Novel | ナノ


▼ 10


「これはこれはイルファーン君。こんなむさ苦しい場所に、ようこそいらして下さった」
 この薄暗い部屋に入って来た一番前の男の顔をみて、やはりかと心の中で独りごちた。
 中肉中背で平凡な容姿ではあるが、欲にぎらついた嫌な目をしている目の前の男は、現王の宰相の一人だ。
 それも右腕……いや、裏で暗躍していると言っても過言では無い程の人物。そして、奴隷制度廃止を押している自分達を、一番疎ましく思っている人物だ。
 この男と現王が、他国と密約を結んでいるという話を嗅ぎつけたのは数か月前。そしてあともう一歩で、その証拠となる物を見つけ出せそうなのだ。
 個人として利益を上げるのは別にかまわない。しかし、“個人の利益の為”に国として密約を結んでいるというのだ。それを日の元に晒す事が出来れば、現王は今の座から退かなければならなくなるだろう。
 それを見つけ出される前に、多少派手であろうとも息の根を止めに来たか、と男を睨み上げる。
「ズハイル殿。お招きいただき光栄だが、これは客人の対応として如何な物か」
「口が達者なガキめ」
 憎々しそうに吐き捨てたのは、ズハイルの後ろに立っていた男だ。
 頬がこけて痩せている血色の悪い顔に名前は思い出せないが、ズハイルの傍で何度か見かけた事があるのを思い出した。
「少しは怯えて見せたら可愛げがある物を。バドル殿、貴殿は一体どういう教育を施しているのやら」
 呼ばれた名前に少しだけ目を見開き、薄暗い部屋に目を凝らせば、男の更に後ろに自分の父が苦々しげな顔をして立っているのが見えた。
「……父上」
 しかしあまり驚きはしない。
 父が反奴隷制度廃止派だったのは分かっていたし、自分がこの道を進めばいつしか対立しなければいけなくなるのも覚悟していた。
 覚悟の上で、歩んできたのだ。
 父は、こちらを本当に苦い眼差しで一瞥した後、目を逸らした。
 それは実の息子に向ける情ゆえにこの状況が苦しいのではなく、自分の息子という立場の者が行っている事に恥じ入り、恥を掻かせた事を憎んでいるといった物なのが、ありありと見て取れた。
「まぁまぁ、子育てに失敗する事は珍しい事では無いでしょう。むしろ方向性や考え方は間違っていても、イルファーン君が聡明である事は確かだ。そう……聡明すぎる。さて、イルファーン君。聡明な君ならば自分が何故ここにいるのか分かっているだろう?君達が何を企んでいるのか教えてはくれないかな」
「……私は何も。ただ、奴隷制度に対して疑問を抱いているだけです」
「奴隷制度に疑問を抱いて、そして一体何をしようとしている?」
 ぐい、と前髪を掴まれて顔を上げさせられる。根本の方が引き攣れる痛みに、顔を僅かに歪めた。
「サクル殿下と何を企んでいる?」
「何故そこにサクル殿下が出て来るか分からない。確かにあの方に私は身分を越え良くしてもらっているが、兄の様に慕っているだけだ」
「はっ、白々しい!」
 髪を掴んでいた手を離されて、顎から地面に落ちる。
 距離はそこまで無かったが、腕が縛られている為に受け身が取れずにもろに衝撃が来た。
「何故そこまで奴隷解放を望む?あれは我らの財だ。開放を考えるなど馬鹿のする事だ」
「人間を売り買いし、鞭で叩き、自由を奪い、死んでも同然の扱いをするなど許される行いでは無い」
「あれは家畜だ」
「違う!彼らは民だ。私達と何も変わらない人間だ!」
 やれやれ、とズハイルは肩を竦めてみせる。
「ここまでとは。教育を誤まったにも程がありますな」
「……コレは祖父に育てられてな。あの耄碌爺の戯言を吹き込まれているのだ。あの爺……!生きている時も目障りだったが、死んでもなお息子である儂の顔に泥を塗るのかっ!」
 段々語気の荒くなる父の言葉にプツリと何かが切れた。
 土で汚れた顔を上げ、実の父を睨む。
「私は今まで貴方があの人の息子である事に唯一感謝してきた。貴方が息子で無かったら、私はあの人の孫では無かったからだ。だが今は、ただただ貴方があの人の息子である事が、そして私の父である事が恥ずかしい!!あの人の想いを、心を何一つ知ろうともせずにその様に詰り貶すなど、私が許さない……!!!」
 言葉が終わるや否や、頬に衝撃が走った。
 脳が揺れ、目が眩み、同時に痛みで思考が回らなくなる。顔を蹴られたのだと分かった時には、血走った目で父が何やら喚き立てているのも耳に入る様になった。
 酷く、耳障りだ。
「まぁ落ち着いてバドル殿。……イルファーン君、私は余り気が長い方では無くてね。もう一度だけ聞くが、君達は何を企んでいる?」
「企みなど、何も」
「やれやれ……人が優しくしてあげている内に、言う事を聞いた方が良いという事も知らないのかな。まぁ、仕方があるまい。やれ」
 ズハイルが顎をしゃくると、後ろから男が五、六人程ぞろぞろと出て来た。
 どれもがっしりとした体つきで、纏めて押さえつけられては身動きが取れない。
 腕の縄を解かれた様で一瞬自由になったが、抵抗するよりも先にまた掴まれて次は身体の前で縛られた。
 無理矢理頭を下げさせられて、地面に打ち込んであった杭に両手を固定される。衣服を破られ、上半身を剥き出しにされるのにろくな抵抗一つも出来なかった。
 一瞬アサドにされた出来事を思い出して身体が強張り、嫌な汗が滲む。

