Novel | ナノ


▼ 7


「どうして……呼び鈴を鳴らしてくれたらすぐに向かいますのに……!」
 とにかくジルの背を押し、部屋に招き入れる。冬に入ったばかりだが、この国はそれでも十分温度が低く、いくら立派な屋敷だろうと部屋から出れば廊下は流石に寒い。おまけに深夜に寝間着一枚で。
 ジルの部屋からこの使用人専用の階まで、距離として近い物では無い。案の定触れた彼の身体は冷えていた。
「風邪でもひいたら……っここで待っていてください、すぐに戻りますから」
 ベッドに敷いていた毛布を肩に掛け、ランプを片手に厚いガウンをしっかり身に纏って廊下に出た。使用人専用のここには小さい厨房がある。夜中はメインの厨房が締まっているため、万が一何か必要になった時の為にいつも空いているのだ。
 灯りを点け、棚を探せば目当ての小さな牛乳缶を見つける。
 スプーンで口の脂肪分を除け、小鍋に注ぐ。そこにほんの少しの紅茶の茶葉とスプーンたっぷりの蜂蜜。これくらいならこの厨房にも置いてある。それを火に掛けて人肌より少し熱いくらいに温め、茶葉を除けつつカップに注いだ。
 眠れない夜に母さんが良く作ってくれた甘くて暖かい飲み物。これだけで身体の芯から温まるのだ。早く持って行ってやらないとと、それをトレーに乗せると早足で自室に戻った。

 部屋に入ると、大人しくジルはベッドに座ったままだった。
 いや、大人しくというよりか、心ここに非ずといった様子で、顔色が悪い所為もあってまるで幽霊のようだ。
「ジラード様……?と、とにかくこれを。温まりますから」
 カップを差し出せば、すい、と目線がそちらに向かうが、受け取ろうとしない。
 一体どうしたのだろう、ジルには夢遊病の気でもあっただろうかと思っていると顔が上げられた。
 その瞳を見た瞬間、思わず背筋にぞっと何かが走った。
 黒い長い睫に縁どられた金茶の瞳は澄んでいたが、何も映していなくて。ガラスと表現するよりも、死んだ動物のような、虚ろなそれに身体が凍りついた。
「……父さんから聞いた」
 平淡な声で目線を逸らすことなくジルが言葉を口にする。
「……カラエが、外国に行くって」
「それ、は」
「……どうして……?」




「さて、私の話というのはね、今後の話なのだけれど」
「今後……ですか?」
 旦那様に話があると呼ばれたあの晩、そう話を切り出された。
「そう。カラエ、私はね、とても君のことを買っているんだ。それこそ赤ん坊の時から見て来た君のことは我が子同前に可愛い。けれど、その欲目を抜いても君はとても優秀だ。素直で気立ても良く、気配りも出来る。物覚えも良い。良い使用人としての素質という物を十分持っている」
「そんな……」
「メイド長も君のことを褒めていた。鍛える所はまだまだあるが、見込みのある子だと」
 そんな風に評価されていたとは、と嬉しくなって俯く。きっと今、顔はだらしなく緩んでいる。
「だからカラエ、君に将来ジラードの……あの子の執事バトラーをして貰いたいと思っているんだ」
「……え」
 思いがけない話に目を大きく見開く。
 執事バトラー。自分が、ジルの執事に。
 主人の留守を預かり、主人が安心して職に打ち込めるように隣で支える存在。
 この屋敷はハウス・スチュワード、ランド・スチュワードは執事が兼任している。それはつまり第二の屋敷の主人といっても良い程、その影響力は強い。
「でも、そんな、僕なんかが……」
「勿論今までの通りとはいかない。執事に必要な教養、礼節、仕事、全てを覚え、身に着けてもらわなければいけない。大変な仕事だ」
 執事は時に結婚すら厭われることがある。家庭を持てば主と家庭に時間が二分されるからという理由からなのだが、それほどまでに主に尽くす存在だ。
「それでも……引き受けるかい?」
 旦那様が真面目な表情でこちらを見つめる。
 菫色の瞳はこちらの心までも見透かす様で、今自分は見極められているのだと知る。次期オルタシアを継ぐ人間の執事に相応しい人材かどうか。
「その場合留学も視野に入れている」
「りゅう、がく……ですか」
「ああ。この国は悲しいことに、身分が低い人間への教育は不親切だ。だから身分など関係無く教育が受けられる場所へ行く必要がある」
 卒業には短くても三年、長ければ五年以上掛かるやも知れない。と旦那様は続けた。
「学費に関しては気にしなくて良い。将来への投資……いや、その間の給与と思ってくれ」
 時間はまだある。大切な話だから、ゆっくり考えて答えを出して欲しい、と告げられた。
 身近な人などいない見知らぬ国で、言葉すら違う国で五年も。そう考えると怖気づいてしまって、その場では答えが出なかった。
 それだけでは無い。いくら憧れではあったといえど、自分が執事など務められるのだろうかと思うと不安になってしまったのだ。
 ――けれど、あのライヘルトと言葉を交わした日、そんな事で悩んでいる暇など無いと思い知ったのだ。そうして旦那様に、引き受けると伝えた。




