Novel | ナノ


▼ 2


 浮き上がる様に意識が覚め、身体を起こそうとして首の周りにある圧迫感の名残に咳き込む。咳き込みながら、ああそう言えばあの男に首を絞められたなと思い出した。

 下層階級独特の癖のある発音と、粗野な言葉使い。張りのある褐色の肌の下の、まるで闘う為の様な逞しい筋肉。手入れをされた事の無いだろう黒髪は、野生の動物の毛皮を思わせた。そして鋭いサラヤーン柘榴石の瞳。
 父の言葉ではないが、獣の様な男だと思った。
 首を絞められた時に真正面から見た柘榴石の瞳は、憎悪の炎が奥でゆらゆらと揺らめいていた。
 ――仕方が、無いと思う。
 それだけの事をしてきたのだ。私達の足は、一体どれだけの踏み拉いた血と汗と涙と憎悪で汚れているのか分からない。
 でもその事に気が付かせてくれた、愛して止まなかった人達がいるから。
(――私は貴方達の為にも、この国を変える)
 そう決意をした。だからこそ、あの獣の様な男の手を振り解かなかった。力では無理でも、使用人を呼ぶ呼び鈴は近くにあったから、それを引けば助かっただろう。
 でもそれではいけない。
 憎しみを抱いている目の前の奴隷を説得せずに、国など変えられない。だから甘んじて受け入れた。もしも死んだとすれば己の力不足、むしろ生きている価値が無い。そんな危ない賭けだった。
(死なずには、済んだ……みたいだな)
 手で喉を静かに擦っていると、ガタンと音がして、そちらの方に顔を向ける。
 大きく開かれたテラスの扉に、あの男が凭れてこちらを睨んでいた。

「……逃げなかったのか」
「逃げた奴隷には死しか待っていない。ならこの屋敷の金持ち全員を殺して死んだ方がまだ良いだろ?」
「……そうだな」
 正しい言い分に、静かに頷けば彼は苛立たしげに舌打ちをした。
「お前、何を考えている?奴隷の身分を無くすってそんな事が出来るのかよ」
「やってみせる」
 真っ直ぐに柘榴石の瞳を見据える。そこに一切信頼していないと書いてあって、小さく溜息を吐いた。すぐに信じろ、という方が無理な話だ。
「……奴隷や貧しい者が苦労をし、その上で富んでいる者が悠々と胡坐を掻いているという世の図はおかしい。人間が人間を家畜の様に売り買いするなど、誤った治世だと。……私の祖父はそう教えてくれた」
 彼が少し目を見張る。
 それもそうだろう。そんな考え方をしている人間が裕福層にいるとは誰も思うまい。
「祖父は私を色んな場所に連れて行ってくれたよ。スラムから奴隷市場まで。酷い物だった……あれは人が住める場所では無いし、人が行う所業でも無い」
「ッ、だったら!!だったら、お前らの金を全部使い果たしてでも俺らを救えよ……!!」
「無理だ」
 即座に否定をすれば、彼はやっぱりそうじゃねぇか!と吼えた。
「お前もそこらの金持ちと一緒だ!自分の金を娯楽以外に使う事を何よりも嫌う!お前は知らないだろう!?見ただけで分かるものか!!家畜同然に扱われる悔しさを!自分の言葉が何一つ届かない苦しさを!何日も何日も食い物にあり付けず、命が削られていくのをひしひしと感じる恐ろしさを!!!」
 頭を抱えて彼は呻く。
 ギッと上げられた瞳は黒い色彩の中で爛々と憎しみで光っていた。
「なぁ、知ってるか?鞭で打たれるのがどんなに痛いか。皮が弾け飛んで、肉が抉れる痛みをお前は味わった事があるか!?奴隷の俺達はなぁ、売られる前に家畜みたいに身体に焼き印を入れられる。赤く焼けた焼き印を押される時の激しい苦痛を、そこに酒を浴びせられる激痛なんて、お前になんか想像も出来ないだろうが!!!」
 心からの叫び、というのはこういった物なのだろう。
 憎しみ、怨み、怒り。
 激しい感情が肌を打ち、余りの強さにこちらの心まで乱されそうになる。
 そもそも自分とは余りに体格差があり過ぎる男に間近で怒鳴られるというのは、大抵の者は恐怖するだろう。が、怯える事は出来ない。ここで心を乱していては前に進まないのだから。
 これが彼らの本音であり、自分達が彼らに行ってきた真実であり、結果。
 それを逃げずに受け止めなければいけない。

