Novel | ナノ


▼ 5


 過去の事を思い出し、決意を新たにして、いつもの様にジルを起こし、着替えさせ、食事を用意し、学校へ向かうのを見送る。
 部屋から一歩出た瞬間に態度を切り替える俺に、ジルは少しばかり不満そうな顔をしていたが、それでもきちんと約束を守って、キスもじゃれあいも無しで出掛けていった。
 その後、いつも通りに仕事を熟していると、ミセス・レティに呼ばれた。
「旦那様からジラード様に、今伝言が入ったのですが、風邪が流行っていて休んでいる人が多いので生憎皆手が空いていません。学校が終わった後、話があるので家には戻らず旦那様の仕事場に向かう様に、という内容なので急を要する物では無いのですが……。カラエ・レーニス、貴方の仕事ではありませんが、ジラード様の学校まで向かって伝えてもらえますか」
「あ……。……はい、分かりました」
「どうかしましたか?何か不都合なことがあるのなら言いなさい」
 柳眉を上げて尋ねるミセスに、いいえ何もと慌てて首を横に振る。
 特別不都合、という訳では無いのだが、そういえばカラエは学校に来ないでといったような内容を以前ジルが口にしていたのだ。
 余り良い人間ばかりでは無いから、と、珍しく他人を非難する口ぶりだったのを覚えている。けれど今回ばかりは仕方が無いだろう。
「大丈夫です。学校後、旦那様のお仕事場まで向かう様に、ですね」
「ええ。封書も預かっていますから、それを渡せば良いですよ」
 旦那様の青い蝋が押された封筒を渡され、それを内ポケットにしまう。
 電話という手段もあるのに、わざわざ封書にするという事はきっと大事な用なのだろう。落としたりしないようにしなければ、と気を引き締める。
 それを見届けたミセスが、右腕に掛けていた毛糸たっぷりのモスグリーンのマフラーをふわりと首に巻いてくれて、思わず目を見開いた。
「先程も言ったように、風邪が流行っています。身体を冷やさないように。寄り道はもっての他ですよ。早く帰って来なさい」
 厳しい言葉遣いだが、それは母のような優しい厳しさで。
 そんなミセスの心遣いが嬉しくて、薄氷のような薄い水色の瞳を見つめながら笑顔で、はい、と頷いた。




 ジルの通っている学校はそこまで遠くない。ジルは毎朝馬車で通っているが、徒歩でも十分通える近さだ。
 少し小走りで二十分弱程。見えてきた見上げる程の高さの正門をくぐり、門衛の人に一言二言告げると事務までの行き方を教え、通してくれた。
 玄関先までの長く広い道を歩き、これまた大きい扉の横。門衛の人に教えられた事務の窓口で手紙を取り出し言伝を頼む。
 とんとん拍子に事が済み、さて帰ろうかと踵を返した所、後ろから声が飛んできて足が止まる。
「おや、その制服はオルタシアの使用人か」
 くるりと振り返り、その顔を見た瞬間、嫌な気分になってしまった。
 輝くブロンドの髪に、フレンチグレイの瞳。両手に女性を侍らせているのも頷かせる程の美貌。オルタシア家には一歩及ばないものの、各地に名を馳せているライヘルト家の長男、マシェリ・ライヘルトだ。
 ライヘルト家とオルタシア家はそれなりに交流があり、何度か顔を合わせた事があるが、家柄関係なのか歳が近いというのもあって、何かとジルと張り合っているのだ。
 けれどジルはかなり優秀なので、彼が勝ったことは無く、その鬱憤晴らしなのか矛先が良く使用人であるこちらに向けられ、嫌な思いをした記憶しかない。ジルがいる前では無く、皆の目を盗んでこっそりと陰湿な嫌がらせをされていたのもトラウマの一端だ。
 声を掛けられた以上、無視をする訳にもいかず、マフラーの下でこっそり溜息を吐いた後、礼儀に則って頭を垂れた。
「お変わり無いようで、ライヘルト様……」
「おや、誰かと思えばカラエじゃないか。まぁそんな下品な赤毛の使用人など滅多にいないから、そんな気はしていたがな」
 嘲るような声音に、クスクスと彼の両脇に立つ淑女が声を合わせて笑う。それにカッ、と頬に血が上るのが分かった。
「お前の赤毛も変わらないな。ああ、その見っとも無い雀斑もか」
 自分のコンプレックスを端から抉られていって、顔に血が上るのを止められそうに無い。
 きっと赤面すればするほど、この雀斑はくっきり浮き上がって見えるのだろう。少しでも隠したい心境から、マフラーに顔を埋めるように頭を垂れた。
 クスクス、可哀想よ、という、窘めるというには楽しんでいる様子が強い軽やかな声に、更に惨めな気持ちになった。
「オルタシアの奴も可哀想だな。こんな見っとも無い使用人が来たら恥ずかしくて堪らないだろうに。お前を寄越すほどオルタシア家は人手不足か?うん?」
「そ、その、今巷では風邪が流行っていますので……」
「はは、その態度も相変わらずかカラエ」