「どう、して……どうして、カラエ、どうして……っ」
 何も映さない凪いだ瞳のまま、譫言の様にジルが呟いた。が、顔を俯かせると低く這う声で呻く。
「……嘘つき」
「ジ」
「嘘つき。裏切者。約束、したのに……!!!」
 再び勢いよく顔を上げたジルは金茶の瞳からぼろぼろと涙を零していた。
「俺から離れないって、置いていかないって言ったくせに……!!!」
「ジル……」
「許さない、絶対に許さない……っ俺から、どうして、カラエ……っ」
 ぐう、と泣き声を飲み込んで喉から変な音を立てながら、ジルが腰に腕を回ししがみ付く。
「……離れないよ」
 自分の口調が丁寧な物では無くなっている事に気が付きはしなかった。
「嘘だ!確認した。契約書も見せてもらった。カラエのサインがあったじゃないか……!」
「離れたくないから、行くんだ」
 がばり、と上げられた顔がみるみる内に絶望に染まっていく。
「行くんじゃないか……」
「ジルは、こんな使用人恥ずかしいだろ……?」
「え?」
 ジルの頬の涙を指で拭いながら笑う。……上手く笑えているだろうか。
「使用人として不出来で、見た目も良くない。でも俺がジルの傍にいれるとしたら、使用人くらいしかないんだよ。だから考えたんだ。見た目がダメならせめて出来る使用人になるにはどうしたら良いかって。最終的に執事になれなくても良い。この屋敷に置いて貰える――ジルの傍に置いて貰っても恥ずかしくない位の使用人にならないと。そのためには、これしか方法が無いんだ。向こうで、勉強するしかないんだよ」
 未熟だから学びに行くのだ。見知らぬ国が、一人が怖い?そんな事言っている場合か。ジルの傍にいるためならば、なんだって。
「ジルの事を一番に考えてるよ。大切なんだ。幸せになって欲しい。それを傍で見ていたい。そのためなら五年くらいあっという間だ。早ければ三年で帰って来れるらしいし。……なにより、お前に恥ずかしいと思われたくないんだ」
「は、恥ずかしいだなんて、そんな……!」
「でも学校に来るなって、そういう意味で言ったんだろ?ライヘルトと喋ったのを怒ったのも……。ごめん、別に責めてる訳じゃ無くて、むしろ自分の未熟さを改めて知れたから――」
「ちが、そういう訳じゃ無い!」
 おろおろと金茶の瞳を彷徨わせて、ジルが叫んだ。
 ぎゅっ、と腰回りの腕が強く締まる。
「ちがう、ちがうんだ。カラエの事を恥ずかしいなんて思ったこと一度も無い!カラエはしっかりしてて、優しくて、仕事だって完璧だよ。仕事をこなしている時の姿は凄く大人びてて、いつも俺が置いて行かれているような気がするぐらいで……。見た目だって、見た目だって……凄く可愛いから、誰かがカラエを見たら一目惚れしちゃうんじゃないかって、心配で……」
「……は?」
 一目惚れ?誰が何を見て?
 思わず呆けた声を出してしまうと、食ってかかるようにジルが喚いた。
「カラエは凄い魅力的なんだからね!?赤毛だって鮮やかで、瞳は大きいし、凄い綺麗だし、動き方とか可愛いし!そのそばかすだってチャームポイントで……!」
「いやいや。……いやいや、待って待って」
「マシェリだって君目当てだ!おまけに、学校に君が来た後、君を見た女の子達に<あの可愛い小間使いは何ていう名前だ>って凄くしつこく聞かれたし……っ」
 だから、心配で……。と、か細い声でそう言ったジルの頭を茫然と見つめる。
 ならば何か。ジルは全然自分のことを恥ずかしいとは思っていなかったというのか。
「……よ、よかったぁ……」
 そう呟いて思わずその場でへたり込んだ。自分が未熟なのが悪いと言い聞かせてはいたが、かなり傷ついていたのだ。
 それがまったくもって勘違いだったと分かって、安堵で膝から力が抜けた。
 ベッドに座っているジルより目線が低くなり、ジルに抱き締めて貰っている恰好になる。
「つい、こんな出来の悪い使用人を傍に置くなんてと思っているのかと……」
「そんなことあるわけない!だって、俺は、俺は……っ」
 言葉を詰まらせたかと思うと、する、と優しく頬を撫でられ、顔を上げさせられる。そのまま金茶の瞳が近づいてきて、ちゅ、と唇に何かが音を立てて触れた。
 何が起きたのか分からず、思わず自分の唇を触ってしまう。そんな俺を見ながら、ジルは笑った。――……笑おうとして失敗したような顔だった。

