Novel | ナノ


▼ 6


 いつもなら恥ずかしくて堪らなくなっても、最後までやり切れていた。
 容姿は変えようがないから、せめて仕事をしっかりやろうと思えていた。
 けれど、ジルも恥ずかしく思っていたのなら。この髪と雀斑を悪くないと言ってくれていたのが嘘だったら。と、心が揺らいでいた所に止めを指され、ぽきりと心が折れてしまった。

 ぱた、ぱた、とティーポットを持っていた手に滴が落ちる。俯いたまま瞬きをするたびに、瞳から膜がはがれるように涙が零れた。
「な……っ」
 流石に泣くとは思っていなかったのか、珍しくライヘルトが微かに狼狽えた。
「な、何を泣いて――」
「……やっぱり、恥ずかしいでしょうか」
 心の声がぽろりと口から洩れる。
 確かにジルに甘えていたと思う。ジルの前では昔みたいな態度だったし、時には人前でもやってしまってミセスにも怒られた。
 でも他人行儀に接した時のあのジルの顔が見たくなくて。ああ、そんなどっち付かずなことをしているから、半人前でしかないのか。
「……ああ、そんなに泣くな。雀斑に染みるぞ」
 ぐい、とライヘルトの指が頬の涙を拭う。
 雀斑に染みる訳が無いのに、と思いながら、なされるがまま拭われる。
 また馬鹿にされるのだろうかと、ぐす、と鼻を啜ってライヘルトの顔を窺うと、今まで見た事も無いような表情でこっちを見つめていた。
「その、なんだ。オルタシアは名家だ。名家には名家なりの格というのがある」
 まだ追い打ちが足りないのかと、更に溢れそうになる涙をぐっと堪えると、目の縁に溜まっていた涙すら、ぐい、と拭われてしまう。
「お前が未熟という訳では、いや、未熟だが、同じ歳の使用人にしてみれば出来は良い方だろう。ただ、オルタシアの格には相応しく――ああ、だから、その、」
 一つ咳払いをして、ライヘルトは目線を僅かに反らした。
「不本意だが、我がライヘルト家は名家ではあるがオルタシアには及ばない。認めたくないが周知の事実だ。その、お前はライヘルト家ぐらいが丁度……いや、それでもまだ分不相応感は否めないが、努力をすれば身の丈が届く範囲ではあるだろう。……まぁ、赤毛でも私は――」
 白い肌に僅かに朱をのせながら、ライヘルトが目を逸らす。
 その台詞を、添えられていた手を跳ね除けて遮った。――跳ね除けたのは自分では無い。息を荒げ、目を怒らせて横に立つジルだった。

「マシェリ・ライヘルト……!」
 走って来たのか、肩で大きく息をしながらジルが唸る。
「どうしてここにいる。何をしに来た!」
「……ふん、手の届く範囲の私物ですら管理の出来ない奴がいたからな。管理が出来ないのなら、貰っても構わんだろうと思って引き取りに来たまでだ」
「……なんの話だ」
「さぁ?何かまで言わずとも分からないお前では無いだろう。心当たりは十分あるだろうしな。まぁどうやら引き取らずとも、私物自ら主の手を離れそうだがな」
「……帰れ」
「離れた所を拾わせてもらうとしよう。私は私の物はきちんと管理する。何一つ手放さず、不自由な思いをさせない。他人の口も挟ませない。傷つけさせない。必ず私の手で守りきる」
「帰れ!!ここはオルタシアの家だ!!!」
 礼儀も何もかも捨て去って、不審人物に吠えたてる犬のようにジルが怒鳴った。それに臆することも無く、ライヘルトは肩を竦めると席を立つ。
「茶、中々美味だった。それではカラエ・レーニス、また今度」
 する、と頬を一撫でされたかと思うと自然な動作で顔が近づき、リップ音が頬で弾ける。茫然としながら、キスをされたのだと漸く気づいた。
「マシェリ貴様……!!!」
 最早言葉も出ない程激昂するジルを横目で見、ふん、とライヘルトが鼻で笑う。
 とうとう掴み掛ろうとしたジルを慌てて抑えている間に、悠長に足音が遠ざかっていき、漸く聞こえなってからジルを抑えていた腕の力を抜いた。
「じ、ジル、落ち着い……」
「落ち着いてなんかいられるか!!」
 怒鳴られ、ごしごしと袖で頬を拭われる。厚い布地に擦られ、ヒリヒリと頬が痛んだ。
「い、いた、やめ、ジル!」
 もがいて腕から抜け出すと、金茶の瞳を吊り上げてこちらを睨んでいた。
 その眼差しの強さに思わずたじろいでしまう。
「……どんな話をしてたの」
「ど、どんなって」
「マシェリと!!どんな会話をしたって聞いてるんだ!」
 びく、と肩を揺らしてジルを見上げる。どうして怒鳴るんだ。俺がライヘルトと口をきいてどうしてそんなに怒る。
「……いい、やっぱり言わなくて良い」
「じ、ジル?」
「で?マシェリの話に頷いたの?ライヘルトの家に行くの?」
「な、何言って……!俺は、ジルの傍にずっといるって……」
 そう口にした瞬間、ギリ、とジルが奥歯を噛みしめ、凄い形相でこちらを睨んだ。
 敵意を剥き出しにしたその表情に思わずポカンとジルの顔を見てしまう。
「ジル……?どうして、そんな」
「どうして……?そんなの、分かってるくせに……っ」
 絞り出すような声でそう紡ぐと、ジルは顔を歪めたまま背を向けて、走って行ってしまった。それをただ茫然と立ち竦んで見送るだけで、何も出来なかった。




