Novel | ナノ


▼ 3


 静寂の広がる廊下を歩き、一つの扉の前に来る。
 開いた扉の向こうには、背の丈の倍ほどある棚がずらりと並んでいた。そしてそれを埋める、様々な本。
「この建物は、全てが書庫だ。あらゆる国の書籍がここに集められている」
 しん、と静まり返った空気を揺らさないようにか、幾分かそっと声が響く。
「ここにある本はほぼ無償で借りる事が出来る。……一部の身分に限られるが」
 ふっ、と嫌そうに眉を顰めたのはコイツ自身だ。
 一部の身分しか借りれない事を、厭んでいる様な態度に微かに戸惑った。
 コイツのこういう素振りを見る度に、俺の中の何かがざわつく。それが酷く不快なような、焦りのような気持ちを掻き立てて仕方がなかった。
「ここは素晴らしい場所だ。知識は全てに勝る財産だからな」
 手を伸ばし、分厚くくすんだ本の背表紙をそっとアイツの指が撫でる。
 汚れ、汗を吸った様な滲みと光沢のあるそれと対照されて、その指がハッとする程白く、男にしてはやけに細く見えた。
 その白さと細さにまた胸か腹か分からない場所で何かが蠢くのと同時に、そしてやはりコイツは金持ちなのだと理解する。
 擦り切れた事など無いような指。肉刺など出来た事すら無いだろう。
 爪が割れる痛みをしらない指、その指に撫でられるくたびれた本。
(――まるでコイツと俺の様だ)
 そんならしくない思考を、ドサリと腕に押し付けられた重みが覚ます。
 腕の中にあったのは分厚い本。それも一冊などでは無い。何事かと思う俺を横目に、アイツは書棚を指で追い、さらにもう一冊抜き出そうとしていた。
「おい、これは何だ」
「何だとは何だ。ここに来るのは本を借りる為に決まってるだろう。ちゃんと持て、落とすなよ」
 そういう意味では無く、どうして俺に渡すんだと言いたかったのを、新たに乗せられた本で遮られる。文句を言おうにも、次から次へと乗せられた本に言葉を奪われ、気が付けば顎辺りまで本が来ていた。
 そのまま無言で先を行くコイツの後ろを腹立たしく思いながらついて行くと、勘定台みたいな場所に辿り着いた。
 そこに無言で佇んでいる男に一言二言告げると、帳面の様な物に何かを書き入れる。
「本を借りたらここに名を書き入れる」
 見てみろ、と一歩横にずれた動作に促されて覗き込めば、ずらりと意味の分からない文字が書かれた帳面の一番下に、屋敷で俺が何回も練習させられたあの名前が書きこまれていた。
 勿論、俺が書いたのとは比べられない程整った綺麗な形だが。
「ここに日付、ここに冊数、そしてここに名前だ。分かったな?」
「分かったな……って、何でそんな事を俺に言うんだよ」
 そう口にすると、勘定台にいた男がピクリと眉を動かした。
 使用人風の男が、主に向かってこんな減らず口を叩くとは思っていなかったのだろう。
 ……この男が俺を使用人ですらなく、奴隷だと知ったらどんな顔をするのだろうか。
 コイツも男の態度に気付いたのか、微かに眉間に皺を寄せると男に対する礼を口にしてさっさと扉から廊下に出た。

