Novel | ナノ


▼ 12


(――どこだ 声 聴こえた 近い だが 声 遠い 奥)
 ぶつ切りの単語で、思考が組み立てられていく。「一体どこに向かっているのか自分でも分からない」とすら感じない程、身体だけで動いていた。
(――奥 遠い 下 下…… 地下 地下だ)
 屋敷の奥に向かっている途中で、他とは少し違う扉を見つける。
 いや、何も変わらない。だが、研ぎ澄まされた感覚がその扉が他とは違うと告げていた。
(――匂い が、違う)
 鍵が掛かっていると分かるや否や、回し蹴りを放って扉を壊した。
 途端に、むわりと顔に当たる籠った空気の中に、微かに血の匂いを嗅ぐ。
 壊された扉の向こうには部屋は無く、下へと降りる階段が続いていた。
 そこを確信を持って駆け下りていくのと同時に「何事だ!?」と男が顔を出したが、その顔に鋭く拳を付き出す。
 男が崩れ落ちると、更にまた新たに何人か男が出て来たが、駆け下りる勢いで薙ぎ倒す。
 槍を構えていた相手もいて、どこか掠った様な気がしたが痛みすら感じなかった。
 薄暗く、湿った嫌な臭いを放つ狭いそこを駆け抜けて、古く薄そうな扉を蹴破ると血と汗の匂いがむっと濃く鼻を突いた。その中に混じる肉が焼ける独特の臭気。
 この匂いを自分は知っていた。
 奴隷になった物は絶対に知っている、匂い。
 その匂いが充満している暗い部屋の中に、数人の男がいた。
 突然乱入してきた自分に、周囲の人間が意識を取られていたのは数秒の間だろう。けれどその短い間に、眼球を介し、脳に情報が焼き付いた。

 男達の間に横たわる小さな影。
 剥き出しにされた背には、縦横無尽に赤の筋が走っている。いや、筋と分からない程赤で塗りつぶされていた。
 茫然としたまま視線を動かし、手の甲に刻まれている印を目に入れた瞬間、小さく何かが千切れる音と共に視界が真っ白になった。
「な、何者だ、ガッ!!」
 怯えたように声を上げた痩せた男に、一気に間合いを詰めると、頭を鷲掴んで壁に叩きつけた。打ち付けられる音と共に、何か折れる様な音もしたが、どうでも良い。
 その一撃で、その痩せた男はピクリとも動かなくなった。掴んでいた髪から手を離すと、ぐしゃりと力無くその場に崩れ落ちる。
 叩きつけた壁が、朱色に濡れているのは気のせいだろうか。
 パキ、と指を鳴らして部屋にいる男達を睥睨した途端、ひぃ、と情けない声を上げて我先にと狭い入口から逃げ出して行った。
 本当ならば追いたい所だが、何よりも目の前で腰を抜かしている男に意識を奪われていた。
「お、おおお前は、イルファーンの……!!」
「黙れ」
 その醜い口からイルファーンの名前が呼ばれる事すら許せず、平坦な低い声で唸ると、猫に捕まった鼠の様な声を上げて男はガタガタと震えた。
「なぁ、アンタ何でここにいるんだ」
「ど、どど奴隷の分際で、わ、儂に楯突こうとするのか!」
「なぁ、アンタ父親じゃないのか。何でここにいる。どうしてアンタが鞭を握ってる?」
「ち、近寄るな!近寄るんじゃない!……っ、ど、どうなっても良いのか!!」
 じりじりと間を詰めると、切羽詰った声を上げて顔面蒼白になりながら、驚くほど素早い動きで男は――イルファーンの父親である男は、倒れているイルファーンに近寄ると、どこから取り出したのか短剣をイルファーンの喉笛に押し当てようとして――。
「それ以上近寄れば――え、」
 間抜けな声を上げて、男は横に吹き飛ばされた。正確には、俺に蹴り飛ばされた。
 薄暗い中で鈍色に光った短剣がイルファーンに向いた瞬間、反射的に蹴りを放っていたのだ。
 横っ面を蹴り飛ばされて痛みに呻いている男の後頭部を掴み、床に叩きつける。
 ぎゃあっ、とも何とも言い難い家畜の様な声を上げてもがく身体を抑え、喋りながら何度も何度も叩きつけた。
「アンタ、どうしてここにいるんだ」
 ――ガッ
「何でアイツはあんなに傷ついてる?」
 ――ゴッ
「まさかアンタも打ったのか?その鞭で?」
 ――ガッ
「父親じゃ、無かったのか!」
 ――グシャッ

