な色彩の瞳でがさりがさりと茂みを覗き込み、一つの茂みに顔を突っ込んだと思うと目当ての物を見つけたのか顔を輝かせた。
「オリウル!また来たよ!」
『……やれやれ、またか』
 その茂みの向こうには、陽だまりに体を伸ばした白い獣。
 少年はいそいそと茂みを潜ると、髪に葉を沢山つけたままその大きな胴体にしがみ付いた。
 獣が己の腹の毛に顔を埋める子供の髪についた葉を、掃う様に尾で頭を軽く叩く。
 いつもと同じように、無言でしがみ付く少年の目が当たっている部分がじわり、と濡れる感覚にオリウルと呼ばれた白い虎は痛々しげに目を歪ませた。

 この人の子と出会ってから月が満ち、月が欠けるのを四度繰り返した。
 彼は毎日の様に自分に会いに来ると、この様に毛に顔を埋めて泣く。
 静かに、ただ静かに。
 その後は何も無かったかのように笑顔を見せる彼に、深い事は聞けずにこちらも無言で体を貸すしかなかった。
「……えっへへ」
 今日も気が済んだのか、泣いて少し赤くなった目元を、この付近の村特融の白に複雑な文様を染め抜いた布で出来た服の裾で拭う。
 照れた様に笑うその姿は泣き方同様、年齢に相応しくなくて不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『もっと大声で泣いても、咎める奴はいないと言っている』
「……うん」
『年相応の泣き方をすれば良い』
「……だって、これに慣れちゃったんだもん」
 そう言いながらどこか困ったように浮かべる笑顔がまた痛々しい。
 その笑顔をどうにかしたくて、舌を伸ばすと彼の頬を舐めた。
 以前舌全体を使ってそっと舐めたらかなり痛がっていたから、先の方だけを使って。
 途端にくすくすと嬉しそうな声で笑って浮かべた笑顔は、さっきの悲しみなど微塵もなくて少し心が晴れた。
「オリウルは僕みたいな人間の子供をいっぱい知ってるの?」
『何故だ?』
「だって、いっつも年相応とか言うから……」
 ごろりと横になる自分に、凭れかかる様に座る少年の横顔を眺めながら口を開く。
『俺と話が出来るのは幼い子供だけだ。だが、俺を怖がらずに関係を続けようとしてきたのはお前だけだ』
 気まぐれの様に森に迷い込んでくる人の子供。
 足場の悪い所に立っていたり、毒のある花に触ろうとしたり。
 見るに見かねて警告をすると、彼らは目を見開き、次の瞬間にはあの時の彼の様に泣き喚いて逃げ帰るのだ。
 ……まぁ、特段悲しいとは思った事はないが。
「え、そうなの?」
『ああ。……何故かお前は俺を恐れないからな』
 別に素直にそう言っただけなのに、彼は悲しげな笑みを浮かべた。
「……オリウルは優しいもん」
 それは村の民が優しくないという事なのだろうか。
『村は……居辛いか』
 一歩彼の内面に踏み込んだ事を聞く。その途端に、色々な方向に跳ねた柔らかい茶色の髪が俯いた。

「……僕ね、……僕、呪われ子なんだ」
『呪われ子?』
 聞き慣れない言葉を繰り返す。一体どういう存在なのだろうか、それは。
「僕の目、何色に見える?」
 顔がずいと目の前に付きだされ、澄んだ瞳が自分を見つめる。
『赤、か?いや……』
 改めてみると不思議な色彩の瞳だ。
 紅の目なのだが、瞳孔から放射状に伸ばされる線が緑に見える。
 だからともすれば紅、ともすれば翠と色を変えて見れるかもしれない。
「この目の子は人と村に禍を持ってくるって大婆様が言ったんだ……。昔からの言い伝えなんだって。後ね、生まれた日が朔の月の夜だったし、その日は不吉な夜って言われてるからお前は忌むべき子だって……。僕、何もしてないのになぁ…」
 しゅんと俯く頭は悲しげで、幼くまだ柔らかい心に負った傷の深さを垣間見る事が出来た。
『お前、名前は何だ』
「僕?あれ、言ってなかったっけ」
『聞いた覚えは無いな』
 いや、もしかしたら聞いたかもしれない。しかし興味が無かった。
 ただの人間の子供だと。
 大人になれば今まで同様言葉も届かなくなり、遠くから畏敬を込めた目で見つめるだけの存在になるのだと思っていた。
 それが今では違う分類に属されようとしている。

 この少年と一緒に日向で微睡むのは心地良い。
 彼が勝手に呼ぶ“オリウル”という名も気に入っている。
 彼の眼差しも、声も、匂いも不快な所など一つも無く、最近はむしろこの時間が長く続けば良いとさえ思っている自分がいた。
「……ナツラ」
『ナツラ、ナツラか。綺麗な響きだ』
 彼から与えられる物は心地良く、グルグルと自然に喉が鳴る。
『ナツラ、お前の瞳は綺麗だ』
「え?」
『俺はお前の村の事も、言い伝えも何も知らない。だがその瞳を俺は綺麗だと思う』
「ほ、ほんと?」
『ああ、本当だ。嘘は言わない』
 驚きの表情の後、きらきらと瞳が輝き始めた。
 押えきれない喜びが、彼から漏れ出て来るようでこちらも嬉しくなる。
「〜〜っ、オリウル、大好き……!!」
 がばりと首に飛びつき、毛に顔を押し付けるナツラに目を細めて頬を寄せた。
 幼く柔らかい心は容易く深く傷つく。しかしそれと同様その傷を早く癒せるのも心が柔らかい内なのだろう。
 ならば早く癒え、さっきの様な笑顔を毎日目にしたいと思った。
 ――そう、深く願っていた。




