Novel | ナノ


▼ 14


 顔を真っ赤に染めたイルファーンは、何を言っているんだ、と、もがいて腕の中から抜け出したが、それを引き留めて好きだと囁けば首まで真っ赤にして逃げ出してしまった。
 それでもずっと逃げられる訳も無く、夜の足湯の時には部屋で顔を合わせる事が出来た。

「あ……アサド、その……今日は足湯は良い」
「何でだ?今日も色々訪問して疲れただろ。……走り回ってもいたしな」
 俺を避けていた事を揶揄すれば、カッと頬を染める。
「それは……っ」
「脚、張ってる」
 ゆったりとした寝間着越しに脹脛を触れば、イルファーンは目線を泳がせ早口で言った。
「じゃ、あ、他の使用人に……っ」
「別に俺でも良いだろ」
 おろおろと珍しいくらいに狼狽えるイルファーンを横目に、温い湯に香油を垂らして混ぜる。ふわりと香る匂いがいつもと違うのは、サクルが遠くから取り寄せたという香油を使っているからだ。
 本来ならばそんな物使いたくはないが、血行を良くし、疲れが取れやすい効能があると聞いたら使わない訳にもいかない。
 少量しか取れない貴重な花の花弁を乾かし花の蜜と油に漬け込んだというそれは、いつもの香には無い甘さを漂わせた。
「ほら、足」
 手を出せば観念したのか、履物を脱いだ足が差し出される。
 濡れないように裾を折って脛まで上げると、ゆっくりと湯に付けた。
 無言のまま盥の中で脚を揉んでいたが、その沈黙を俺から破った。
「イルファーン」
「な、何だ」
「俺を、傍に置いてくれ」
 目線は目の前の真っ白な脚に向けたまま囁く様に言うと、イルファーンが息を詰める音が聞こえたような気がした。
「イルファーン」
「……っ」
「イルファーン……」
 湯の中で揺蕩う白い足は窓から入って来る月光を弾いて、ほの白く発行している様にすら思える。
 その滑らかな足の甲に誘われるように、そっと唇をつけた。
「!な、何を!」
 従属を誓うかの様に口付けた唇を滑らせ、指先から滴りそうになっていた水滴を舐め取った。花の香りと共に舌を擽った様な気がする僅かな甘さは、香油の中の蜜なのだろうか。
 爪先に唇を落とし、啄みながら這わせて再び甲に戻る。
 足首まで辿り着いて顔を上げると、真っ赤な顔をしたイルファーンが手の甲で口を押えていた。
「イルファーン……俺を傍に置いてくれ。傍にいる事を許してくれ。……あんな事をお前にしておいて、同じ気持ちを返して欲しいなんて厚かましい事は願っていない。ただ、お前の傍で、お前を護らせて欲しい……」
 唇を触れさせたまま囁くと、擽ったいのか指がピクリと引き攣る様に動く。
 無言は了承と取ろうと思っていると、イルファーンが口を開いた。
「あんな事……とは何だ?」
「何、って……俺は、お前を無理矢理……」
「あれは私が悪いのだろう?」
「……え?」
「私が覚悟も無く軽々しく『身体を売っても良い』などと口にしたから、それがどれだけ辛い事なのかを直に教えた……のだろう?」
 意図的では無いだろうが、無理矢理犯した事を初めて“辛かった”と表現したイルファーンに心が裂けそうな程痛んだ。が、今はそれは問題では無い。誤解を解いて、自分の非だと言わなければならない。
 脚から手を離すと、真っ直ぐ瞳を見つめる。
「違う。あれは俺の我慾だ。……俺は奴隷で、お前に触れる事すら難しいのに。醜い金持ちは触ってる事が許せなくて。お前が奴隷解放に励んでいるのは、お前の祖父や乳母のためで、それが……羨ましくて。俺を、一時でも俺だけを見て欲しくて――俺は、お前を……犯したんだ」
 懺悔している間に徐々に目線が下に行き、項垂れる。――その項垂れた頭を、優しく撫でられた。
 その手はまるで慈母の様な優しさに溢れていて、後悔をしていた心が絞られ、思わず目頭が熱くなった。
「奴隷だからと言って、私に触れてはいけないだなんて事がある物か。むしろ下卑た心がある者よりもお前に触れられた方がずっと心地が良い。そもそも、最初から私は奴隷という身分にある者として接した事はなかったつもりだ。祖父と乳母の事は……その通りだが、アサド」
 顔を上げる様に促されて、きっと情けない顔をしているだろうと顔を上げる事に僅かに抵抗があったが、おずおずと母の顔色を疑う子供の様に顔を上げる。
 そこにはどこか困った様な、照れた様な笑みを浮かべた紫水晶の瞳があった。
「確かにきっかけは祖父と乳母だった。今まで取り組んできたのも。けれど、アサドに出会ってから、私の中にはずっとお前の事があった。私が取り組んでいる全てをお前に見せよう、お前に恥じない様に全ての力を出そう、と。……心が折れそうになった時も、一番初めに思い出し、支えになったのはアサドだった」
 信じられない言葉に衝撃を受ける。が、それは次第に喜びの色を伴って心を染め上げていった。
「確かにあれは心身ともに堪えたが……。お前はそれ以上の物を私にくれた。今ではただ感謝をしている。それに、今話しを聞いてあの時の事も全て私の中では整理が付いた。……だから、気に病む必要は無い」
 ふ、と目を細めてみせたイルファーンの手を取ってひしと掴む。
「なら……!なら、俺を傍に置いてくれ。俺は……お前の奴隷でいたい」
「そ、れと、これとはまた話が……」
 途端に目を逸らすイルファーンを追いかけて、寝台の上に乗りだした。
 ギシ、と二人分の重みに寝台が僅かな軋みを上げる。
「イルファーン」
「……ッ」
「イルファーン、俺を見てくれ」
 手を伸ばし、頬に触れるとビクリと身体が震えた。俯いた睫が微かに震えている。
 けれどイルファーンから漂っているのは拒絶でも無ければ、迫られる事への恐怖でも無い様に思えた。
 それどころかどこかでは受け入れてくれている様な気がするのは、思い上がりすぎだろうか。
 少しでも付け入る隙があるのならば、と浅ましい心を持ちながら、それでも抗えずに目の前の身体を腕の中に閉じ込めた。




