Novel | ナノ


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 爺さんの、そのまた爺さんの爺さんの、と遡ればキリが無い程昔から言われてきた事だった。

『ずうっと続くあの峰を越えてはいけないよ。峰の向こうは魔物が住む場所。踏み込めば黒い魔物が襲い掛かり、鉤爪で千々に裂かれて魂を喰われてしまうよ』

 だから踏み込んではいけない。峰を越えてはいけない。

 そう、教えられて来た。




 祖母の、そのまた祖母の祖母の、と辿るのが無意味な程古来から伝えられてきた事だった。

『延々と続くあの峰を越えてはならぬ。峰の向こうは妖魔が巣食う地。迷い込めば白い妖魔が甘い毒で誑かし、夢現の区別がつかぬまま魂を奪われてしまう』

 だから近づいてはならない。峰を越えてはいけない。

 そう、語り継がれて来た。




 ――ああ、神さま。


 崖から転げ落ちながら、死を覚悟した。
 漸く止まり、ぐったりと伸びた身体の上にぱらぱらと小石が降りかかるのを感じながら身を起こす。が、右足の骨を折った様で呻きながら再び身体を伏せた。

 栄えている城下町からはずっと離れた、森奥の村。
 自分はそこから更に少し離れた、峰の裾の付近の小さな家に住み、薬草や山菜を採りながら生計を立てていた。
 今日は山の機嫌が良いからと、準備を整え、滅多に向かわない山頂まで足を向けた。
 さて、そろそろ帰ろうか、と思った時に、本当に貴重な薬草を、崖下の、ほんの少し手を伸ばせば届きそうな所に見つけ、身を乗り出したが最後。手元の地面が崩れ、岩肌に身体を打ちつけながら落ちていた。

 しかし幾らなんでも落ちる寸前に防御呪文を唱え、身体が柔らかく丈夫な種族だからと言っても、あれだけの高さと距離を、それも柔らかい草原では無く岩が剥きだしの場所を転げ落ちて骨を折っただけで済んだというのは奇跡に等しい。
 この世界を見守っているという神に感謝の祈りを捧げ、一体どこまで落ちてしまったのだろう、と出来る範囲で頭を上げ辺りを見回そうとしたら、それは目に飛び込んできた。
 いや、多分きっとさっきからそこにいたのだろうけど、気が付いていなかったのだと思う。
 だって、気が付いていたらこんな冷静でいられるわけがないから。

 人だと思ったのは、二本足で立っていて、頭があって、口と鼻は一つ、目は二つで、とただ形がそれに似ていたからで。他は全く自分と異なっていた。
 自分の五割増しの背丈に鈍色の肌。
 そう、鈍色。
 自分の様に肌色でも無ければ、時々村にやってくる他の種族の様な褐色の肌でも無い。本当に生きているのかと思う様な、無機質な暗い鈍色の肌。足も自分達の物とは全く異なり、鋭い爪を持った家畜を狙う夜狼の様な足だ。手の指はどこまでが指でどこからが爪なのか分からず、まるで手そのものが硬質な爪の様。髪は長く、闇色で、瞳だけが青く冴え冴えと光っているのは猶恐ろしい。耳の形は見た事も無くて、まるで鳥の翼の様に見える。
 黒い、魔物。
(――ああ、神さま)
 心の中でさっき祈りを捧げた神に縋る。
 転げ落ちた際に、峰を越えてしまったに違いない。
 薬草を取りに行った場所自体、峰の頂上の境界線ぎりぎりだった。

 殺される。

 絶叫する事も出来ず、ガタガタと震えながらこちらに伸ばされる腕から目を離せずにいた。




 ――女神よ、一体これはどういう事ですか。


 領主、とは名ばかりで、代々王から任されている土地と言えどさほど広く無く、地位も権力もそう大した物では無い。
 しかし、禁忌の地とされている土地の境界線である峰に最も近い土地を任されているため、発言力はどの地域の領主よりもあった。それに比例するかのように、収める土地に見合わない仕事が日々舞い込み、責務に忙殺される毎日にとうとう我慢の限界が来て、誰にも何も言わずこの峰まで足を運んだ。
 とにかく誰も。自分以外誰もいない場所に行きたかった。それにしては距離が有りすぎるという使用人達の泣き声が聞こえてきそうだが、それは頭から追い出す。
 口煩い周囲を困らせてやろうという大人げないと自分でも思うちょっとした出来心と、息抜き。ただ、それだけの筈だったのに。