「……好きだよ、カラエ。ずっと小さいころから、俺は君のことが好きだった……」
 切なそうな表情をしながら、ジルはそう告げた。
「……応えて欲しいと思ってないんだ。そもそも、言うつもりも無かったから……。でも、今回の事で、言わなきゃと思って。俺は、カラエのことが誰よりも――何よりも大切で、大好きで、愛しくて……だから、恥ずかしいだなんて思う事なんて、無いんだよ」
 ごめんなさい、と掠れた声でジルは言った。
「ごめん、こんなこと言って。恋人になって、なんて言わない。絶対に言わないから、傍にいて……。ただ傍にいてくれるだけで良いから。お願い。ごめんなさい。そのためならなんだってするから……」
 神に懺悔するように、ジルは縋りつきながら何度も謝って、傍にいてと繰り返す。
 その柔らかい黒髪を目の端に捉えながら、告げられた言葉を上手く回らない頭で噛み砕いた。
(ジルが好き、俺のことを――あのジルが、優しくて賢くて美しいジルが、俺なんかのことを――好き)
 理解した途端にぶわりと体温が上昇したような気がした。
 鼓動が早くなり、次の瞬間にはきゅう、と引き絞られるように痛んで、涙が零れそうになる。
(――嬉しい)
 ただそう思った。嬉しくて、嬉しくて、ジルの身体に回した腕に力を込める。びく、と震えた身体が酷く愛おしい。
 泣くほど自分の事が好きなのか。そう思うだけで胸が張り裂けそうなほど愛おしく思った。
「カラエ――」
「嬉、しい」
「え……」
「嬉しい、ありがとう、ジル」
 がばりと顔を上げて、まじまじとジルがこちらを見る。
「え、そ、それって――」
 期待してもいいの?ねぇいいの?と瞳が何よりも雄弁に問いかけてくる。
「か、カラエ――……」
「う、嬉しい。嬉しいけど、その、この気持ちが好きって気持ちか分からなくて」
 わたわたと両手を顔の前で振った。
「その、俺にとってジルは本当に特別で、大切で、憧れで……。そんな相手に好きって言われたら、舞い上がっちゃうだろ?」
 今はその気持ちに流されているだけかもしれない。そもそも今まで自分はろくに恋などした事が無いのだ。
 それにYesと言って、恋人になれるかと言われたらそれは違う。
 この国は同性愛に厳しい訳ではないけれど、諸手を上げて喜ばれている訳でも無い。ましてやジルはオルタシアの長男で一人息子だ。
 恋愛結婚のご両親だから許嫁というのは今の所いないけれど、今後女性と結婚して子供を作らなければならない。……ずっと添い遂げられる訳では無い。
「か、考えさせて……?」
「……うん。……うん、いいよ」
 ふわりと笑ってジルが抱きついて来た。
「いいよ、考えて。待ってるから……ありがとう」
 優しく少し掠れた声と体温に、何故か鼓動が早まり慌てて身体を離す。
「お、前!そんな格好でうろうろしてたら身体冷やすだろ!折角、温めて来たのに冷めるから、ほら……!」