(――ああ、ダメだ)
 広い胸に引き寄せられ、強く抱きしめられながらそう頭を過ぎった。

 鞭打たれ、焼き印まで入れられて意識が掠れ行く最中、人を薙ぎ払って嵐の様に飛び込んできた黒い影を、一瞬野生の獣かと見間違えた。
 敵を痛めつけ、追い出したその獣がアサドだと分かった時。
 何度も名前を呼び、汗で張り付いた髪を梳いてくれた時。
 溢れんばかりの安堵と嬉しさを感じながらやはりアサドが助けに来てくれたと、どこかで信頼していた自分に気が付いた。
 助けられた後の事は熱のせいでうろ覚えだが、断片的に覚えているどの記憶の中にもアサドがいて、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた事が容易に知れた。
 そうしてあの晩――。
 思わず曝け出してしまった本音をアサドは受け止めただけでなく、背負っていた物さえも取り除いてくれた。
 いくら熱で意識がはっきりしていなかったと言えど、あの時の事は忘れようにも忘れられなかった。
 全てを許されて、欲しかった物全てを与えられた感覚。
 恥も外聞も無く人前で泣いた事が余りに恥ずかしく、暫くの間まともにアサドの顔が見る事が出来なかったが……それからという物、アサドに対して不思議な気持ちを抱える様になった。

 仕事の合間にアサドが視界に入るとふと心が緩む。
 振り返れば必ず近くに居る事に人知れず安堵する。
 アサドが傍にいると息がしやすい様なそんな心地にさえなるほどで、それが何による物なのか最初は検討が付かず戸惑った。
 『信頼』に近いが、そこまで強固で互いに求め合う物では無い。『安堵』とも似ているが、それよりももっとどこか甘い味がする……そこまで考えて『甘え』なのだと気づいて一人絶句した。

