Novel | ナノ


▼ 5


 どうしてこんな気持ちになるのか。どうしてアイツが、そんなにも奴隷解放に対して誠意的に取り組んでいるのか。
 考えていたって仕方が無い。どんなに考えても答えは見えてきそうには無い。
 ならば実際本人に、アイツと言葉を交わして考えを整理するのが一番だ。
 人混みの中からアイツを探すのは困難で、埋もれる様にして色々な相手と言葉を交わし、時には真剣な表情で頷いているアイツをどうにか見つける。
「おい」
 呼んだ声はすぐに周りの音に飲み込まれて、アイツに届かない内に消えた。
「おい!」
 今度はもう少し声を大きくする。が、それにアイツが振り向く事は無い。それどころか反応すら寄越さない。
 分かっている。こんな喧騒の中で「おい」と呼んでも自分の事だとは思わないだろう。
 どうすれば良いのかは分かっている、ただ……呼びたくないだけなのだ。
 その呼びたくない気持ちも、ただの意固地みたいな物だと分かっているから、猶更気分が悪い。
「……チッ」
 舌打ちを軽く打つと、口にしたくなかった物を舌の上に乗せる。
「……っイルファーン!」
 初めて口にしたアイツの名前は、口から放った後も舌の上に余韻を残して、その舌触りにまた不機嫌になった。
 俺の呼び声にアイツは顔をこちらに向けると、驚いたような表情をした。が、周りに何か告げると目を細め、人波を掻き分けてこちらに近づく。
「どうした、何かあったか」
 目を細めながらこちらを見上げるその瞳は、どこか楽しげだ。
「何で笑ってるんだ」
「笑ってはいないが……いや、お前が初めて私の名を呼んだな、と」
 やはり気付かれたか、と思うと居心地が悪くなった。
 咳払いして話題を変える。
「……あー……その、アンタに話が……」
「私に、か。何だろうか」
「あそこにいる奴らに……その。アンタが具体的に何をしてるのかって事は聞いた」
 頷いてアイツは先を促す。
「……どうして、だ」
「どうして?それは愚問だ。人を家畜の様に扱う奴隷制度は倫理に反している、だから正す。それだけだ」
「違う!」
 俺が放った大声は、酒場の喧騒を静まらせる事無く混じって消えた。
「違う……違う、俺が聞きたいのは……」
 弱々しく首を振る。頭を掻き毟る。
 胸がざわめく、息が苦しくなる。
 ずっと、ずっとだ。コイツと出会ってから付き纏う疑問が、俺の小さな脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、苦しい。気持ち悪い。
 自分でも自分が分からなくなっている俺をアイツはじっと見つめていたが、「ついて来い」と、俺の腕を引くと奥に引き摺って行った。
 店主の様な、ここを取り仕切っている様な男に一言二言交わすと、小さな部屋に俺を押し込んで自分も入る。
 分厚い戸を閉めると、喧騒が僅かに遠のいた。
「座れ」
 静かに促されて、力無く椅子に座る。
 小さなテーブルの上には小さな明かりと、水差しが置いてあった。それを杯に注ぐと俺に手渡す。
「飲め、酒では無い。水だ」
 その言葉に従わずに、じっと手の中の杯を見つめていると、息を吐く音と共にアイツが俺の前の椅子に座った。
「アサド、お前が困惑しているのは、私が、お前が憎んでいる金持ちが奴隷を解放しようとしているからだ」
 それに沈黙を返すが、アイツはそのまま言葉を続けた。
「奴隷解放はお前も心から望んでいる。私ならばそれが可能かもしれないと思え始めている。希望が見えて来ている事に、お前は多分嬉しいんだ」
 バッと顔を上げて反論しようとした俺の唇に、そっと指が押し当てられ遮られる。
 それは押し付ける様な物では無く、柔らかく――まるで、本を撫でていたあの時の指の様に。
「けれど、その反面、お前はそれを認めるのが嫌なのだろう。当たり前だ。私達は今まで奴隷を虐げるという一言では、足りない様な扱いをしてきたのだから。けれど下層階級の人間がどれだけ集まっても、何も変わらない事も分かっている。奴隷解放を目指すのならば力がいる。権力や金のある人間の力が。お前は、それが分かっているから酷く苦しいんだ。結果は喜ばしいが、過程に喜べない。違うだろうか」
 茫然とアイツの顔を見る。
 薄暗い部屋の中で、白い肌がぼんやりと浮かんでいて、その中で紫の瞳だけが光を反射して、井戸の底みたいに時折揺らめく様に輝いていた。
 ――その通りだ。
 金持ちと一括りにしてはいけないのは分かっている。コイツを見てそう思った。
 コイツは金持ちでも、奴隷や下層の奴等を見下したりは、どうやらしていないのだと。
 ……その事が心を掻き乱した。
 憎むべき相手なのに、憎めない。金持ちらしからぬ振る舞いをするコイツが、酷く腹立たしかった。
 どうして憎ませてくれないのだと。お前がそんな事をしなければ、そんな振る舞いをしなければ、そんな言葉を掛けなければ――俺はお前をただ憎み、殺す事が出来るのに、と。
「……どうして、奴隷解放をしようと……?」
「……私の母は、私を産んで死んだ。父は子供に物を与えてくれたが、構ってはくれない人だった。そんな私に勉学を教えてくれたのは祖父だった……」
 ふわりと小さくアイツは笑った。
 それは亡き人を思う寂しい笑み。
「とても厳格な人だったが、色々な事を教えてくれた。礼儀、言葉、歴史、政治。道端に咲いている花の名から、隣国が行っている政策まで。私が聞けば丁寧に教えてくれた。その祖父が一番言っていたのが、奴隷に関する事だった。『これは無くさねばならぬ習慣だ』と。何度も何度も、私に語ってくれた」
 祖父は、私の父も同然だ。いや、父よりも尊敬している。
 その亡き祖父の想いを叶えたいと、ただそれだけなのだと。
「勿論、私も祖父の考えに同意したからこそ、こうやって実現に向けて色々と考えているのだけれどな?」
 そう言って目を細めてみせたアイツを見た瞬間、今までのもやもやがストンと頭の中で落ち着いた。
 目の前のコイツを、金持ちという括りでは無く“イルファーン”という一人の男なのだと、漸くなのか、急になのか分からないが、捉える事が出来たのだ。
「……謀反を、起こすつもりなのか」
「――そうだな、はっきり言ってしまえば」
「殺すのか、今の王を」
「……殺さないで奴隷制度を無くせるのならば、そうするつもりだ。一番良いのは今の王が奴隷制度を無くすという事だが……あの方は確固としてそれに同意をしない。もう……王を、変えるしかない」
 もしかしなくても、今まで本を借りに人を連れて行かなかったのも、それが関係してるのかと問えばイルファーンは頷いた。
「私が借りる物を全て知れば、勘の良い者は何を企んでいるか分かってしまうかもしれない。それに時折あの場所で取引をする事があるからな」

