Novel | ナノ


▼ 13


 俺はサクルの言葉通り、ひと時もイルファーンの傍から離れなかった。……例えサクルに頼まれていなくとも、離れる事など出来なかった。
 贖罪のつもりなのかは自分でも分からない。ただ、苦しんでいるイルファーンの傍から離れようとは、一度も思えなかった。

 怪我から来る高熱に苦しそうに喘ぐ口は、からからに乾いている。
 背中に負担が行かない様に頭を支え、吸い飲みで水を飲ませると口の端から零しながらも喉が数回上下した。
 零れた水を拭きとってやり、温くなっていた額の布も取り換えて再度寝かせてやる。
 あれ以来イルファーンは僅かに目覚めては、また熱に浮かされながら昏々と眠る、を繰り返していた。
 目覚めるといってもはっきりと覚醒している訳では無く、目を開け、ぼんやりとこちらの言葉に反応を返すだけで会話が出来る訳では無い。
 医者の診断では鞭打ちになどによる外部的なショックが、精神にも影響しているとかなんとか小難しい事を言っていたが、心身共々衰弱していると言われた。
 食事も固形の物を食べられる状態では無く、どろどろに煮詰めた粥や、すりおろした果実などを流し込んでやる形でしか物を口にしていなかった。
 ここ数日そんな状態が続いている所為で、イルファーンの身体は更に細くなっていた。
 汗を掻いている身体を拭いてやろうと絞った布を手に取り、背中の傷に顔を歪める。晒されたままの背中の傷は、痛々しい事この上なかった。
 蚯蚓腫れになっている物から、抉れている物まで。真っ白な背に無数もの筋が刻まれている。
 自分の様な労働用奴隷は鞭打たれても、屈強な身体があるからまだ良い。
 鍛えられていないこの白い背を鞭で打つというのは、柔らかい木材を削る如く簡単に傷をつけただろう。
 鑑賞用の奴隷ですら、商品価値が落ちるからと鞭打ちの回数は制限されているというのに。
 汗の滲む首筋を拭ってやると、イルファーンが小さく呻いて目を開けた。
「!目が覚めたか?」
 この前目覚めたのは一日前で、そろそろ薬による痛み止めも薄れてきたのだろう。
 ぼんやりとした紫の瞳は光が薄く、意識がはっきりしていないのが分かる。が、小さく口を開くと掠れた声で確かに俺の名前を呼んだ。そしてのろのろとではあるが、起き上がりたい素振りをしたので慌てて身体を支えてやる。
 何日かぶりに身体を起こしたイルファーンはバランスが取れないのか、ふらふらと前後していたが足を崩して寝台の上に座った。
 そんなイルファーンの前に膝をつき、矢継ぎ早に質問をしていた。
「喉は渇いてないか?痛みは酷いか?無理なら身体を起こす必要は無い。……そうだ、腹が減ってるか?」
 腹が減っていないか、という問いにだけ僅かに頷いたイルファーンに頷き返す。
「分かった。待ってろ、今用意する」
 いつ目が覚めても良いようにと、傍に用意してある冷たい水が貼られた盥に浮かべられていた果実を手に取り、皮を剥いてその場ですりおろす。
 容器の縁に溜まったそれを他の器に入れ替え、匙を付けて渡した。
「大丈夫か、一人で食えるか?」
 のろのろと頷いたイルファーンは匙を幼子の様に掴むと、口に運んだ。
 起きている状態でこんなに覇気の無いイルファーンを見るのは初めてで、その身体に負った怪我がどれほどの物が良く分かる。
 半分程食べた頃、匙を置いてイルファーンは何かを探す様に首を回した。
「どうした?」
「おじい様は……?」
「は?」
 熱で舌が腫れているのか、どこか舌足らずに聴くイルファーンの言葉に驚く。
 “お爺様”とはイルファーンの祖父の事だろうか。
「ネシャートは……?」
「イルファーン……?」
 どこにいるの?と小首を傾げたそれはまるで中身だけ幼くなってしまった様に思えた。
「ネシャート……違う、ネシャートは……そうだ」
 見知らぬ女性の名前を呟いていたイルファーンは、ふいに眉間に皺を寄せると軽く頭を振り、両手で顔を覆った。
「ネシャートは死んだ。お爺様も……私は、だから……」
 呟きながらポトリと両腕を落としたその姿は随分と幼く、小さく見えた。
 いや、これが年相応なのだ。十七歳など、まだ子供である筈なのに。
「……あれから、一体どうなった?」
 掠れた声でイルファーンが問う。