 自分はアサドに甘えているのだ。
 体重を掛けて寄りかかる様な、そうしてもきっと許してもらえる気さえしている。
 アサドも縋るための手を常時差し出しているような……甘やかしてくれているような。
 そう思うのは自意識過剰なのか、それとあの晩がそう思い込ませているのかは分からない。
 ただ、“これ”はダメだと頭の中で警鐘が鳴っていた。
 これは弱い毒だ。少量では死に至る事は無くとも、ずっと口にしていれば摂取するのを止めた時悶え苦しむようになるに違いない。
 まだそんなに摂取していないのに既にこれほど甘く、離し難く思ってしまっているのだから。今手放さなければ、多分自分は――。
 だからこそ、早くアサドを奴隷の身分から解放し、自分の手元から離そうと思っていたのに。勿論喜ばせてやりたいというのもあったが、それ以上にこれ以上アサドに依存してしまう前にと。
 ――怖かったのだ。
 こんな自分は知らない。
 こんな気持ちは知らない。
 気持ちを、自分を持て余して、何かが変わりつつある自分が怖くて。なのに。

 抱き締められてアサドの匂いと体温を感じた瞬間、身体から力が抜けて行った。
(――もう駄目だ)
 自分は、これをもう手放すことは出来ない。

「イルファーン…?」
「……私は、お前がいるとダメなんだ」
 押しのけようとした手はアサドの服を握り、目の前の胸に身体を凭れ掛けさせた。……酷く、心地が良かった。
「私はお前がいると弱くなる。凭れてしまいたくなる。……どうしてくれる。私はこんなに弱くは無かった」
 お前の傍はとても心地がいい。
 呼気に紛れさせながら呟くと、背中に当たらない様にと配慮されて肩と腰に回されていた腕が更に力を帯びた。
「弱くなれば良い。その弱さはお前に必要な物だ。いつも張り詰めて強い人間であろうとすればするほど脆くなる。俺が、お前の僅かな息抜きの場になれるなら……こんなに嬉しい事は無い。イルファーン、弱くなれ。……俺の前だけで弱くなれば、問題は無いだろう?」
「……お前の前だけで」
 言葉をなぞり、ふっと軽く笑った。
 今まで弱くなれなどと言われた事が無い。いやまず誰も言おうとはしないだろう。
「……私はお前の前で弱くなっても良いのか?」
「ああ」
「……そうか」
 目を瞑ると、ふっと身体から力を抜いて全身を委ねた。
 それをしっかり受け止めてくれる事に、今まで感じた事の無い安堵と嬉しさに息を吐く。
 腕の中で髪を梳かれる感覚に、まるで愛玩動物にでもなった様な気がした。
 暫くそのままで撫でられることを甘受していると、アサドの手が止まる。
「イルファーン、嫌なら嫌といってくれて良い。……その、俺はお前を無理矢理抱いた。痛みしかなかったと思う。けれど本来なら相手を痛めつけるための行為じゃない。だから……もう一度、俺に機会を貰えないか。勝手な事を言っている自覚はある。でもお前の中で痛みの記憶として残っているのは嫌なんだ……」
 まるで祈る様な言葉の響きに、ふと顔を上げてアサドの表情を窺うと、眉間に皺を寄せながら目を伏せている。
 確かに痛みや恐怖はあったが、それ以上の痛みを知り、その場所から真っ先に助け出してくれたのはアサドで、そのアサドからあの時の行為の本音を聞いてもう既に自分の中では終わった事になっていた。
 けれどアサドの中では終わっていないのだろう。
 悔恨が根を張り、じくじくと彼を責めている。
 それを取り除いてやれるのならば、彼の望んでいる様にするのも苦では無かった。

「……良いぞ」
 その言葉に弾かれたようにアサドが顔を上げる。
「お前の好きな様にして良い」
 そう微笑みながら言うと、再度アサドの腕の力が強くなった。



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