 トレーに乗せて来たカップを今度はしっかり握らせると、ジルはまた嬉しそうに笑った。
 隣に腰掛け、美味しそうにカップを傾けるジルを横目で見る。
「……飲んだら見送るからちゃんと部屋に戻れよ、ガウン貸してやるから」
「今日はここで寝ちゃダメ?」
「だっ、駄目に決まってるだろ、使用人の部屋だし、ベッドだって狭いのに……」
「朝に戻れば気づかれないよ、くっついて寝れば暖かいし……それに、ガウン一枚しか無いでしょ?見送ってくれるってカラエは寝間着一枚になっちゃうよ?」
 ね?と首を傾げられると確かにその通りで、ぐう、と唸った。
「ね、お願い……今日はカラエと一緒にいたい」
 俺はこの“お願い”の顔に凄く弱いのだ。
 最終的には「明日ちゃんと早く起きろよ」と言いながらしぶしぶ頷く俺がいた。
 嬉々としながらベッドに潜りこんでくるジルを睨み、狭いベッドで身を寄せ合う。こんなに密着したのはいつ振りだろう、と思い、自分より逞しい躰に少し胸が高鳴った。
「……カラエはもう海外にはいかないんだよね?」
 密着することで温まる身体が気持ち良くて、うとうとと仕掛けている所にそっとジルが問いかけてくる。
「ん……、んむう、行くよ……?」
「何で!?」
 本当に驚いた!と言った声音で叫び、がばりとジルが身を起こす。耳元で叫ばれ、更に開いた隙間に冷気が入るわで、思わず眉間に皺が寄った。
「行くよ……。もう準備はすんでるし、いまさら取り消せない……」
「なっ、そんな事、俺が父さんに!」
「んん……」
 眠さでぼうっとする頭のまま、とにかくあの温かさがもう一度欲しくて、自分の隣をポンポンと叩いて寝るように促す。
 不満げな空気を思い切り漂わせていたが、無言でジルはそれに従った。寒く無いように肩まで毛布を掛けてやり、その腕の中に収まる。
「……行くよ、学んで、立派になって」
「だから、俺はカラエのこと少しも恥ずかしいなんて!」
「ちがう。学びたいんだ」
 ジルの温かさと匂いに心底安堵している自分がいた。
「……執事バトラーに、なりたいんだ」
 だってその方が。
「……お前の、傍に近いだろ……?」
 にへ、と笑うと、ジルが暫く黙った後変な呻き声を上げていた。
「か、カラエ、それで俺のこと好きじゃないの……?」
 そのまま暫く唸っていたが、突然思い切り抱き締めて来て、潰れた声が口から洩れる。
「絶対、俺の所に戻って来るって約束して」
「うん、やくそくする」
「絶対だよ、絶対だからね」
「うん、ぜったい」
「三年で帰って来て」
「うん、わかった」
「……ちゃんと聞いてる?」
 不安そうに、不満げに覗き込んで来た気配がして、眠気で閉じかけていた瞳を押し開く。何度か瞬き、案の定言葉より雄弁な表情に笑ってしまった。

「……絶対、三年でジルの所に戻るから」

 そうしたら、ずっと。



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