 あれから誘拐に関わった一味は、全て残さず捕えられた。
 逃亡しようとしていたズハイルも寸前で捕える事が出来、今は地下牢の方に入れられていると聞いた。
 自分の右腕が捕えられた事に現王は流石に慌てたが、その事に対処しようとするよりもサクルが事を成す方が早かった。
 ズハイルを捕えたその日の内にあの屋敷を隈なく探した結果、現王の地位を揺らがす密約の証文を見つけ出した。
 国民にこの事実を広げ、現王を糾弾し、王位から降ろす手はずは整っているそうだ。
 つまりは皮肉な事だがイルファーンが誘拐された事で、事態は望んでいた通りに進展したのだ。それを告げると、イルファーンは静かに息を吐いて「そうか」とだけ呟いた。
「……では奴隷解放は目前なのだな」
「ああ」
「……そうか」
 けれどその声音は喜びに満ちた物では無く、酷く疲れ果てたような響きだけがあった。
「イルファーン?」
「……お爺様は、ネシャートは、喜んでくれるだろうか……」
 ぽつりと零したイルファーンの表情は俯いていて分からない。
「ネシャートって……乳母か?」
 こくりと縦に振られた首に「喜んでくれるだろうか」の意味を知る。
 奴隷解放を望んでいた二人。イルファーンはその二人の願いに応えるべく骨身を削る思いで尽くしてきたのだ。
「ああ……。きっとお前に感謝してる。お前は……凄い奴だよ」
 凄い奴と言われた瞬間、ピクリとイルファーンの肩が動いた。
「そんな……こと」
「イルファーン?」
「そんな事、無い……っ」
 膝の上で握った拳を震わせて、吐き出す様にそう言った。
「私は、すごくなんか無い。すごくなんか、ないんだ。眠りにつくと、いつもお爺様がうでを掴んで『忘れるな』と言う。見せたすべてを、この国で虐げられている人達の苦しみを、忘れるなと。この国を変えてくれと、痛いくらいに腕をつかむんだ。ネシャートも『忘れないで』と、そう言って何回も、何回も、彼女が死ぬ瞬間を、夢に、だから。私は皆のためでは無く、私自身のために、私のためなんだ」
 様子のおかしいイルファーンの肩を掴み、顔を上げさせると、熱で目が潤みふらふらと視線が彷徨っていた。
 やはり熱で意識がはっきりしていないらしいが、それだけにその口から零れる言葉は彼の本音の様な気がした。
「焼き印をいれられた時、絶望したんだ。奴隷の印を、いられる事に。私は奴隷を軽侮していない、同じ人間だと口にしながら、心のどこかで卑しんでいたんだ。私は、私は、なにも」
 しゃくり上げる様に言葉を切らすイルファーンの瞳からは、涙は零れていない。
 それでも何故か泣いている様に思えて、酷く抱きしめたくなった。
 祖父が死に、乳母が死に、彼はずっと一人で頑張って来たのだろう。サクルという相手がいたかもしれないが、この国の王子とそう何度も会える訳でも無い。
 その背には重すぎる荷を託され、それに潰れない様に必死で。
 疲れても、疲れを口にする事を許せなかったのだろう。
 立ち止まりたくても、立ち止まる術を知らなかったのだろう。
 走って、走って、そうして漸く終わりが見えて、荷が取り除かれる事にほっとするのでは無く、失った重さに心がバランスを崩しているのだ。
 いつものイルファーンが纏っていたピンと張り詰めた空気は、彼自身の危うさでもあったのだと気づく。
(――褒められたことなんて、無いんじゃないか)
 ふとそんな事を思った途端、目の前の彼が途端に小さな子供の様に思えた。
 どうして良いか分からない程疲れ果てた子供。
 けれど疲れたと言えない、甘える事を知らない子供。
 そっと頭を撫で、一体自分のどこにそんな優しさがあったのかと思う程、優しく頭を抱き締めた。
「イルファーン、お前は誰よりも頑張った。お前自身のためだろうと、成し遂げた事は凄い事だろう?あの酒場に集まっていた人間は皆、いやこの国の奴隷と、下層の人間は皆お前に感謝をするはずだ」
「でも」
「奴隷を嫌悪するのは当然だ。だからこそ、お前は奴隷という制度を無くそうと思ったんだろう?その事に自分を責める必要は何一つ無い。……むしろお前は俺達をそこから解放してくれたんだ」
 本当に、この少年はどれだけの努力をしたのだろう。どれだけ、堪えて来たのだろう。
 色々な人間に協力を求めて、実の父親に拷問をされようと、焼き印を入れられようと口を割らず、とうとう国を変えた。
「……イルファーン、お前は俺の誇りだ」
 彼に奴隷として買われた事を。一度でも彼の命をこの手に預けてくれた事を誇らしく思う。……そしてその手を裏切る様な行為をした事を心の底から、悔いている。

「ほこ、り?」

 目を見開いて茫然と呟いたイルファーンの紫色の瞳から、一拍おいてぼろりと涙が溢れた。
「ほこり、私が?」
「ああ」
「わたしは、がんばった?」
「ああ」
「みんな、よろこんでくれる?」
「ああ……ありがとう、イルファーン」
 その言葉を皮切りに、堰を切った様にイルファーンの両目から涙は止まらず、彼の涙が枯れ、疲れ果てて眠りにつくまで、俺はその頭を抱き締めながら繰り返し繰り返し「ありがとう」と囁いた。




