Novel | ナノ


▼ これからは、ずっと


 長かった航海もあと少し。天候にも恵まれ、船は予定通り今日の昼に港に着くと言っていた。
 甲板に出て、海風に目を細める。
 長らく家を空けていて、久しぶりの帰宅に抑えても胸が高鳴った。妹が楽しみにしているだろう土産も、鞄の中にちゃんと入っている。
 まだ婚約相手を決めていないことは……多分、五月蠅く言われるだろうが、それでもやはり母国というのは良い。
 私は浮き立つ心のまま、ふと隣に誰か立つ気配がして、乗客の一人かと首を何気なく向け――思わず小さく息を呑んだ。
 グレーのボーラーハットに同じくグレーのトラウザース、明るい色味のウェストコート。それを細身の身体にすっきりと纏っている青年は、若さに輝いていた。
 いや、それだけで息を呑んだ訳では無い。ハットの下から覗く鮮やかな赤毛に、横から見えるツンと尖った白い鼻。男にしては華奢な印象を受ける体つき。特に腰と腕なんかそうだ。
 何故かその青年は一目見ただけでとても印象に残る――惹かれる物があった。
 朝日をのせてきらきらと輝く赤毛を不躾なまでに見つめていると、視線を感じたのか青年がこちらを振り返った。
「……ッあ」
「あ、おはようございます」
 にこりと笑った青年に見事なまでに言葉が詰まる。
 鮮やかなビリジアンの瞳。それ程容姿が整っている訳では無い。勿論崩れている訳では無いし、平凡という言葉で片付けるのも難しい。けれど、特筆するほど整っている訳では無いのだ。
 だというのにまるで特別な美女を前にしたような――いや、違うな。まるで、昔の初恋の相手を前にしたような気恥ずかしさと胸の高鳴りを何故か自分は感じていた。
「予定通り着きそうだという話ですよ、良かったですね」
「え、ええ、本当に。二ヶ月ぶりの帰国なので嬉しいです」
「僕も大分久しぶりで、今からわくわくしてしまって」
「いつぶりなんですか?」
「留学をしていたので……三年ぶりになるんです」
 三年、という期間に驚いて彼を見つめれば、恥ずかしそうに青年は笑った。
「帰る機会は何度でもあったんです。でも、少しでも早く帰国したくて……それに、一度帰ったら、戻りたくなくなりそうで」
 そう言って水平線を眺める青年の眼差しは、どこか遠く、誰かに想いを馳せているように見えた。
「誰か待っているんですか……?」
「ええ……多分、待っていてくれている……と、思うんですけど」
 苦笑を零す青年はどこか幼く、少年じみていた。なんとなく、何かを察して青年に問いかけてみる。
「もしかして、大切な人、ですか?」
「……ええ」
 とても、大切な相手です。
 そう言って、また遠くに視線を向けた青年は誰から見ても恋をしている表情そのもので。
 私は失恋した気分を味わいながら、自分はなにを思っているのかと小さく笑いを零した。




 タラップを降りながら周囲を見渡す。
(――帰って来た)
 帰って来た。ずっと帰りたかった故郷。
(――帰って来たんだ)
 嬉しさを噛み締め、背筋を伸ばす。
 この三年間死にもの狂いで頑張った。言葉に教養、礼儀に心のありようまで。
 国に帰る誘惑を跳ね除け、手紙だけ書き連ね、最短でこの留学を切り上げることが出来た。それは全て自分の自信につながり、今ここにいるのは劣等感に塗れていたあの時の自分では無い。
 勿論、自惚れはしていない。けれど確かに辛さを飲み込み、努力をした三年間はあったのだ。
 赤毛を笑われようが、雀斑を笑われようが。見た目のみすぼらしさに負ける程度の物なんかでは無いと胸を張って言える。
(――これで、隣に)
 タラップを降りきると、遠くから名前を呼ばれそちらに目線を向ける。
 そこに立っていた人物に自然と笑みが零れ落ちた。
「――旦那様!」
「おかえり、カラエ。――ああ大きくなったな」
 帽子を取って、駆け寄る。自分の父にも等しい人の出迎えに喜びが溢れた。
「迎えを寄越すとありましたが、旦那様直々にいらっしゃるだなんて……」
「何、私も会いたくて仕方が無かったからね。本当に大きくなって……良く、頑張った」
 くしゃりと頭を撫でられながら褒めてもらえて、泣きそうなくらい嬉しくなる。

