Novel | ナノ


▼ 1


 人間誰しも一度は思った事はあるのではないだろうか。
『人の肉はどんな味なのだろう』
 そこから俺の考えは色々と膨らんでいく。
 例えば誰かと遭難し、相手が死んだとする。俺は生き延びるためにその肉を食うだろうか。自分以外の人間はいない。自分さえ黙っていれば誰にもバレない。
 さて、俺は食べるだろうか。――答えはNOだ。
 例えどんなに腹が減っていても手は出さず、俺は飢えて死ぬだろう。相手が死ぬ間際に俺を食えと言ったって食わない。己の中の倫理が歯止めをかける。
 それなのに、俺は人の肉の味が知りたくて堪らなかった。この事に対して俺の倫理は何故か働いてくれない。
 食べたい訳じゃない。殺したい訳でもない。ただ知りたいのだ。そこにあるのは純粋な興味。
 人の肉の味についての評価は色々と聞く。雑食だから不味い。いや雑食だからこそ美味い。食えるものではない。鶏肉の様な味。トマトの様な味。柘榴のような味。酸っぱいエトセトラ……。
 それは経験に基づく話なのか、憶測なのか。はたまたでっちあげた話なのか俺に真実を知る術はない。それに例え人肉嗜食者がそう言っても、俺はそれを信じられないだろう。
 何故ならそれは、俺の味覚じゃないから。
 味の好みなんて十人十色だ。俺に味を教えてくれた人肉嗜食者が、卵焼きはダシ巻きが一番、と言ったら俺はその人の人肉の感想を信じられない。
 手っ取り早く知る為には、俺が実際に人を食べれば良い。しかし先程も述べたように、俺の中の倫理がそれを拒むし、生憎興味を満たすためだけに人生を棒に振るつもりもない。
 つまりそこまでして真実を知りたいと思っていなかった。

 そんなある時、生物を教えていた先生がこんな話をした。
『人間ってね、自分の体に近い物ほど美味しいって感じるんだそうだよ。だから野菜よりも魚、魚よりも肉が好き、そうやって考えると人肉も美味しいんじゃないかな』
 教師として似合わない軽い話し方で、その年老いた先生は脱線していた話を元の植物細胞の説明に戻した。
 高校二年の夏。いつも脱線していたあの先生の授業の中で一番頭に残っている話。


 俺は思ったんだ。
 野菜より魚、魚より肉、他人より肉親……ならば俺にとって、誰が一番美味いと感じるのか。
 同じ環境に生まれ、同じ食べ物を口にし、同じ親から生まれて、血を分けた存在。
「――あずま
 俺はそれからというもの、たった一人の兄弟を変わった目で見るようになっていた。




 あの授業を受けた日から、ただの人肉の味への興味が、世界一美味であろう存在の味への興味へと変わった。
 食べるならただの人間よりも、美味しいと感じる人間の方が。ただの豚よりもイベリコ豚の方が良いじゃないか。それに肉親の方が、赤の他人を食べるよりも罪悪感が少ない気もする。
 いつの間にか俺は、半袖から剥き出しの二の腕を見ては「もう少し太い方が喰い応えがあるな」とか、ハーフパンツから覗くふくらはぎを見ては「引き締まってるけど、筋っぽ過ぎそうだな」とか。
 さながらヘンゼルとグレーテルの話に出てくる魔女の如く、東の身体をしげしげと値踏みするようになっていた。

「……これ食え」
「は?良いの?」
 漆塗りの箸で、自分の皿の上に乗っていた唐揚げを摘まむと東の皿の上に乗せる。素っ頓狂な声を上げて東が目を見開いた。
 そりゃそうだろう。何せ唐揚げは俺達兄弟にとって一、二を争う大好物だ。
 もっと小さな頃に、大皿にのった唐揚げを取り合って大喧嘩してから、我が家では唐揚げは最初から個人個人の皿に分けるようになっている。
 それから取り合はしなくなった……というかする必要はなくなったが、大好物のそれを相手にやる事など今までしたこともないし、されたこともなかった。
「……なんか企んでる?」
 東は茶色に染めた髪の下から、胡乱な目付きで俺をちらりと見つめる。
「いや、別に」
 企んでると言えば企んでいるが、実行するかどうかは目下検討中だ。
「ここ最近部活が大変だって聞いた」
「ふうん……」
 東はサッカー部に入っていて、ここ最近特に忙しいらしく帰ってくるのが遅い。おかげで身も引き締まって良い具合だ。
「ま、くれるって言うなら貰うけどさっ」
 嬉しそうに笑って、東は俺のあげた唐揚げを口に放り込んだ。
 部活に一生懸命になるのは無駄な肉がつかなくて良いが、あんまり頑張り過ぎるのも考え物だ。肉が硬くなる。
「もっと食え」
 俺はもう一個唐揚げを東の皿に入れた。
 ――もっと食え。たんと食え。
 ヘンゼルを牢にいれ、肉付きを良くするためにたらふく食わせる魔女の台詞が頭を過ぎる。
 東は再び皿に入れられた唐揚げをぽかんと見つめると、じろりと俺を睨んで「言っとくけどあのゲームはまだ終わって無いから貸してやらないからな!」と唐揚げ返せと言われるのを恐れたのかさっさと頬張った。