「馬鹿者、人前でそんな口を利くんじゃない。さっきの店主は私と既知の仲だったから良いが……良いか」
 廊下に人がいない事を素早く目を走らせて確認したコイツは、目を鋭く光らせて俺を見上げた。
「この国から奴隷制度を無くしたいのならば、約束をしろ」
「どんな」
「一つ、人の目がある所では私とお前は主と使用人だ。相手が繕わなくても良い場合は知らせる、だからそれ以外の相手の前では主従の対応をしろ。付け焼刃で構わん。お前も礼儀のれの字くらいは出来るだろう。一つ、お前が奴隷である事を口にするな。これは分かっているだろうが、むやみやたらに口にすればお前の首が飛ぶぞ。一つ、私が奴隷制度を無くす……奴隷解放を目指している事を口にするな。これは誰の前でもだ、必ず守れ」
 細い指を三本立てて、まるで俺を睨み付けるかの様に光る紫の瞳を見つめる。
 ……いや、こいつは元々睨み顔なのか。
「二つ目は分かってる。俺だって、ただ命を捨てるのはごめんだ。一つ目もまぁ努力はする。……人の目がある所って事は、人の目が無かったら別に良いんだな」
 俺はお前に服従するつもりは更々無い、といった態でニヤッと嗤ってやった。
 上げ足取りである事は重々分かっているが、時折こうやって小さな一矢を報いてやらないと気が済まない。
 何せコイツはあの奴隷店主やこいつの父親みたいに、己の怒りに顔を歪める事が無いから。その澄ました表情を濁らせてやりたくなる。
「ああ構わない」
 なのに、さらっとそれを認めてしまったコイツに思わず小さく舌打ちをした。
 面白くない男だ。いや、面白くないというより可愛くない。その面白くない気分のままジロリと睨み付ける。
「ただ三つ目はどうしてダメなんだ。高い身分の奴等に知られたら異端として後ろ指を指されるからか?」
 そんな事を危惧しているのならば、コイツは“ダメ”だ。
 この国を変える事など出来ない、いや、そもそも変えようとすら思っていない。あの時そう言ったのは、俺に殺されるのを逃れる詭弁だったという事だ。
「後ろ指を指されるくらいならば良い……」
 そこまで言って、口籠ったコイツに胡乱げな目を向ける。
 が、それが廊下の一番端の扉から誰か出て来たのを俺の後ろから確認したからだと、近づく誰かの足音に気付いた。
「……とりあえず、本の借り方は分かったな?」
 話題を変えたコイツに眉を僅かに上げる。
 さっきの話を問い詰めたい所だが、目が「ここではダメだ」と告げていて仕方なく合わせてやった。
「だから何で俺……痛っ!」
 向う脛を蹴られて呻く。ギロリと睨まれて、ああそう言えば『人の目』がある所では『それなりの対応』をしなければならなかったな、と苦虫を噛んだ心地になった。……だとしても蹴らなくても良いだろうが。
 コイツの履いている靴はこの国特有の、刺繍が施された平たく先がくるりと少し巻いている物だ。先は尖っていないが、平たく硬い分痛い。
 持っている本の山をコイツの頭の上に落としてやろうかと思ったが、止める。……コイツの細い首では折れかねない。
「……っ何で、俺が、覚えなくては、いけないんでしょうか」
 普段使わない言葉使いに舌を噛みそうになる。
 喋り終った後も口の中がモゾモゾとして気持ちが悪かった。
「覚えてもらわないと困るからだ」
「はぁ?っじゃなくて、はい?」
 また蹴ろうとして足を後ろに引いたコイツを見て、慌てて言葉を直す。
「……私は忙しくて、ここに本を借りに来たくても来れない時がある。その時お前に頼みたい」
「俺は文字は読めない」
「借りて来て欲しい物を書き出しておく。その書きだした紙をあの受付の者に渡せばそれで良い。使いで来たと言えば向こうが用意してくれるだろうから。後は、さっきの様に日付と、名前と、日にちだ。数字くらいは書けるだろう?」
 だから何でそんな事を俺が、という言葉はすんでの所で喉の奥に呑み込んだ。
 どうせそんな事を言ったって、「働かないつもりか?」とでも言うのだろう。
 今は従っておいてやる。コイツが口ばかりの奴だと分かった時には即座にその首を圧し折るのだから。
「――では帰ろうか」