「……そうだな。私は鞭打たれる痛みも、焼印を入れられる痛みも知らない。……けれど、本当にこの国を、奴隷の制度を無くしたいと思っている」
「思うだけなら誰だって出来る。口先だけに俺は騙されない」
 思っていたよりも賢い男だと、笑みが口元に浮かんだ。
「……その通りだ。しかし、今はまだ時が満ちていない。スラム街で私が持っている金の全てを、彼らに与えても良い。だが、それで救われる貧民は何人だ?その金で一体何人の貧民が奴隷になるのを防げる?そんな物、燃え盛る炎に数滴の水を垂らす様な物だ。貧しい者の暮らしは何も変わらず、私という新たな貧民が一人増えるだけ……」
 彼が、くっと唇を噛むのが分かった。
 彼も分かっているのだろう。この因習は覆すには余りにこの国に根深く根付いている事を。
 労働用奴隷という事だが、彼は予想以上に聡い。学力においては無いに等しくとも、多分これは彼自身の生まれ持った賢さなのだろう。
「私を殺さなかったという事は、お前もその事を望んでいるのだろう?」
 奴隷という制度の無い国を。
 そう言えば、憎しみに顔を歪ませながら、望まない奴隷がどこにいる、と彼は吐き捨てた。
「ならば私に賭けてみないか。私がこの国を変えられるかどうか。私には無理だと思ったその時は私を殺せば良い。私も静かに殺されよう」
 警戒心と不信感を剥き出しにした瞳が、こちらを値踏みする。
「私はイルファーン・バドル・アル=ラシード。アサド獅子よ、お前は私の監視者として私を見張れば良い」

 そして見限った時にはその牙を、私の喉笛に突き立てれば良い。




 俺を買った男――イルファーンとやらの話を、全面的に信用した訳では無い。
 冷たい紫の瞳に、余り変えない表情。どれをとっても信頼に足りる物では無かった。
 ただ、その冷たい瞳の真っ直ぐな視線、そして意思の強そうな喋りに暫くはこの男を生かしておいても良いかと、少しは思ったのだ。
(――それをこうも早々に後悔する事になるとは)
 俺は苦虫を噛み潰した思いで、目の前の紙に何度も繰り返し書かれている名前を睨み付けた。

 話しは数時間前に遡る。
「見極め、それから殺せ」といったアイツに俺が渋々と言った態で頷くと、突然アイツは聞いて来たのだ。
『アサド、お前読み書きは出来るか』
『……は?』
『読み書き、だ。本を読み、文字を書く事は出来るのかと聞いている』
 物心ついた頃には奴隷だった俺に知的労働用ならばいざ知らず、そんな高度な学がついている筈が無い。
 そう言えばアイツは考える様に目を細めると。
『ならば自分の名前は書けるか?』
 否、と答えた結果がこれだ。
 さっきからずっと机に向かって、紙に羽根ペンを走らしている。
 書かされているのは己の名前と、アイツの名前。それを何十回何百回も繰り返し書いているのだ。
 正直文字なんて、ただの形にしか見えないし、今自分が書いている部分が“アサド”のどの辺りになるかすら分からない。
 いや、書き取りを始める前にアイツが『これが“ア”、これで“サ”、そしてこれが“ド”だ』と教えていたが、既に忘れている。
 だから今俺は変な形の絵を描き映している様な気分だ。
 如何に自分がこういった単調な作業に向いていないのか、という事が骨身に染みる程分かった。時間を追えば追う程名前の形は雑になり、まるでただ虫が這った様な形にしか見えなくなっている。
 ……いや、単調な作業には慣れているか。
 骨が軋む程の重い荷物を背負い、指定された場所まで運べばまた戻って運ぶ。そんな作業は数え切れないほどしてきた。
 だが、握りしめたら折れそうな羽根ペンを握り、ちまちまちまちま、それも同じ事を机に向かってやる単調さは、それとは一線を引く単調さだ。
 じっとしているのが苦手な性分なのだろうか。とにかく羽根ペンを握る手はぞわぞわするし、殆ど動かない身体は疲れと苛立ちを確実にため込んでいた。
 これならば重い荷物を運んだ方がマシだと、何度思った事か。
 ダラダラと書き続けていると、ふと傍に気配を感じた瞬間後頭部を叩かれた。
 痛みはそんなに無かったが、急な衝撃に振り返って睨む。そこには案の定、アイツが立っていた。
「なんだそのミミズがのたくった様な文字は。見本は置いてあったというのに……全く違う物になっているだろう」
 呆れ果てた、と言った態の表情に苛立ちが更に増す。
 手の中の羽根ペンを折ってしまいたい衝動を押し殺して口を開いた。
「何でこんな事を俺がしないといけないんだ。俺は奴隷で」
「関係ない」
 俺の言葉を遮って男はそう言った。
「奴隷だろうと何だろうと……いや、奴隷だからこそ名前を書けるようにしてもらわねば。お前はタダ飯を食べるつもりか?」
「……どういう事だ」
 低く唸れば、男は当たり前だと言わんばかりの表情で口を開く。
「寝床に朝昼晩の飯、それをお前は私を監視するだけで得られると思っているのか?奴隷の様な扱いをするつもりは無いが、使用人程度には働いて貰う」
 ……それは確かにそうだ。むしろそれだけ待遇が良い条件は、奴隷の身では有り得ない。
 使用人と奴隷の違いはそこだ。使用人は働けば働くだけ己の手元に金が入る。奴隷はどれだけ働いても、奴隷主が利益を得るだけで家畜と変わらない扱いを受け続ける。
 この男は俺を奴隷では無く、使用人として扱うと言っているのだ。
 そういえば今の所、この男が俺を人間として卑下するような言葉を吐いていない事に気付く。
「……それと名前を書けるようにするのとどういう関係があるんだ」
 その事を認めるのが納得いかず、追求の言葉を口にすれば、まるでむくれた様な声音で後悔をした。
 男は顎に拳を当て、暫く黙ると。
「……そう、だな。余り長時間同じ事を続けるのも苦だろう。話すよりも見せた方が速いのもある。気分転換にでも外に行くか」
「外?」
「ああ、外だ」