 アサドがあんな事をしたのは、多分自分が彼の逆鱗に触れてしまう様な事をしたからなのだろう。
 内腑を抉られ、突き上げられるのは、想像も絶する負担と苦しさ、痛みを与えた。
 そして無理矢理組み敷かれ、犯されるという事は自尊心を砕き、屈辱を味合わされた。
 “身体を売る”という意味の重さをまざまざと知り、そしてそんな覚悟も無く軽々しく口にした自分に、アサドは怒ったのだろうと、そう思った。
 けれど何よりも辛かったのは、自尊心よりももっと粉々に砕かれた心だった。
 一緒に行動している事で、いつしかアサドを信頼していた。
 この身分で奴隷制度を押し進めると、どうしても周りは敵だらけになる。寄る辺無い思いを、アサドがいる事で心強くさえ思っていた。
 命を取る機会が何度もあったのに、それでも共に居てくれるという事は、きっと自分の事を少なからず認めてくれているのだろうと。
(――だから、どうしても“裏切られた”と思ってしまった)
 悪いのは己だ。分かっている。彼は確かに気性が荒く、上の立場の人間を憎んではいるが、何の理由も無くああいった事をする様な人間では無いというのは、傍で見ていて分かった。
 そんな彼を、あそこまでさせたのは自分なのだから、と言い聞かせても心の奥底から納得する事は出来なかった。
 どうして言葉では解決出来なかったのか、どうして、と何度も心の中で問いかける。
 その度に恨みがましい事を思ってしまう程、彼に信頼を寄せていた自分を恥じた。
 茨の道である事は分かっていたではないか。誰も傍にいなくても、一人でもやり遂げると。
(――大丈夫だ、私はまだ前に進める)
 後もう少しで悲願が、皆の悲願が叶うのだ。だから、これくらいの事は耐えなければいけない。
 静かな決意を新たにし、今から一体何をされるのかとズハイルの顔を睨み付けた。

「教えて貰えないのならば、身体に聞くしかないというのは良く言うだろう?気を失う様な痛みの他にも、屈辱、快楽、絶望、色々な方法があるが、奴隷の肩をやけに持つ君にはこの方法が一番いいと思ってね」
 厭らしい笑みを浮かべたその手には、黒く長い一本鞭が握られていた。
 しなやかで長いそれは奴隷を罰する時に使う鞭の一つだ。使い込まれているのか黒ずんだ色合いが生々しい。
「お優しい君ならば奴隷の痛みも分かち合いたいだろう?」
 その言葉と同時に鞭がしなり、背中に振り落とされた。
「――――!!!ッ、ガッ……!!!」
 重い打撃が背中を走り、目の前が真っ赤になる。ドッと全身に汗が吹き出し、鉄臭い唾液が口中に溢れた。
 打たれた所の皮膚が泡立ち爆ぜたのではないかと思う様な痛みが、背中に絡み付いている。
「ははは!どうかな、今まで殴られた事も殆ど無い君にしてみれば死ぬほど痛いだろう!」
 ズハイルは自分の事を殴られもせずに、温室で育てられてきたやわな人間だと思っているのだろうが、解放運動を進める中でそれなりに殴られもしたし、痛い思いもした。
 けれどこれは今まで経験した何よりも激しい“痛み”だった。
 息をしようと開けた口から、ボタボタと嚥下しきれない唾液が零れる。
「イルファーン君、こんな痛い思いをしたくないだろう……?全部話せばすぐにでも止めよう。ああ、そうだ。バルド殿に免じて、君に罪を問う事はしないであげよう。むしろ恩賞を与えても良い。ただ、君が関わっている計画について話してくれれば――それで良いんだ」
 猫なで声で囁かれる甘い誘惑が脳を擽る。それは酷く不快な甘さだった。
「私は、何も知らない。計画も……見当違いだ」
 唾液を飲み込み飲み込み紡いだ答えに、ズハイルの顔から笑みが消える。
「チッ、馬鹿な餓鬼め。私は気が長くないと言ったのを忘れたのかな!」
 二度、三度と繰り返し打たれる痛みに気が遠くなりながら、絶対に口を割る物かと唇を噛み切りそうな程噛みしめた。