 ガラガラ、バラバラという何かが崩れる音に身構えると、上から何か白い物が落ちて来た。
 ぐしゃりと落ちて来たそれは、身体を起こそうとして小さな悲鳴とも呻きともつかぬ声をあげ、再び身を伏せる。
 どうやら足を怪我しているらしく、変な方向に折れ曲がっている様にも見えるためもしかしたら骨を折ったのかもしれない。
 いや、問題はそこではない。
 落ちて来た“それ”は、こちらの国では絶対に見ない種族の姿をしていた。
 立ち上がった姿ではないから分からないが、多分二足歩行ではあるだろう。人の姿と似ているが、自分達とは似ても似つかぬ姿。
 まず白い。そう、白いのだ。
 薄さに多少の差はあれど黒い肌が普通である自分達にしてみれば、ありえない白さ。
 そして小さい。
 もしかしたら子供という可能性もあるが、一目見れば骨格から違うのだと分かった。成人かすらも分からないが、何年待とうとも、目の前の生き物が自分達と同じ大きさになるとは考えにくい。
 真っ白な肌に、完全に純白であるふわりと短い髪。耳の形はまるで獣の様な耳で、驚いた事に乳白色の巻き角が頭から二本生えていた。足はまるで風馬に似た蹄を持っていて、しかし風馬とは異なり少し長めの、髪と同色の毛に覆われていた。
(白の、妖魔)
 語り継がれてきた、峰の向こうに住むという妖魔に違いない。
(なんということだ……)
 ああ女神よ、これは一体どういう事ですか。
この世界を作り上げたという女神に胸の内で語りかけながら、こちらを認識した途端真っ青になり、震えながら怯え始めた妖魔にそっと手を伸ばす。

(なんだこれ……凄く、可愛い)

 そう、落ちて来た妖魔は―――凄く、可愛かったのだ。
 こんなにも小さい生き物がいるのだろうか。いや、いくらでもいるだろうが、人型でこんなにも小さいのは初めて見た。
 ふわふわとしている髪を撫でたい。
 怖がっているのを宥め、危害を加えるつもりは無いと伝えたい。
 可愛い。凄い、可愛い。

 足に負担を掛けないようにそっと抱き上げると、鋭く息を呑むようにして悲鳴を上げる。
 ああ、怖がらないで欲しい。
 幼子をあやす時の様に舌で耳を毛繕いしてやれば、さらに震えは酷くなった。何故だ。
 抱き上げてから気付いたのだが、自分達の様に鎧の様な鱗を持ってはいない様だ。
 ありえないくらい柔らかい肌に、思わずうっとりと手を滑らせてしまう。鋭い爪を持ったこの手ではうっかり傷をつけかねない。運ぶ時には用心しよう。
 鱗が無い代わりなのか、尾は全て鱗に覆われていてまるで飛龍を想像させるものだった。この鱗も勿論真っ白で、ここまで白いのかと思わず感嘆の溜息が出た。
 ずっと転がり落ちて来たのか、至る所に血が滲む怪我がある。足はやはり折れている様で、痛々しさに眉間に皺が寄る。
「……他に、痛い所は無いか」
 そっと声を掛けると、腕の中の身体はビクリと戦いた。
「怖がる事は無い。危害を加えるつもりは全くない。足は折れているようだが……他に酷く痛むところは無いか?」
 怯える目で見つめ続ける生き物に、敵意は無いと言葉で伝えるよりも態度で表した方が速いかと治癒魔法を折れた足に掛けてやる。
 その他に目に見える傷にも魔法を掛けてやり、再び声を掛ける。
「他に怪我は無いか?」
 おずおずとこちらを窺う瞳は唯一白く無い薄い緑の瞳で、その色に見惚れていると。

……ク、クゥ……ミウ……?