 そう言われて出たのは本当に“外”だった。
 屋敷を出、そのまま徒歩で市へと向かう。
 馬で向かわないのかと少し疑問に思ったが、向かった先の市の場所を見て納得した。
 大通りの主に金持ちが使っている市場では無く、一般市民が、それも中流階級から下の市民が使う様な市に着いたのだ。ここはあまり広くない道の両端に、店の先が広がっているので馬などは通れない。
 それよりも、この男がこんな場所で買い物をする事が信じられない気持ちだった。
 普通の金持ちならばここに寄りつきもせず、ここから来た品物は臭いと顔を顰めるだろうに。
「ここには時々足を向ける。私一人か使用人を一人連れてだが。値段の割に中々に質の良い物を置いてある店が多い」
 その台詞が金持ちの口から出た事に鼻で笑う。
 コイツが使っている品物に比べたら、ここに置いてある物など馬にすら使わないだろうに。
 その意図に気付いたのか、男は紫の瞳をこちらに向けた。
「言っておくが、私が今身に着けている服も装身具も、ここで買った物が大半だからな」
「……は?」
 ああでもこの指輪は違うがな、と呟く男に目を見開く。
 そんな俺の顔を見て、男は小さく目で笑った。
「どれだけ良い材料を使っていても、技術が悪ければそれはただ高い粗悪品だ。逆に質はそこそこでも、技術があれば良い品など沢山ある。それを知りもせずに、下級市民が使う物だからと決めつけるのは余りに勿体ない。私はそういった店を見つけるのが嫌いでは無いからな。まぁ後は……個人の美的感覚の善し悪しだ」
 まぁ本音は身も蓋も無い良い方になってしまうが、服は服だからな、と呟いた男の横顔を俺は茫然と見つめるしか無かった。
 市場の人混みに流される様に進むと、ある店にアイツは入って行った。その後ろに続く様に俺も中に入る。
 薄暗い店内の壁を埋める様に色とりどりの布が掛けられている事から、ここは服屋か何かなのだろう。
「おやイルファーン様!お久しゅうございます」
 店主らしき男がコイツを見たとたん、ニコニコと嬉しそうに笑った。
 その笑いが、あの奴隷売りの店主の様な媚びを売る物では無く、親しい人に会った時の自然な物である事に、本当にコイツがこの店に何度となく足を運んで、且つ店主とも良い関係を築いている事を知る。
「今日は私のでは無く、この者の服を頼みたい。私の手持ちの服に合う大きさの物が無いんだ」
「は?」
「確かに身体が大きい方ですな。新しくお作りになりますかな?それともすぐにお使いになるならば出来合いの物を……」
「この身体に合う物で出来合いのがあるか?」
「ええ。ええ。選択の幅は狭まりますが、何着かはございますよ」
「おい、ちょっと」
 待て。
 先程からこちらを無視して進められていく会話に、頭がついて行かない。
 こいつは何を言っているんだ。俺に服を与えると?奴隷に服だと。有り得ない。
 例えば俺が観賞用奴隷ならばまだ分かる。だが俺はただの労働用奴隷だ。それも肉体労働。汚れ、汗に塗れる奴隷に服を与えるなど。
 そんな事を考えているこちらを余所に、着々と話は進む。
「……これが良いな。だがこの色が似合うか?」
「それならばこちらの方などおすすめですが」
「黒、か。元からこいつは髪が黒い上に肌も褐色だ。黒の服では余りに黒尽くめな気がするが……」
「いえいえ、案外似合う物ですよ。それにほら、こちらの物は裾に刺繍が入っておりますから、真っ黒という訳では」
「なるほど、品の良い刺繍だな……おい、お前。これを当ててみろ」
 アイツが振り返ると黒い衣を俺の胸に当てて来た。
 その手を音を立てて払うと、一歩後ずさる。
「アンタ……何考えてるんだ。俺は奴隷なんだぞ?奴隷は皆腰か背に奴隷の焼印を押される。その奴隷の印が常に見える服装でなければ、奴隷は死罪、買主も罰を受ける事を知らない訳じゃ無いだろう!」
 奴隷の証である焼印は腰より上に入れられる。俺も例に洩れず背中の左下に焼き印がある。だから奴隷の服装は腰布だ。
 それは観賞用奴隷とて例外で無く、彼らの服装は上に纏っても透ける様な薄い物ばかりだ。
「構わない」
「かまわ……って」
「構わない、そんな事。どうせこの国から遅からず奴隷制度は無くなるのだから。そんな腰に巻いてあるだけの服装とも言えない恰好をする必要は無い」
 きっぱりと言い放ったコイツもコイツだが、その後ろで変わらずにこにこと微笑み続けている店主にも驚きを隠せなかった。この国から奴隷制度を無くすなど有り得ない事を、それも金持ちが口にしたのに驚愕の片鱗すら見せない。それは商人魂というよりも、既に知っているからといった様な雰囲気だった。
「お前は今は私の下にある。私は今後お前に今までの様な泥に汚れ、汗に塗れ、血が滲む様な仕事をさせるつもりは今の所、無い。勿論働いては貰うが。むしろ腰布だけでふらふらされると私の品性が問われる。つべこべ言わずに服を着ろ」
 そう言って、ぐっと押し付けられた服を、俺は跳ね除ける事が出来なかった。