「お前も会いたかっただろう?――ジル」

 その言葉に、旦那様の後ろからそっと足を踏み出した影に目を見開く。
 ――昔と変わらない柔らかい金茶の瞳がそこにはあった。




 旦那様が用意していた馬車で屋敷へと戻る。貿易を営んでいるため、屋敷と港はそれほど離れてはいない。日が沈みきるよりも先に、オルタシア家に着くことが出来た。
「おかえりなさいませ、旦那様。――おかえりなさい、カラエ・レーニス」
 凛と背筋を伸ばして出迎えてくれた女性は、時に厳しく、時に優しく、それこそ旦那様が父親代わりならば彼女は母親代わりのように接してくれた。
「ミセス・レティ……!」
「良く、頑張りましたね」
 滅多に褒め言葉を口にしない彼女に、目元を優しく滲ませながら告げられて、思わず目の縁に涙が溜まる。
 辛いだけでは無かった。勉強は楽しく、友人だって出来た。けれどやはり、寂しさに襲われ、音を上げそうになったこともあったのも本当だ。それが報われたような、そんな気持ちになって涙腺が緩む。
「……ああ、もう十八になったでしょう。相変わらず貴方は泣き虫ですね」
 そう笑って、ミセスに目尻を拭われる。
「た、ただいま、戻りました」
「ええ、おかえりなさい」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、三年前にはまだ彼女より低かった背はいつのまにか彼女を抜いていたのだと知った。


「貴方の部屋はそのままですよ」と言われ、まずは自室に戻る。
 行きと同じように荷物は余り増えてないバッグをベッドの上に載せ、全く変わらない自室に帰って来たのだと何度目か分からない思いを噛み締めた。
(――ジル)
 帰って来てからまともに言葉を交わしていない黒髪の青年を思い出し、胸で拳を握る。自分の乳兄弟。仕えるべき主。必ず戻ってくると約束をした相手。
 三年の間に自分が成長したように、彼もまた成長していた。
 柔らかった髪を父親と同じように後ろに掻き上げ、目付きは垂れ目ではあるが少し鋭い光が増していた。体つきも逞しくなり、背も随分と伸びたようだ。引き締まり、足の長い身体を今流行りの型の黒のスーツとフロックコートに包んでいた。
 若々しく雄々しい。オルタシアの次期主人としての貫録が増し、精悍な青年になっていた。
 最初に目に入れた時、驚きに言葉を失い、次には胸が激しく高鳴った。

 初々しい告白に、恋愛という意味で彼の事が好きかどうか分からないと告げた三年前。
 これが恋なのかどうなのかというのを考えるには十分時間があった。いや、三年もいらなかった。向こうにいる間考えるのはジルの事ばかりで、そして心の支えになったのもジルの存在だった。
 恋と自覚するのはすぐで、それからはずっと寂しさと焦燥に耐えるばかり。――だから、帰って来たら少しは甘い空気になるのでは、とどこか期待していたのだと思う。
 けれど移動の馬車内でも会話を交わすのは旦那様とだけで、ジルは振られた会話に一つ二つ笑顔で合槌を打つだけ。その笑顔すら、どこか接客用のような物を感じた。
 余り目線も交わらず、話し掛けるのも少し憚られたぐらいだ。
(――想いが、冷めてしまったのだろうか。)
 じわりと痛みにも似た冷たい物が心臓に広がる。
 多感な頃に三年も離れていたのだ。他に心動かされる相手が出来ていたとて不思議では無い。それに三年前は四六時中一緒にいたのだ。むしろジルが自分に抱いた想いの方が気の迷いだったのかもしれない。
 不安はあった。帰国はしなかったが、何度も手紙は書いた。けれど返事が返ってきたのは最初の数通で、徐々に回数が減ったかと思うと、パタリと返って来なくなった。
 それがまるでジルの心のようで、必死になって何通も何通も出したが、結局最後の手紙の返事から、帰国のこの日まで返ってくることは無かった。
 ――自分はまだ好きなのに。
 帰って来て、二人きりになれたら伝えようと思った。自分も好きだと。それなのに。
 そんな自分勝手な想いに苦笑を零し、静かに想いを胸の奥にしまった。
 例えジルのあの時の想いが気の迷いで、既に想いは冷め、自分だけが好きであろうと、彼の傍に居続ける覚悟は揺らがない。
 この三年間積んだ物は、自分の慕情ですら揺らがせることは出来ない。そんな軽い物では無い。
 そもそも主と使用人との恋愛など、終わりが見えている。
 これで良かったのだと、自分に言い聞かせ、痛みを訴える心から目を逸らした。