 なんか、白い生き物が、鳴いた。




 食べられる、食べられる……!とぎゅっと目を瞑ると、掴まれ、ぐいと身体を起こさせられた。足に負担は行かず、痛みは少なかったが、恐怖のあまり悲鳴が口から漏れ出てしまう。
 ぶるぶると震えているとべろりと舌で耳を舐められた。
(あああ味見……!!!)
 もう駄目だ、死ぬんだ…。
 まるで肉付きを確かめるように手が身体の上を這い、襲い掛かる痛みを予想して身体を強張らせていると。
ヴラ、ヴウ?
 低く唸るような声が耳に入り、身を竦ませてしまう。
ヴァラウ、グルググ。ヴェズウル……ガルヴウ?
(独り言……?)
 ただ唸っているというよりも、まるで喋っているように聞こえるのは気のせいだろうか。
 ……食べる前の祈りとか、獲物を前にしての喜びの声かもしれないけど。
 無言を貫いていると、黒の魔物が身動ぎし、そっと折れている方の足に手が添えられた。
(――ッ!)
 走る痛みを想像し、身を竦ませるが痛みが走る事は無く、むしろ優しい温かさに包まれておそるおそるそちらに目を向けると、黒い魔物の手の平から赤い光が漏れ、手が離れた時には痛みが無くなっていた。
 他の擦り傷や抉ったような傷にも手が翳され、癒されていく。
(――俺を、食べるつもりは無い?)
 癒してから食べたい、というのもあるのだろうか。いや、それは二度手間だろう。そもそも、逃げる可能性を考えれば足を癒したりしない。
 おずおずと顔を窺えば、薄ぼんやりと光っている様に見えるほど明るい青の目に敵意や飢えなどは見られなくて。
 むしろ穏やかにも見えるそれに、そっと口を開いていた。
「……こ、殺さ……ない……?」
 途端に魔物の目が見開かれる。いや、怪我を治してくれた人を魔物扱いは酷いかもしれない。
「あの、怪我……直してくれてありがとうございます。えっと……言葉、分かりますか?」
 無言の黒い人を見上げ、小首を傾げる。
「俺の方では、その……峰の向こうには怖い生き物がいるって聞いてて、その、それが貴方かと思って……ごめんなさい」
ヴ……
「!」
ヴァウ
 じっとこっちを見つめて来ていた黒い人は、一声鳴くと俺を抱えたまますっくと立ち上がり、走り始めた。その速さたるや、二足歩行で且つ人を抱えたままこんなに速く走れるものなのかと驚嘆するほどだ。
 振り落されそうになり慌てて逞しい首に縋りつき、そしてそんな事をしている場合では無いと腕を突っぱねる。
「じゃなくて、え、ど、どこに向かって……!」
 転げて来た峰からどんどん遠ざかっていく。という事は、自分の住んでいた場所から離れて行ってしまっているという事だ。
「こ、ここで見た事は誰にも言いません。だから、は、離して!」
 もがくけれど、体つきから違う相手に叶う訳もなく凄い勢いで風景が遠ざかっていく。
「か、帰して……」
 一体どうされてしまうのか、風景が遠ざかれば遠ざかるほど心細さが膨れ上がって。
 気が付けば身体を丸めてわんわん泣き叫んでいた。
 両親は物心ついた時からおらず、村のはずれの身よりの無い子が集められる場所で育てられて来たが、それでも皆と仲良く、裕福ではないが幸せに暮らしてきた。
 もう一人立ちをした身だけれど、時々そこを訪れては弟や妹の様な存在にお土産を渡して、帰る。そんな生活に不満は何一つなかった。
「お願い、帰して、帰してください。帰して……っ」
 良い歳した大人が、と笑われたって構わない。言葉も通じない相手に、遠ざかる故郷に、心細くて、悲しくて、頭の整理が付かなくて。
 頼むからと泣きじゃくって、そう繰り返していた。