「なぁ」
 イルファーンに声を掛ければ、何だとこちらを見つめて来る。
 そうだ、コイツはそういう奴だ。横柄な言葉使いをするが、身分に関わらず相手と関わり、そしていつも真っ直ぐに前を向いている。
「……アンタは、奴隷解放をしてくれるか」
「ああ」
 はっきりと、イルファーンは俺の瞳を真っ直ぐに見据えてそう肯定した。
「私は私の命を掛けて、奴隷解放を目指している。十年も二十年も長引かせるつもりは無い」
 断言した紫の瞳を探る様に暫く見つめ、そこに揺らぐ物が無いと分かると目を閉じる。
 いや、分かっていただろう?こんな事を聞くまでも無く、コイツが誠心誠意取り組んでいる事は。
 静かに息を吐いた後、腰に付けていた短刀をイルファーンの目の前に付き出した。それを、イルファーンは訝しげに見た。
「……返す。俺にこれは必要ないみたいだからな」
 驚いた表情を見せた後、イルファーンは目を細めた。……それは今まで見たどれよりも嬉しげで、思わず凝視してしまう。
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、持っていてくれ。下層の皆が私の事を受け入れてくれている訳では無い。金持ちが何を言っていると思っている者も沢山いる。そういう者にとって、今は“奴隷”という立場であるお前が、私の命を握っているという事は、とても意味のある事になるだろうから」
 勿論、お前も今後私に見切りをつけた時には最初の誓い通りにしていいからな。
 その言葉を聞きながら、その時が来た時俺は本当にコイツを殺せるのだろうかと思いを馳せた。