 夕食は豪勢で、帰国祝いということで今夜だけ特別に旦那様と同じテーブルを囲ませて貰う事になった。
 懐かしい味に頬が緩むのを抑えきれずにいると、心底嬉しそうに旦那様が笑った。
「美味しいかい?むこうは何もかもが最先端を行っているからね。口に合わなくなっていたらと心配だったんだが……」
「まさか!ここの味が口に合わなくなることなんて無いです!美味しくて、懐かしくて」
「ふふ、そうかい」
 優しく目元を緩ませた旦那様は数度頷いた。
「……うん、マナーも完璧で、動きも更に良くなっている。向こうの学校の成績も話を聞いているよ、優秀だったという話だ」
「いえ、そんな……」
「これならジルの執事の話も大丈夫だろう。ジルも良いだろう?」
 急にジルの方に話が振られ、どきりと心臓が高鳴る。
「ええ」
 が、ジルの方はと言うと、精悍な顔に微笑を一つ浮かべて頷いただけで、それ以上の反応は無く、がっかりしている自分がいた。
「君の意見はあるかい?ミセス・レティメイド長?」
「……そうですね、ですがレーニスは帰って来たばかりです。今後一週間の働きを見て判断されては」
 旦那様の後ろに控えていたミセスが凛とした声で応える。その鋭い目線は昔と変わらず、背筋が自然と伸びた。
「……君は厳しいな」
「甘やかすのはレーニスのためになりません。引いてはジラード様のためにも」
 ですが、とこちらを見ていた眼差しを少し緩めてミセスが言葉を続ける。
「帰国の旅路は疲れたでしょう。明日くらいは休みを頂いて、ゆっくり体を休めた方が良いかと」
「それはそうだ。明日と言わず、二、三日はゆっくりして、屋敷の変わった所も知ると良い。ここ数年でいなくなったり、新しく入った人もいるからね」
 そうだ、と旦那様が声を上げた。
「私もね再婚を、するんだ」
「グフッ」
 思わず噛んでいたラムを吹き出しそうになって、必死で堪える。
 慌てて口元をテーブルナプキンで拭き、驚きの眼差しで旦那様を見つめた。
 何を言っているのかとジルとミセスを仰ぎ見るが、もう周知の事実なのか特別驚いた素振りは無い。
 あの奥様の死後何年も後妻を取らず、奥様の一筋だった旦那様が、再婚。もしかして不本意な……という考えが頭を過る。
「半年前、子供も生まれた」
 女の子だよ、と嬉しそうに笑う旦那様に、フォークを落としたりしないように先に置いておいて良かったと思った。
「一応言っておくけれど、愛の無い結婚などでは無いよ。……手紙では無くて直接言おうと思っていて連絡はしなかったんだ、申し訳ない」
「いえ、でもあの、」
 奥様は……。と言いかけて口籠った。
 それは自分が踏み込むべきところでは無い。けれど、伴侶亡き後も一途に愛を貫いている旦那様に、自分は何か憧憬のような物を抱いていたのだろう。
 生前の奥様を知っているだけに、更に。
 やはり愛情も時の流れには勝てないという事なのだろうか。……例えどれだけ強くとも。
 何を言いたいのか察したのか、くすりと旦那様が笑みを零した。
「ソフィーの事は今でも愛している。……あれ程愛した女性は後にも先にも彼女だけだ」
 奥様――ソフィーヤ・オルタシア様を思い描くように瞼を閉じ、旦那様は切なそうに笑った。
「魂の半分とすら思った。あれは私の半身だった。……けれどね、ソフィーとはまた違った愛で、確かに私は彼女の事を愛しているんだよ。それこそ、再度妻を娶ろうと思うくらいには」
 ソフィー程愛せる人はいないだろう。けれど、また彼女程愛している人もいない。
 ソフィー程彼女を愛しているかと問われると否であるし、彼女程ソフィーを愛していたかと問われれば否だ、とまるで謎解きのように旦那様は言った。
「だから良ければカラエ、祝福して貰えたら嬉しい」
 君に祝福してもらえるのは特に、ね。と旦那様が微笑んだ。
「……奥様の事も、その方の事も、愛されているんですね」
「ああ、どちらとも一番に」
「……そうですか」
 迷いの無い口振りに、小さく口元に笑みが浮ぶ。少し、心が軽くなった気がした。
「ならば僕に心配はありません。――ご結婚、おめでとうございます」
 その言葉に旦那様の笑みが深くなり、ありがとうと返される。
 父にも等しいこの人の、新しい門出が幸せな物になるようにと心の底から祈った。



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