 え、今鳴いた。なんか、鳴いた。
 茫然としていると、白い生き物は耳に心地良い声でさらに鳴いた。
ルー、ミャ……クルルレウ。ルー……ミュア、クク?
 こてん、と小首を傾げたそれに思わず鼻から血潮を吹きそうになった。
 いや、もう吹いた気がして慌てて鼻の下を擦って確かめる。良かった、出てない。
 もしかしなくてもこれが言葉なのだろうか。凄く可愛いんだが。どうなってるんだ峰の向こう。
 こんな可愛い言葉で喋りあっているんだろうか。こんな可愛い大きさで?……なるほど、魂を奪う妖魔とはそういう事か。
 一人だけでこの破壊力だ。それが大勢いれば確かに夢現の区別がつかない気分になるだろう。
 しげしげと、一生懸命うみゃうみゃ言ってる白い生き物を観察する。
 ……けれど、こんなに可愛いのはそういう生き物だから、では無い気がする。
 語り掛ける仕草やこちらを見つめる瞳。それは白い生き物全てに言えるものではなく、この目の前の一人だけの物では無いだろうか。
(知りたい……欲しい。)
 白く細い項、宝石の様な瞳、耳に心地良い声。
ムアルウ、クー……ナミャミャアルクルニャウ……ルミャム
「よ……」
「!」
「嫁にする」
 決めた。嫁にする。
 持って帰って、嫁にしよう、そうしよう。
 早く嫁を娶れと周りからせっつかれて辟易していたが、その問題も解消する。むしろこの生き物じゃないと嫌だ。いや、この“人”でなければ嫌だ。

 そうと決まれば、連れて帰らねば。
 落としたりせぬようにしっかりと抱え込み、家の者から逃がれて来た時以上の速さで走る。急に走り出したのに驚いたのか、首に腕を回されさらに速度が上がる。
 はやく婚儀を挙げよう。そして初夜だ。
ファウ、ル、ミ、ミュニルクク……!
 何か鳴いているが、痛みを訴えるような物ではなさそうなのでとりあえずは戻ってからだ。
 すまないと胸の内で呟いて、足を止める事はしなかった。
ク、クレウウミャニニャア。ラルル、ル、ルッテ!
 もぞもぞと動くから、落とさないように腕の力を強める。しかし、
ニ、ニュア……
 そう小さくか細く鳴いたかと思うと声を上げて生き物が泣き始めたのだ。
 さっきまでの鳴き声とは違う、本当の泣き声。言葉は違っても泣き方は変わらないのかと一瞬思ったが、それも激しい動揺に掻き消される。
 慌ててその場で止まり、しゃがんで膝の上に座らせた。
ミー、ニュア、ニュアアル、ニュア……ッ
 『ニュア』という単語を何度も何度も繰り返し、ぽろぽろと涙を零す生き物に後ろめたさが胸に積もる。
 自分がやっている事は誘拐となんら変わりない。
 けれど向こうが峰を越えて来たのだからと言い訳をし、あまつさえ嫁にしようとまでしているのだ。きっと繰り返している言葉は、離せ、やら、帰せと言った物だろうというのは容易に予想が付いた。
(酷い事をしている。わかっている。……けれど離したくない)
 恋に落ちてしまったのだ。もう、帰せはしない。
 そっと涙を指で拭い、耳に優しく口づけする。
(すまない……)
 謝って済むことならばいくらでも謝ろう。
 ぐるりと辺りを見回し目当ての物を見つけると、白い生き物を下ろして目当ての物に手を伸ばす。
 微かな感触を手に残し摘み取ったそれを、そっと白い生き物の耳元にさした。
 驚いたように白い生き物が目を見開き、泣くのを止める。そして震える手で耳元にさされた物を触れて確かめると、更に目を見開いた。
 それに微笑んでみせ、身体を屈めて足の――蹄の先に口づける。

 愛しい人に花を送り、爪先に口づけをする。
 相手に結婚を請う時に行う動作だ。
 姿も言葉も、きっと習慣も文化も違う相手に通じるとは到底思えない。
 けれど伝えたかった。
「好きだ。出会ったばかりで何をと言われるかもしれないが、それでも、好きになってしまった」
 この時捧げる婚約花は色鮮やかで、大きければ大きい程良いとされている。
 本当ならばそこらで摘んだ花では無く、吟味し、一番美しい物を捧げたかったが仕方が無い。黒い肌に白い花は映えるのだが、白い肌に白は鮮やかとは言えまい。
 それでも、薄い花弁を幾枚もつけた花は、白い生き物に似合っていた。

「私と、結婚を――私の伴侶になってはくれないか」



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