 一晩、自分のベッドに潜りこんで、眠れもせずに考えて行きついた答えは、ジルは俺の事を何かしらの点において――多分、使用人の質として、不満に……いや、疎ましく思っているのでは無いか、という物だった。
 俺自身を嫌っている、という線は薄い。いや、薄いというか、考えたくないというのが正直な気持ちだ。でも嫌いならば自分付きの使用人を外すことなど造作も無いことなのだ。なんなら、オルタシアの家から追い出すことも。
 そもそも今までの接し方からして、多分親しい仲だとは思ってくれている筈なのだ。
 ならば何かがジルの気に障っている。それは何だろうと考えたら、使用人として見た場合、表に出したくも無く、他の親しい顔にも見せたくない程……恥ずかしく思う程、質がなっていないのではないか、となったのだ。
 それはきっと親しい仲であればある程、言い出しにくいだろう。
(……身の程を、弁えろってことなのかな……)
 早朝、制服を身に付けながら目線を床に落とす。
 涙は出て来ない。昨夜も泣きはしなかった。泣けなかったという方が正しいのだろうか。悲しくはある。けれどそれ以上に不甲斐なくて、悔しくて、恥ずかしくて。
(俺は)
 ジルの傍にいたいのだ。家族と同じくらい大切な人。傍にいて、力になりたい。幸せになってくれるのを見届けたい。
 けれど貴族でも何でもない、身分なんて物は無い自分には使用人として傍にいる他に道は無いのだ。
 ジルがどれほど言おうと、友人として傍にいられることは社会が認めてはくれない。けれど、その使用人としての自分をジルが恥ずかしく思うのならば――……。
 静かに瞼を閉じると、睫毛が少し濡れていた。


「ジラード様、おはようございます」
 既に起きていたジルにそう挨拶をすれば、顔を歪め無言を返される。
 用意した朝食も無言で食べ、いつもなら笑みと美味しいという言葉を貰える紅茶も一口啜ってお終いだ。
 曲がっていたタイを整えるために指を伸ばせば、びくりとあからさまに身体を揺らされた。
「……」
 なにも気にしていない風にタイを結び直し、笑顔をジルに向ける。
「……いってらっしゃいませ」
 その笑顔を見て目を見開くと、ジルはやはり顔を歪めた。


 その晩、旦那様がお戻りになると、旦那様の書斎に向かい、扉を叩いた。
「レーニスです。お話があります」
「お入り」
 優しい声に促され、扉を開け、後ろ手に閉める。
 机に向かい、書類に目を通していた旦那様が椅子をこちらに向け、菫色の瞳を柔らかく細めた。
「話とは何だろう、カラエ」
「……あのお話、受けさせて頂いても構いませんか」
 途端に菫色の瞳が大きく見開かれる。
「どうしたんだい、急に。いや、私が持って来た話だし、勿論反対するつもりは無いが……むしろ喜ばしいくらいだが……。もう少し、考えても良いんだよ?」
「いえ」
 真っ直ぐに旦那様の瞳を見据え、はっきりと口を開いた。
「しっかり考えて出した結論です。どんなに大変でも、辛くても構いません」
「……そうか」
 覚悟が伝わったのか、暫く黙った後旦那様は頷いた。
「ならば手続きをすぐにしよう。といっても一日二日で済む話では無いからね。二、三ヶ月は準備に掛かるだろう。目途が立ち次第伝えるが、身の回りの整理はしておくと良い」
「はい。……ありがとうございます」
「……こう言ってはなんだけど……寂しくなってしまうね」
 小さく微笑んだ旦那様に微笑み返す。
 少しでも寂しく思ってくれる人がいるのは嬉しかった。
「あの……ジル、ジラード様にはぎりぎりまで黙っておいて頂いても構いませんか」
「ああ……そうだね、分かった」
 了承を貰い、ほっと息を吐く。
 そのまま会話も終わり、旦那様の部屋を出て、少し薄暗い廊下でじくじくと痛む胸を抑えた。


 自然な態度でジルに対応するが、ジルがその度に顔を歪め、それに密かに傷つくのを繰り返している内に、以前のように会話を交わすことも出来ず、いつの間にかジルの嫌がっていた言葉遣いも身に馴染んでしまう程、ただ時間だけが過ぎて行った。
 荷物を纏めると言っても、高価な品は持っていないし、お金もそう大して持っていない。家具だってこの屋敷の備え付けの物ばかりだ。正直衣服を纏めるだけで済んでしまう。
 そうして予定の日は目前に近づいていた。




 夜中、ふと目が覚め、身動ぎをする。
 何でこんな時間にと目を擦れば、小さく何かを叩く音が耳に入った。
 それがノックの音だと気づき、慌ててガウンを寝間着の上に羽織る。
「誰ですか?」
 扉の向こうに声を掛けるが、返事は無い。置時計に目を向ければ深夜といって差し支えない時刻を指していた。
「……誰?」
 急に怖くなり、恐る恐る再度声を掛ける。暫くの沈黙の後、微かに聞こえた「開けて」という声に目を見開いた。
(――まさか)
 耳慣れたその声の主はすぐに思い当たり、それに驚き、急いで鍵を開け、扉を押す。
「……ジラード様……!」
 そこにはどこか青ざめた顔をしているジルがガウンも羽織らず、寝間着一つで立っていた。



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