 使用人から砕けた指輪を受け取った後、それを拾ったという場所まで駆けた。
 何か手掛かりとなる物は無いかとくまなく探したが、日が大分昇ったこの時間帯では足跡や馬の蹄の跡すら人通りで消されてしまっている。
(――イルファーン……!!)
 嫌な汗が背中を伝い、鼓動がひとりでに走って行く。
 イルファーンが攫われたのは確実だ。あの指輪は馬にでも踏まれたのだろう。しかし一体どこに、そして誰に。
 敵が多すぎる今、誰に攫われたのか分からない。
 使用人も仲間に伝え探していると言っていたが、表立っての行動が派手に出来ない為に状況は何も進展しない。
(――イルファーン……ッ)
 こうしている内にもイルファーンの身に何が起こっているかもしれないと思うと、胸を掻き毟りたくなる衝動が走った。
(――どうすれば……っ)
 自分の非力さに歯噛みをする。
 ただの奴隷である自分では何もできない。誰かの力を借りなければ。
 圧倒的な情報網を持ち、イルファーンが今どこにいるのか分かる様な人物。そしてそこから救い出せる事も可能な力を持つ――……そこまで考えて、一人の人物が頭に浮かんだ。
 アイツの力を借りるのは嫌だが、手段を選んでいる暇は無い。
 とにかくまずは城に潜り込む為の準備をしなくてはと、イルファーンに連れて行ってもらった服屋へと駆けた。




 ざばりと頭の上から水を掛けられて、沈んでいた意識が浮上する。
 ……ここに捕えられてからどれくらい経ったのだろうか。数時間の様な気もするし、一日の様な気もするし、数日経った様な気もする。
 背中は既に何も感じない程、痛みで覆われていた。
 身体から滴るのは、掛けられた水と汗だけでは無いだろう。もしかしたら背中に無事な皮膚は、残っていないかもしれないとさえ思った。
 あれから殴る蹴るの暴力は何一つされていないが、ただ只管に鞭を打たれた。
 色々な種類の鞭を使われた。重い打撃と絡み付く痛みを与える物。広い範囲で痛みを与える物。息が止まる程痛みを与える物。
 痛みの合間に質問を重ねられ、朦朧とした頭で、知らないとだけ紡ぐ。
 そうすると鞭が振り下ろされる鋭さは増し、痛みの合間に口汚く罵倒された。
 痛みで意識が遠退いても、死にはしない。鞭打ちとはそういう物だからだ。特殊な物を使わず、急所を打たない限り相手を死に至らしめる事は無い。激しい痛みだけを与え続ける拷問。
むしろ死んだ方がましな気すらしつつあった。
 一体自分はいつまでこの痛みに耐えれば良い?いつまで?奴隷解放まで?
 痛みは思考と意識を混濁させ、意志を挫こうとする。
 今無理に深く考えたり、喋ろうとすれば全てを吐いてしまいそうになった。

「お前の強情には呆れたぞイルファーン」
 低く唸る様な声に霞む目を上げる。そこには父が鞭を片手に、苛立たしげな顔でこちらを見ていた。
 父も鞭打ちには参加していた。むしろ『父親である事を恥じている』と言われた鬱憤を晴らすかの様に、振り下ろされる鞭はどの一撃よりも重く激しい痛みを与えた。
「何故そこまで頑なになる。お前がそこまでして何が手に入る?誰もお前の努力になど気付かない。奴隷解放をして奴隷が喜ぶとでも?家畜が野に放され生きていけるか?答えは否だ。放たれ増えた民は財を圧迫し、飢え死にする者が増えるだけだ。誰もお前に感謝などしない」

(――だれも、喜ばない?)
 それは今まで挫けそうになっていた心の支えを、根本から揺るがす言葉だった。
 でも、そんな、違う、という単語が頭に浮かんでは文章にならずに消えていく。
 痛みで突きつけられた言葉に反論が浮かばず、言葉が頭を侵食する。
 自分が信じていた物は間違っていたのか?民を不幸にするだけだったのか?
 ……ならばどうして、私はここで痛みを耐えている?




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