 身に着けた服は初めて腰から上を隠す物だったので、腹や背に触れる布が気になって仕方が無い。
 アイツが身に着けているのと同じ、ゆったりとした作りになってはいるが、俺のには袖が無く肩から先は露出している。
 居心地悪く身体を揺らす俺を頭の先から足先まで目を下すと、満足げにアイツは頷いた。
 もう一着は出来たら屋敷まで届けて欲しいと言った後、アイツは一言二言声を潜めて店主と言葉を交わし、その店を出た。
 そしてまた人の流れに飲まれる様に市場を歩き出す。
「おい、どこに行くつもりだ」
 ただでさえ埋もれやすい身体を目で追い、どうにか逸れない様にする。
 その背に喧噪に紛れない様に声を張り上げれば、目線だけちらりとこちらに向けた。
「後もう少しだ」
「もう少しって……だからどこに」
「煩いな、黙ってついてくれば良い」
 ほら、これでも食っていろと手渡されたのは黄色い皮の果物で。
 いつの間にやらどこかの屋台で購入していたらしい。
 金持ちが屋台で果物を買い、それを硝子の器にも盛らず、そしてわざわざ小さく切りもせずに口に運ぶ事が信じられなくて。
 その薄い皮に歯を立てて咀嚼している横顔をまた茫然と見つめながら、俺は手の中の果物の滑らかさを指で感じていた。

 人波に揉まれて漸くたどり着いたのは、この国の建物と同じように石と泥で出来た、けれども一際白い色の塔だった。
 いや、確かに高くはあるが塔という程の高さは無いかもしれない。
 ただ奥行きがあり、中の広さは予想がつかなかった。
 大きな入口には門兵が槍を持って立ち、俺とコイツが近づくと道をあける。余程の常連なのか、門兵はコイツに頭を下げ、そして俺に値踏みするような目線を向けた。
「私の連れだ。今日は私一人の手では足りなさそうなんだ」
 それに気付いたコイツは、全く動じずにそう言いのける。
 門兵はそれに頷いて俺から目線を外したが、俺が奴隷だと知っていたらこうはならなかっただろう。なるほど、それで服が必要なのか、と思う反面、ならばここで服を肌蹴て焼き印を見せつけ、コイツを困らせてやろうかとも思った。
 が、自分を落ち着け、押し止める。何もむざむざ殺される様な事をする必要は無い。無駄な騒ぎが好きな訳でも無いし……コイツの困った顔は見たいと言えば見たいが。
 そんな事をこちらが考えているとは、露ほども知らないだろうコイツは、何も言わずに前へ進む。
 照りつく日光から逃れた屋内は解放された窓から入り込む風もあり、涼しい。
 微かに吹く風が、ふわりとアイツのクーフィーヤを揺らした。



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