「ね、オリウル」
『……思ったんだが、何故俺は“オリウル”なんだ?』
 さっき木に登って、手に入れたこぶし大の木の実に石を打ち付けて割ろうとしていたナツラがびっくりした様にこっちを見る。
 彼の満面の笑顔を見てからどれだけの時がたったのか。

 雨季が過ぎ、乾季が過ぎ、季節が一周した頃に咲く白い花を一緒に見たのはこれで二回目だ。
 子供の成長というのは早い物で、ナツラの四肢は伸び、顔立ちも幼さがだんだん抜けてきた。産毛が残るあの幼い顔も好ましいが、今の森を駆け抜ける鹿のような若々しい顔立ちもまた良い。
 まぁどちらにしても、自分にとってみればまだまだ子供である事は変わりないのだが。
「えっ、だってオリウルはオリウルでしょ?」
『……いや、意味が分からない』
「オリウル・タルグ・ヴィヌア。≪神の白い獣≫っていう意味だよ。大婆様が言ってた。心が綺麗な子供の内は喋れるけど、大人になると会話をする事が出来なくなる清く尊い獣で、この森の化身なんだ、って」
『俺が?まさか』
 ナツラの手から果物を奪い、軽く牙を立てて割ってやる。
 中から出てきた甘く柔らかい部分をナツラが頬張った。
 もぐもぐと咀嚼するその表情は栗鼠の様で愛らしい。
「違うの?だってオリウルみたいに、言葉を喋れる動物を僕は見たこと無いよ?」
『確かに俺は他の獣と異なって言葉も喋れるし、獣としては遥かに長い時を生きているが、俺だけじゃない。この森の中には俺の他にも喋れる獣はいる』
「そうなの!?」
『少数だがな』
 どうしてそうなるのかは分からない。
 確かに生まれた時から他の獣とは一線を引いた存在ではあった。
 しかし、それは自分だけではないと教えてくれた同胞がいる。
『森の奥に年老いた啄木鳥がいる。それが俺を育て、色々な事を教えてくれた。あれもまた俺と同じ言葉を喋れる獣で、他にも少数だが同じような物が存在していると言っていた。……会った事は無いが』
 この森は広く、深い。同じ様な存在に会わずともなんらおかしくは無い。
 森の化身というのならばあの老獪なあれこそそうだろう。
『俺はただの他より少しばかり体のデカイ、毛色の違った長生きする喋る虎だ』
「……なんかすごい捻くれた言い方に聞こえる」
『特別な存在じゃないと言ってるだけだ』
 そんな一線をナツラに引いて欲しくない。
 ――それは俺と彼が喋れなくなってしまう切っ掛けになりえてしまうから。
「じゃあ何で大人になったら喋れなくなっちゃうのかなぁ……」
『信じなくなるからだ』
「え?」
『そう、育ての親から聞いた。お前の言う様に村では神聖化されているかもしれない。が、大人になると獣が喋る訳がないと心の隅で思ってしまう、そうすると俺の言葉は届かなくなるんだろう。それを心が汚れた、と取るのはお前達人間の勝手だ』
 いや、大人になるとではないかもしれない。
 喋る訳がないと思った時、子供は一歩大人になるのだろう。
「う……ん?」
『分かってないだろう』
「う。……へへ」
『笑って誤魔化すな』
 溜息混じりでそう言うと、ナツラは照れた様に毛に鼻を擦り付けてきた。
「とにかくさ、つまり僕がオリウルを信じてればずっとこうやって喋って傍にいる事が出来るって事だよね?」
『……まぁ、そうだな』
「じゃあ僕絶対に忘れない。信じ続けるよ、ずっと」
 不思議な色の瞳が真っ直ぐ俺を射る。
 ……ああ、この瞳にどこまで俺は惹かれれば良いんだろう。
 岩の上で眺める月よりも、岩陰でこっそりとつける美しい花よりも心を動かされる。こんなにも幼く、小さいのに。
「でもオリウルが神様じゃないなんて不思議だなぁ……こんなに綺麗で、格好いいのに。ねぇ、本当は神様なんじゃないの?」
『違うと言っているだろう』
 鬱陶しげに手の平で顔を抑えると、ふがふがともがいた後笑みを浮かべながら抱きついてきた。
「へへ、僕そろそろ生まれて十二回目の季節を迎えるから、オリウルと話せなくなっちゃうんじゃないかって心配だったんだ」
『そうか。……それは次の朔の月の夜か?』
「うん、そう!」
『ならその日の晩、俺のとっておきの場所に連れて行ってやろう』
「本当!やった、じゃあ僕直ぐに行くからね!」

 嬉しそうに浮かべたそれが――最後に見たナツラの笑顔だった。




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