 屋敷に帰り、鼻に纏わりつく怠惰な匂いの満ちる廊下を進み、アイツの部屋に辿り着く。
 やはりこの部屋の匂いだけ違う。認めるのは癪だが、ここの部屋に入ると息がしやすい。まあ、この屋敷内で比べて、だが。
「ここに置いてくれないか」
 指をさされた机の上にドサリと置くと、アイツはもっと丁寧に扱えと睨みながらそっと本の表紙を撫でた。
 その横顔がどこか嬉しそうに見えるのは気のせいか。
「お前が来てくれて助かった、礼を言う」
 だが、ちらりとこちらに目を寄越して口の端で笑って見せたコイツに、気のせいでは無いと知る。
「ずっと借りたかったのだが、多すぎて借りれなかった。すまないな、重かったか。漸く読めると思うとついつい、あれもこれもと手が伸びてしまった」
「……別に、石の詰まった袋を担ぐよりかずっと軽かった」
 奴隷相手にこんな風に礼を言われるなんて思っていなくて、思わずぶっきら棒に答える。
 そもそも、コイツが誰かに礼を言うこと自体に僅かな驚きを覚えていた。
 その冷酷そうな瞳や、横柄な言葉使いの様に、礼など口にしない男だと思っていたのに。
「そうだな……。お前ならばあれくらい軽いのかもしれない」
 ポツリと呟いた様な言葉の後に続くのは、でも私には重かった、なのか、奴隷労働で鍛えられた身体ならば、なのかは予想できなかった。
 コイツの態度に、さっきの自分の返答が流石にちょっと態度が悪かったかもしれないとばつが悪くなり、口籠る様に言葉を発した。
「その……別にあんただけじゃ運べなくても、他の誰か連れて行けば良かっただろ」
「……いいや、そういう訳にはいかない」
 紫の瞳は本の表紙をみつめてはいるが、どこか遠くに思いを馳せている様に思える。
「なんで」
 また黙り込んでしまったコイツに苛立つ。
 その苛立ちに気付いたのか、苦笑の様な物を浮かべてアイツはこちらを見た。
「すまない、事情があるのだ。……そうだな、まだ時間があるしもう一度外に出ようか。お前を連れて行きたい所がある」
 窓の外は昼を過ぎ、夕方へ差しかかろうとしている。
 もう一度出かけるのには別に問題は無いが、どこかはぐらかされている気がして機嫌の悪い獣の様に唸った。
「出掛けたらお前が口を閉ざした事、聞かせるか」
「ああ。そのつもりだ」
 私は、お前には隠し事をしない。
 そうひたりと見据えてアイツは言った。
「お前に私の全てを見極めて、そうして決断を下してもらうのだから」




 屋敷を出たアイツは、さっきとは真逆の道を歩き始めた。
 最初は気のせいかと思っていたが、コイツが道を曲がる度に予感が確信に変わる。
(――コイツ、下町の方に向かってやがる)
 貧困街ほど殺伐とはしていないが、下層の人間が暮らしている街。この国の国民の大半を占めるのが、この層の人間だ。
 一握りの金持ちが国を牛耳り、媚び諂う者が上層・中層。それを合わせても国民の三割を超えるか、超えないか。残りの七割が下層の人間で、その中でも困窮した者が家族を、もしくは自身を奴隷として売らなければいけない。この国はそんな形を成している。
 国民の大半を占める下層の人間の住む街だから、賑やかさにおいては正直どこにも劣らない。どれだけ貧しくとも、人が集まれば騒がしくはなる。
 おまけに下層と言っても、中層より僅かに下という者から、明日我が身を売らなければいけないという身の者までいるからそれこそごった煮状態だ。
 色々な店が立ち並ぶ一方、犯罪も多くなる。
 日が沈み、照りつける太陽から解放され始めると、酒が入り始めたそこは更に賑やかさを増す。コイツは今からそんな場所に向かおうとしているのだ。
 コイツに買われる前、長期間の労働作業の時に、こっそりと何度か抜け出しこの町に来た事がある。寝る際に足に鎖を付けられない、町の近くでの作業、雇い主が抜けている、という三拍子がそろわないと出来ない事だったから、本当に指で数えられる程だったが。
 確かに賑やかな街だが、金持ちは絶対に足を踏み入れない。
 理由はいくらでもある。
 治安が悪い、飯が不味い、衛生的に悪い。
 そもそも金持ちが自ら下層の民に関わろうとする事など無い。
 無い、はずなのに。
 砂を踏みながらアイツは無言で進んでいたが、ふと顔をあげると暫く考える様な素振りを見せ、そして俺を振り返った。



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