 最初は喚いていた男も、段々と泣き声になり、最後には死んでしまうと断末魔の様な悲鳴を上げた。
「じゃあ死ねよ」
 そう冷たく吐き捨てて、頭蓋骨を握り壊しそうなほど掴むと、思い切り振り腕を上げ――。
「……、……」
 呼気に紛れそうなほどか細い声に呼ばれて、慌てて振り返る。
 そうだ。こんな男の始末よりも、イルファーンの手当てをしなければと手から力を抜いて無造作に男を放り棄てた。
 横たわる身体に駆け寄り、抱き起そうとして身体の下に腕を差し入れて、背中には触れないように抱き起す。
 男を殴った方の手では無い方の手で、額に張り付いた髪をそっと拭った。
 ぐったりと閉じられていた瞼が微かに開き、焦点の会わない紫の瞳が覗く。
「イルファーン」
「ア、サ……ド……?」
「イルファーン…イルファーン…ッ」
 もう大丈夫だ。
 辛かっただろう。
 直ぐに来れなくてすまない。
 ちゃんと傍にいたらこんな事には。
 幾つも言いたい言葉があるのに、どれ一つとして口から出て来ない。
 喋りたくても、口にしようとすると喉の奥が絞られて、ただ名前を呼ぶ事しか出来なかった。
 イルファーンを抱き上げて数分も経たない内に、慌ただしい足音がしたと思うと息を切らしたサクルと兵が飛び込んできた。
「アサド!……っ!これは……っ」
 肩で息をしながらサクルは部屋を見渡し、そして俺の腕の中のイルファーンを見つけて剣呑な目つきをした。
 低い声で一言二言兵に告げると、数人が素早く頷いて部屋から出て行く。
 医者を呼んだようだが、「逃がすな」という単語は多分ズハイルの事だろう。
 指示を出し終えたサクルが近寄り、膝をつく。
「お前は何と言う無茶を……結果良かったから良い物を……いや、それは今はどうでも良い。……鞭か。しかしこれは……酷い」
「それだけじゃない」
 だらりと垂れているイルファーン左腕を持ち上げて、サクルに手の甲を見せる。
 そこに刻まれた惨い印を見て、サクルが目を見開く。が、それはすぐに激しい怒りに色を変えた。
「そこにいる男を城の地下牢へ連れて行け。何と喚こうが他の罪人と同じように扱え」
「はっ」
 機敏な動作で兵が蹲っていた男を引きずり立たせる。
 顔面を血で濡らし、呻きながら立ち上がった男は一体どこにそんな余力があったのかと思う程の大声で喚いた。
「イルファーン!!この親不孝者め!!!お前なぞ、お前なぞ……っ!!!」
 その言葉に再び怒りが弾ける。
 イルファーンを片手に抱えながら、短剣を引き抜き――その腕をサクルに掴まれた。
「アサド、止めろ」
「離せ!アイツが、アイツがそれを言うのか!?自分の息子を拷問に晒し、手に奴隷の焼き印を入れておいて、“親不孝者”だと!?」
 歯を剥き出して吼える。
 赦せなかった。どの口がそれを言うのかと。
 イルファーンを一度裏切ってしまった己だが、それだけは。
 親に裏切られる苦しみを知っているだけに。いや、まだ自分は親の顔すら知らない。売らねばならない事情があった事も慮れる。
 しかしこいつはどうだ。
 駆け出そうする身体をサクルが押しとどめ、俺の目を見ながら早口で喋った。
「殺すな。殺せばこちらにも非が出来てしまう。必ず俺がこいつらに相応の罰を与える。だから、堪えろ……!イルファーンのためにも……っ」
 食いしばった奥歯が嫌な音を立てたが、“イルファーンのため”という言葉がどうにか刃を収めさせた。
「必ず、だぞ」
「ああ。イルファーンが味わった苦痛より大きな痛みを、恐怖を、絶望を、必ず」
 その言葉に喚きながら引き摺られていった男の顔が真っ青になったが、それだけでは足りない。あの男に、この先地獄だけが待っている事を祈らんばかりだった。




 その後、満身創痍なイルファーンを傷に障らない様に屋敷に連れて帰った。
 背中に触れる事が出来ない為にそれは一苦労で、身体に伝わる振動にすら呻くイルファーンをただ只管気遣った。
 屋敷に着くと待機していた医者が怪我を一目見た途端に顔色を変えた。それほど、酷い怪我だったのだ。
 それでも消毒、包帯はかえって治りを悪くするというので、鎮痛剤を飲ませ、傷を丁寧に洗い、俯せにして寝かせた。
 サクルは今回の事についての処理を、直ぐにでも行わなければいけないという事で城に戻ったが、その際に『良いか、もう絶対に傍から離れるな』と真っすぐな眼差しで言った。
 イルファーンを、頼む。傍に居れない自分を悔やむかのように、苦渋をにじませながらそう俺に背を向けた。
 その日からイルファーンは昏々と眠り続けている。




 祖父が連れて来た若い乳母。
 優しくて明るいネシャート。
『イルファーン様、どうか忘れないで』
 艶やかだった髪を乱して、その向こうから彼女が必死な目で見つめていた。
 恐怖で強張りながらも、何かを決意した瞳だった。
『私の様な人は沢山いる。どうか、どうか忘れないで』

 もう自分で立ち上がる事も出来なくなった祖父が、老いて枯れた腕を伸ばし、どこにそんな力が残っていたのかと思うくらいの力で腕を掴んだ。
『イルファーン、後の事は頼んだ。どうかサクル殿下とこの国を変えてくれ。忘れるな、私がお前に見せた全てを』

――忘れ(ないで)(るな)――
 そう言ってネシャートは首を切り落とされて死んだ。
 そう言って祖父は息を引き取った。
 残ったのは彼らの言葉と、命の灯が消える寸前の強い眼光。
 命と引き換えにしてこの国の理不尽を教えてくれたネシャート。
 命が燃え尽きるその時までこの国を変えろと訴えた祖父。
(爺様、ネシャート。私は)
 貴方達の願いを託され、それを叶えようと、叶えたいと。
 走って、走って。
(私は)
 視界をネシャートの首から噴き出た血が朱に染める。
 腕に祖父の指が食い込む感触が残っている。
(私は、)



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