 そうやって東に熱い視線を送り続けていたある時、ふと気付いた。
(――そうだ。自分に近い物が一番美味しいというのならば、自分自身はどうだろう)
 ウロボロスの様に自分を自分が食べれば良い。
 頭を殴られた様な衝撃を伴う発見だった。それなら俺は俺を食う訳だから、罪には問われない。
 なんという盲点。
 俺は部屋に戻ると、いそいそと引き出しから装飾重視のナイフを取り出した。
 外国に仕事で頻繁に行く叔父からの土産で、美しい装飾に惹かれて買ったのだと言っていた物だ。「まあ、ペーパーナイフにでも使えや」と言われて貰ったそれは、切れ味が良すぎてペーパーナイフには不向きかと思われた。
 その美しい鞘を抜き、細身だが鋭い刃を自分の二の腕に当てる。
 当てて暫し止まった。
 その美味さを味わう為に、俺は自分の身体を削ぎ落とす苦痛を味合わなければいけないのか?……いや、そこまでして味わいたい訳じゃない。

 これも駄目かと思って少し凹んだが、また違う案を思いつく。
(――何も肉で無くても良いじゃないか。血液だって俺の一部だ、中々美味いやもしれない)
 二の腕に当てていたナイフを手首に当てる。
 削ぎ落とす痛みを経て程味合いたい訳ではないが、手首を切る痛みならまあ五分五分くらいだ。
 ひやりとした刃の冷たさを感じながら、それを横に引こうとしてまた止まる。
(……そういえば俺は既に自分の血の味を知っているじゃないか)
 紙や包丁で謝って自分の指を切ってしまった時、応急処置として口に含んだ時にするあの味。生臭く、鉄の味がするあれ。
 それは食えたものじゃない訳ではないが、到底美味と言えるような味でも無かった。
 自分の身体に近い物は美味しく感じても、全く同質の物は逆に異質な物として身体が認知するからなのだろうか。
 やはり『ぎりぎりまで近い、自分とは異なる物』でないといけないのかもしれない。いや、むしろもう血などどれでも同じで、美味などと言う話は出鱈目という事もあり得る。
 俺は色々と望みを絶たれた気分になり溜息をつく。その瞬間、自室のドアが開いた。
 人がいた気配なんて感じなかったため、驚いてそっちを見ると東が立っていた。

「兄貴ーあのさゲームの話なんだ、け……ど……!?」
 ゲームのパッケージを見ながら入って来た東はパッケージから目を離して、俺を見た途端顔を強張らせ、青ざめる。
 ……そういえばまだナイフを手首に押し当てたままだった。
「ば、か、何してんだっ!!!」
 鬼の様な顔で俺に掴み掛ると、ナイフを持っていた方の手を捻じ上げる。
 ぎりぎりと絞められてナイフを取り落してしまったが、落ちる際にナイフの刃が東の手の甲の皮を薄く切り裂いていった。
 その朱が目に入った瞬間、全ての意識がそこに向けられて何も聞こえなくなった。
 薄らとそこに朱が滲むが、東は興奮して痛みを感じて無いようで何やらこちらに向かって喚き立てている。
 それに耳を傾ける事無く、その朱にふらふらと惹き付けられるように俺は口を付けた。
(――甘、い)
 べろりと舐めあげると慌てて東が手を引いた。愕然とした顔で俺を見ている。
(――もっと欲しい)
 ちろりと舌で自分の下唇を湿らせて東を見ると、東は背を向けて凄い勢いで部屋を出て行った。