 俺と話し合った後、イルファーンは他の相手と何やら少し話していたがすぐに帰路に着いた。屋敷に戻ると、すぐさま自室に戻るが、その間コイツの父親らしきあの男には合わなかった。
 その事を聞けば、父親とは滅多に顔を合わせないのだという。
「まぁ、今回はそちらの方が好都合だ。お前が服を着ていると知ったら父上が煩いだろうからな」
 小さく笑ってアイツは使用人を部屋に呼ぶと、湯浴みの場所に俺を連れて行く様に言って自身も湯浴みへと部屋を出て行った。
 どうやら他の奴隷達が使う湯浴み場の様で、あの男の奴隷なのか綺麗な顔立ちの者が目につく。
 前回の様に付きっ切りで体中を洗われる様な事は無かったが、水を浴びただけで出たら待ち構えていた使用人に思い切り顔を顰められて、再度風呂に入れられた。
 どうやらイルファーンに、しっかり身体を洗わせる様にと命令されたようだ。
 仕方なく慣れない手付きで体中を洗い終わると、自室まで戻される。
 そこにはもう既に湯浴みを終わらせたイルファーンが机に向かい、ランプの火を灯して本を読んでいた。
「遅かったな、長風呂なのか」
「……違う、アンタの使用人に二度入れられただけだ」
 それを聞くと、ちゃんと最初から洗わないからだろう、と至極もっともな事を返された。
「寝床についてだが、そこの戸から入った部屋に一つ寝台がある。暫く使ってなかった部屋だが、シーツなどは取り換えさせたし大丈夫だろう」
 つ、とイルファーンが指したのは室内にある少し小さ目な戸で、この部屋と繋がっている様だ。
「暫く使ってなかったって、前には誰か使ってたのか?」
「……寝泊りの乳母が、使っていたんだ」
 何故か不自然な沈黙の後、静かに口を開く。
 そういえば母親は生まれた時に死んだと言っていたな、という思考を扉を叩く音が遮った。
 入れ、という言葉の後に、使用人が大きな器を両手に持って入って来た。器というよりも、陶器で出来た桶か盥といった方が良いようなそれには、水が満たされている。
 お辞儀をしてそれを足元に置いた使用人を暫く見ていたイルファーンは、使用人の名を呼ぶと「今日はこれを置いて帰れ、後はこの者に頼む。これは明日の朝取りに来てくれれば良い」と告げた。
 それに使用人は頷くと、手に掛けていた分厚い布を傍の机の上に置いて、お辞儀をして出て行った。
「……俺に頼むって、何をだよ」
 何だか巻き込まれた感じがしなくもないのだが、一体この盥を何に使うつもりなのかと問う。イルファーンは一人で寝るには大きい寝台の上に腰かけると、俺を仰ぎ見て「お前に足湯を頼もうと思ってな」と宣わった。

「足湯?」
「ああ」
 寝台の頭の棚をごそりと探ると、小さな小瓶を取り出す。
 綺麗に装飾されたそれの蓋を開けると、盥の上に数滴落とした。すると、ふわりと柔らかい良い香りが広がる。
「香油を垂らした湯に足をつける。その際に揉むと疲れが取れるのだ」
「……で、俺に揉めと?」
「ああ」
 頷くコイツに溜息が出たが、素直にコイツの前に膝をつくと盥の中に手を伸ばした。指先から暖かさが伝わって来る。
「……珍しい。『何故俺がそんな事をしないといけない』とでも言われると思っていた」
「どうせそんな事言っても、『ただ飯を喰うつもりか』くらい言うんだろ。ほら足貸せ」
 小さい笑い声と共に、靴を脱いだ足が差し出される。
 それを引っ掴むと、お湯を手で掛けて濡らした。湯を掻き混ぜると、良い香りが鼻を擽る。
「この匂い、部屋の香と同じか」
「ああ。良い香りだろう?強すぎず、甘すぎず」
「……悪くない」
 そう答えれば微かにまた笑う気配がした。
 何もかもを見透かされている様な気がして、それが気恥ずかしく、少し腹立たしく、手の中にある足の裏を強めに揉む。
「っ、そんな強くするな、お前は力が強いのだから少し弱いくらいで丁度良い」
 痛くすると小さくビクつく足は男とは思えない程白く、けれど筋張った甲や大きさは確かに男の物だ。
 湯を掛ければ水を弾く肌は肌理が細かいのだろう。本当にこの国では珍しい白さだ。
 足の裏や指の膨らみを揉んでやれば、気持ち良いのか息を詰めたり、吐いたりと反応が返ってくる。
「……はぁ、っ……上手いな、気持ち良い」
「そうか。それにしても白いな、アンタ」
「ああ、母が半分異国の血が混じっていたらしい。……私もそれを継いだのだろう」
「ふうん。この足湯は毎晩やっているのか」
「そうだな、これをしてもらうと良く眠れる。……私の贅沢の一つだな」
 贅沢の一つ、というがこんな事贅沢でも何でも無い。コイツが本気になればいくらでも、これ以上の贅沢が出来るのだから。
 湯でほんのりと色付いた白い足先から滴る水滴を、使用人が持って来た布で拭う。
 終った後、イルファーンが「お前もするか?」と言ったがその場合コイツが俺の足を洗ってくれるのだろうか。
 まさかと思う反面、有り得なくないので思わず動きを止める。そんな俺を横目に使った湯だから変えた方が良いだろうか、などと呟いているイルファーンを慌てて自分はいらないと言った。
「そうか?心地が良いぞ」
「……慣れてない事をされると逆に落ち着かない」
 低く答えれば、そうか、とだけ返される。
「私はもう寝るが」
「……ああ」
 良い夢を、という言葉を背に与えられた寝室に入る。
 そこにはアイツの程ではないが、大きな寝台と小さな机が一つ。いや、大きさ云々の前に寝台で寝るのが初めてだ。
(――ずっと、地面や床の上で寝てたからな)
 手触りの良いシーツに、恐る恐る身体を潜らせ――案の定その夜は、慣れない寝台で深くは眠れなかった。



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