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泣きすぎて、いつの間にか黒い人の足が止まっている事や、膝の上に下ろされている事に気づかなかった。
溢れる涙を鋭い爪と一体化したような恐ろしい手で何度も拭われ、そっと耳に唇を寄せられる。
泣いて少し落ち着いて来て、黒い人の方を恐る恐る窺うと、泣き喚く俺に苛立ちを向けるでも無く、何か堪える様な、少し悲しげな顔をしていた。
ふと、黒い人は首を巡らせ辺りを見回すと、手を伸ばして白い花を摘み取って――俺の耳元に挿した。
予想外の行動に驚いて涙が思わず止まる。間違いではないかと耳元に手をやり、やはりそれが花だと分かって息を呑んだ。
(――ち、違う、違う……だって言葉もきっと通じてない。習慣だって違うはずだ。だからこれは……)
――求婚の花なんかじゃないはずだ。
俺達の方では、相手の耳に花を挿す事は求婚を指す。それに同じように花を返せば求婚は成り立ち、共に歩む存在となる。
勿論、結婚はいつかするつもりで、夢見て来たと言っても良い。
いつか自分の番になる相手を見つけて、花を捧げあい、同じ角飾りを身に着ける日を。まだ見ぬ人を愛し、愛され、慈しみ合ってゆく未来を。
毎回そんな事に想いを馳せる度、それは真っ白なテーブルクロスをふわりと広げるようにどんどんと甘く広がっていき、最後には蜜月の際の愛の巣の様子にまで思考は伸びる。
柔らかいシーツの上に沢山の花を散らばせた寝床。そんな寝床で蜜月を共にする。
シーツに散らす花弁は量が多く、色鮮やかであればある程相手を想っているという事になる。いつしか自分も、大切な人のために素敵な愛の巣を作りたいと――そう、思って来た。
それがまさか、こんな場所で、こんな相手に……いやいや、違う。これは違う。
「ヴルラ。ラグルルヴァグザルネガ、ウル、ヴルラルグ」
何か祈るように囁かれ、息を止めて見つめてしまう。
「ラ、メグルレヴァ――ラググガヴァウ」
意味は全く分からない。けれど時が凍りついたように止まっている。
いや、爪先を軽く持ち上げそこに唇を寄せられた瞬間から心臓が止まっている気がした。
こんな習慣は自分の方には無い。けれど――言葉が通じなくとも鋭い爪を持っているのに引っ掻かないように気をつけているのが、こちらを窺う光る青い瞳が優しく……そして、どこか甘く色づいている様に見えるのが――いくら頭で「これは求婚なんかじゃない」と否定しても、そうなのでは無いかと思ってしまう。
そして――思わずキュンと来てしまっている自分が、いた。
(……いやいやいや!そんな、ちょっと良く考えようよ!)
まず魔物では無いかも知れなくとも、相手は見た事も無い種族だ。
白い肌に、毛並は淡い色ばかりの自分達にしてみれば真逆の色合い。
肌の色や耳の形、瞳の形なども異なり、面立ちもこちらでは見られないような凛々しく猛々しい物だが、造形は正直物凄く整っている気がする。何より美しいのはその瞳だ。蝋燭を灯した時、芯の周囲に揺らめくあの火の様な不思議に光る青の色。
そこまで考えて、自分がこの黒い人の良い所を上げている事に気づいてハッとする。
(じゃ、じゃなくて!まずここは知らない国だし……転げ落ちて来たのを助けてくれたんだよな……。でも無くて!言葉も通じないし……何て喋ってるんだろう……話してみたいなぁ……。わぁあ!!!違う!)
ダメだ、ダメだ!
いけない方向に思考が走り出している自分が怖い。
けれどもしこの人を選んでしまったら、同じ角飾りの夢も、蜜月の寝床も、もしかしたら故郷に帰る事すら出来なくなってしまうかもしれないんだぞ、と自分を脅しても、胸の高鳴りは止まりそうに無い。
そもそもこの行為が求婚だなんて決まった訳では無い。ただの友好の証……もしかしたらただ慰めのために目についた花を捧げたのかもしれない。
なにより、なにより、この人は――男性ではないか。
その瞬間、心が凍りついたような気がした。
(もしかしてこの人は俺の事を女性だと思っているのかもしれない)
この人が見に付けている服が、そちらの国の人が皆身に着けている形の物なのか分からないが、かなり露出部分が広い。
それに比べて自分のは布で覆われていて、身体のラインや胸などパッと見分からないかもしれない。この人に比べると随分と小さいし、華奢だし、女性と間違えられていても――おかしくない。
(女性だから優しくしてくれた?助けてくれた?)
みるみる耳が垂れ下がり、気分も降下していくのが分かった。
ああ、もうダメだ。俺はこの人の事を。
――好きになってしまっている。