(……さて、どうしたものか)
 俺は椅子に腰掛けてぐっと背を反らした。

 東の血は微量だが確かに甘く感じた。大量に口に含めば、もっと甘く感じるかもしれない。
 しかしそれでは出血の面で問題が出るだろうし、何より東の身体に傷が――証拠が残る。いっその事何も残さないくらい綺麗にたいらげてしまおうかと思ったが、はっと新たな事に気付いた。
 そもそも食べるという行為は、それを身の中に取り込む行為であって、取り込まれた方は当たり前の事だが無くなる。そして東は唯一無二の(両親が今後子供を産まなければだが)兄弟だ。つまり全てたいらげてしまったら、例え美味だったとしても再び口にできない。一回限りの行為になるのだ。
 平らげなくても、命にかかわる事は同じ事が言える。軽々しく『試食』などは出来ない。それに気付いても、好奇心は枯れない。何か方法は無いものか。
(まあ、当面の問題は……)
「東の警戒をどう解くかだな……」
 そう呟いて眼鏡を外して目の間を揉んだ。
 今の行為で東は完全に俺を警戒したに違いない。そもそも既に東の身体に、傷という証拠が残ってしまったではないか。
 いや、食す為に付けた傷ではないから誤魔化せる。殺人未遂・人肉嗜食者のレッテルを貼られる事は免れるだろう。……だろうが、血を舐め取った変態のレッテルが東の中で貼られた事は確かだ。
 己の欲求を満たすまでの長い道のりを思うと、再び溜息が出た。




 悩んでいたら、夕食だと呼ぶ母さんの声が下から聞こえて来た。
 とりあえず考えるのを止め、階段を下りると、既に東はテーブルについていた。左の手の甲に貼ってある絆創膏を見て、少し足が止まる。
 その絆創膏を親に聞かれた時に、東は一体どう答えるのだろうかという恐怖と、あの下には俺の付けた傷があって、そこに歯を立てればきっと甘くて熱い物が滴るに違いない、という不思議な興奮で胸がざわついた。
 静かに席に着くと、母さんが目の前にサンマの塩焼きを置く。そしてふと東の方を見ると
「あら、東。どうしたのその手」
(――きた)
 身体が強張る。
 全身を耳にして東がどう答えるかを待つ。

「部活で怪我した」
 そんな俺の緊張と予想を、すっぱりと立ち切るように東ははっきりそう答えた。
「そうなの。気をつけなさいね」
「ん」
 俺には全く目もくれず、東はサンマの身をつついて口に運ぶ。
 その余りに何も無かった様な態度に、あの傷は本当に部活で怪我をした物ではないかと錯覚しそうになったほどだ。

 ぼんやりしている内に東は夕食を先に食べ終わった。
 食器を流しに運ぶ背中に母が「東、風呂入んなさい」と言ったが。
「……俺はまだ良い。兄貴、先に入って」
 ……珍しい事もあるものだ。
 俺は長風呂で、おまけに設定温度が高いと毎度東に文句を言われるから、いつも風呂は東の後なのだ。それを東自身から先に入れなんて……。
 これはさっきの事と、何かしら関係しているのだろうか。
 どちらにせよ東は、俺が手の傷を舐めた事を両親に言うつもりが無いようだから、その点に関してはもう心配しなくて良いのだろう。
 そう考えながらサンマをゆるゆる咀嚼した。




 眼鏡を外した事で余り良く見えない視界が、湯船やシャワーから出てくるお湯の水蒸気で更に悪くなる。
 がしがしと染めてない髪についているシャンプーの泡を流し、キュッと音を立てて栓を閉めた。
 濡れた事で重くなり、纏わりつく鬱陶しい髪に手を差し込んで後ろへ掻きあげる。それでも水滴は顎を伝って滴り落ちた。
 さて身体を洗うか、と壁に掛っているタオルに手を伸ばすと。
「兄貴。入るからな」
 そんな言葉と共にガラッと浴室の扉が開いて、思わず一瞬止まってしまった。
 そこに立っていたのは腰をタオルで隠した東。
 ……明日は雪でも降るかもしれない。
 一緒に風呂に入るなんて何年ぶりだろう。それも東から一緒にとか……ありえない。
 東は股間をタオルで隠しているが、俺は勿論一人で入るつもりだったからタオルなぞない。とりあえず身体を洗う用のタオルで簡易として隠そうとして……いや、別に隠さなくて良いか。
 東が妹ならまだしも弟だ。男同士で兄弟。隠すも何もないか、と、そのタオルでそのまま身体を洗った。



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