 それから数日して、自力で起き、普通に食事が出来る様になったイルファーンは再び執務に精を出す様になった。
 サクルが王になる事は誰の目から見ても明らかだが、その事に関しても、そして奴隷解放に向けての下準備も、まだ片付けなければいけない問題は沢山あった。
 数日は屋敷内で行っていたが、それ以降は外に出始めたイルファーンを止めたが、私だけ寝ている訳にはいかないと話を聞こうとはしないし、サクル自身無理をするなとは言っているが、一人でも多くの手を借りたい今、有能であるイルファーンの力を拒む事は難しく、強く言う事も出来ない様だった。
 背中の傷も動けば痛いだろうに、少しばかり皮膚が張って来たそこを包帯で巻き、気丈にイルファーンは振舞っていた。
 意識がはっきりと戻ってから、イルファーンは開口一番に助けに来た事の礼を口にした。が、熱を出しながら胸の内を吐露したあの晩の事は触れる事は無かった。
 忘れている可能性もあり、こちらから聞いてみるのも躊躇われる。
 自分がイルファーンを犯してから閉ざされていた心が、以前の様に戻っているのはあの晩のせいなのか、それとも助けに行った事を感謝しているからなのか分からなかった。

 二ヵ月程経った頃、ふと目を外していた隙にイルファーンがいなくなった。
 いくら誘拐犯が一人残らず捕まり、サクルの王位継承が確実と言われていても命を狙われる危険が去った訳では無い。
 むしろ逆恨みによる危険の可能性があるくらいで、だからこそサクルから命じられた護衛がイルファーンの近くや屋敷に配置されているというのに。
 屋敷内とは言えど油断は禁物で、一体どこに行ったのかと探しているとイルファーンが息せき切らして廊下を走って来た。
「アサド!」
「イルファーン、どこに行ってた。それより走るな、背中の傷に響……」
「後で聞く。とにかく部屋に!」
 イルファーンには珍しく感情を露わにしていて、興奮しているのか頬も上気している。
 ぐいぐいと部屋まで引っ張られ、扉を閉めた途端本当に水晶の様に瞳を輝かせた。
「城から文書が届いた、見ろ」
 勢いよく広げたそれは何やら書いてあるようだが、文字の読めない俺に読めと言われても読めやしない。
「……いや、分からないんだが……。ん、でもこれは俺の名前か?」
 文書の中に、何度も書き取りをさせられた自分の名前らしき物を見つけて目を細めた。という事はこれは俺に関する物なのだろうか。
「『ここに記す者の身分を奴隷から解放し、国民としての身分を与える』と書いてある」
「へぇ……ん?」
「アサド、お前は奴隷では無くなったんだ!」
 本当に嬉しそうにイルファーンは微笑んだ。
 こんなに満面の笑みを見たのは初めてだというのに、その口から放たれた言葉の衝撃に息が止まった。
「奴隷制度を廃止しても残るであろう差別を緩和するために、法からの奴隷身分の削除だけでは無く、個人に証書を出す事になったのはお前も知っているだろう?その証書の一番初めにお前をと殿下に頼んだんだ」
 無理を言ってしまったが、これくらいならば許されるだろう?とイルファーンは頬を緩めた。
「随分時間が掛かってしまったが、アサド、もうこれでお前を虐げる物は何も無くなった。確かに当分差別は残るかもしれない。だがそれも無くせる様に励むつもりだ」
 そう言って差し出された書状を茫然と見つめる。
 ――奴隷では無くなった。俺が、奴隷で無い。
「職と家の方も安心して良い。家の方は大きくは無いが用意させているし、職の方も私から紹介すれば大丈夫だ。……アサド?」
 嬉しくないのか?とイルファーンが問う。
 嬉しい?嬉しい筈だ。あれだけ厭んでいた身分からの解放。
 ――それはつまり、イルファーンの傍に居られなくなるという事だ。
「……ない」
「ん?どうした?」
「そんな物、いらない」
「え?」
 驚いたイルファーンの手からその上質な羊皮紙を奪い取ると、破り捨てようとする。
 その手を慌ててイルファーンに止められた。
「ばっ、何をするつもりだ!」
「いらない」
「何を言っている!?あれだけ望んでいただろう!」
「お前の傍に居られなくなるくらいなら、奴隷のままで良い!」
 睨み付けて吼えると、茫然とこちらを見上げた後くしゃりとイルファーンは顔を歪めた。
「まだ……私は、お前の信頼に足りないか?」
 けれど私の監視をするためだけに奴隷であり続けるなど、何の得にもならないぞ、と俯いてか細い声でイルファーンは言った。
「違う、イルファーン。そういう意味じゃない」
 何か勘違いをさせてしまったと慌てて肩を掴んで顔を上げさせる。
 言わなければいけない。自分の本当の気持ちを、包み隠さず。
「俺はお前の傍で、お前の力になりたいんだ。守る事しか出来ないかもしれないが、それでもこの身体を盾にしてでもお前を護りたい……傍に、居たいんだ」
 俺を傍に置いてくれ。そう言って目を見開いて止まっているイルファーンを引き寄せて、抱きしめた。



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