「何をしている」
 恥ずかしさの余り縮こまっていると、耳慣れた凛とした声がその場を断ち切った。途端にライヘルトは顔を顰め、俺は救われたような気持ちで顔を上げる。
 そこには眉を顰めたジルが立っていた。
「おや、わざわざご主人様のお出ましか」
「家の者が伝言に直接来ていると連絡が来た。少し要件があったから間に合えばと立ち寄ったまでだ」
 その返答にライヘルトは、ふん、と鼻を鳴らす。
 まさかジルが登場するとは思っていなかったのか、ライヘルトの両脇の淑女達も少し気まずそうに身じろいでいる。
「うちの使用人に何か用が?」
「……いや、ただ見知った髪の色とお前の家の使用人だと気づいて、懐かしい顔を拝もうと思っただけだよ」
「ならもう済んだだろう」
 さっさと立ち去れ、とばかりにぞんざいに扱うジルにライヘルトは不機嫌そうにまた鼻を鳴らすと、両脇の淑女達をエスコートしながら背を向けた。
「ジ」
「何で来た」
「……え?」
 名前を呼び、感謝の気持ちを伝えようとした言葉を遮られ、思わず驚きの声が漏れる。いや、言葉を遮られたことでは無く、その声の冷たさに驚いたのだ。
「……あ、あの、」
「こっちには来るなと伝えていた」
「も……申し訳、ございませ、ん……」
 こちらを見下ろす目は、さっきライヘルトに向けていた目よりも冷たくて。何故そんな目で見るのかと困惑で頭が回らなかった。
「や、屋敷の方が風邪で人手が足りておらず、注意を忘れた訳ではありませんが、」
 言葉の途中で、はぁ、と大きなため息を吐かれ、ビクリと身体を竦める。
 なんで、ジル、どうして。まるでその態度は――。
「も、申し訳、ございませんでした……っ」
 これ以上ジルの前に立っているのが怖くて、思い切り頭を下げると踵を返して走って逃げた。後ろでジルが呼んだ気もするけれど、ただただここから逃げ出すことしか考えていなかった。
 その背中をまだ立ち去っていないライヘルトが見つめていようが、ジルが苦虫を潰したような顔で見ていようが、どうでも良かった。
(まるで、あの態度は――)
 ライヘルトが言ったように、本当に俺みたいな使用人が学校に来るのが恥ずかしくて、来るなと言われていたのだと、そう言われているかの様だったから。




 脱兎のごとく帰って来た俺の顔を見て、ミセスは驚いた顔をしたが、何かを察したのか伝言はきちんと伝えられたか、とだけ聞くと、ランチが厨房にあるから食べて仕事に戻りなさい、と言って他には何も言ってこなかった。
 いつもなら美味しく感じる昼食を、もそもそと味気なく食み、残っていた仕事を機械のように淡々とこなす。女中メイドさん達に、何度か大丈夫か、と聞かれたが、大丈夫だと応えるので精一杯だった。
 時計の針が三を指して少し過ぎた頃、来客を知らせる鈴に扉を開けると。

「やぁ、さっきぶりだな、カラエ」
 そこには今一番見たくない顔があった。


「……じ、ジラード様はまだお帰りになっていませんが……」
 開けた扉の前に立っていたのは、マシェリ・ライヘルトだった。
 彼の用があるのは十中八九ジル関係なので、帰って来ていないので帰って欲しい、という気持ちを含みつつジルの不在を告げる。
「ふむ、では待たせてもらおうか」
「あ、あっ、お待ちください……!」
 だが、人の気持ちなどいざ知らず、我が物顔で屋敷の中に入るライヘルトに慌てていると、奥からミセスが足早に出て来た。
「これはライヘルト様。突然のお越しですが、どうされましたか」
「ジラードに用がある」
「申し訳ありませんが、ジラード様は今ご不在で……」
「構わん。待たせてもらおう」
「帰りが何時になるかも分かりませんが」
「構わん」
 こういう態度を取られてしまっては、こちらも待ってもらうしか他無くなってしまう。
「そうだな……相手はそこの赤毛で良い」
 傍若無人に言いのけるライヘルトにミセスも黙り、ちらりとこっちを案じるような目線を向けた。
 本当は一刻も早く傍から離れたいのだけれど、仕事は仕事と割り切らなければと、目線だけで頷いてみせると、ミセスは小さく息を吐き、それではお茶のご用意でもしましょうと口にした。

 「そういえばジラードの家は薔薇園があったのだったな」という一言で、薔薇園でお茶をすることになった。といっても人手不足でミセスが付きっ切りになれる訳が無く、小さな東屋にライヘルトと二人っきりという現状だ。勿論、使用人の身であるため、一緒にお茶を楽しんでいる訳では決してないが。
 こんがり焼けたスコーンに、たっぷりのクリームと果実ぎっしりのラズベリージャム。紅茶はヌワラエリア。
 ジルの大好きな品揃えに、隣にいるのがジルでは無く苦手な相手だなんて、と少し思ってしまう。
 紅茶を隣で注ぎながら、まだ盛りでは無いが、幾つか可憐に花開いている薔薇の名前や取り寄せた地名を会話に織り交ぜる。庭師とは仲が良く、良く話をしていたから花や樹の情報は把握済みだ。が、それを褒められることは勿論なく、むしろ「庭師の方が向いているんじゃないか?」と鼻で笑われた。
 心地良い風が吹き、ライヘルトが微かに目を細める。薔薇を背景に、金の髪を後ろに撫でつけた美青年はまさしく絵になった。
 苦手な相手だとはいえ、思わず一瞬目を奪われてしまったほどだ。

「今日、お前ジラードの前から逃げ帰っただろう」
「……え」
「みっとも無い後ろ姿だったな」
 ぼうっとしていた所に突然会話が振られ、頭がついて行けなかったが、直後顔に血が上り、すぐにその血が引いていくのを感じた。
 確かにあれは酷くみっとも無かっただろう。
 けれど、どうしてもあのジルの前に居続けることは出来なかったのだ。心が、耐えられなかった。
「最低限の礼儀も弁えないお前のような使用人など、ジラードにしてみれば恥ずかしくて堪らないだろうよ」
 ざく、とその言葉がいつも以上に心に突き刺さるのが分かった。
「赤毛に雀斑、緑の目。見目は良くないのに色彩だけ派手。なら立ち居振る舞いに素養があるかと思えば、一人前どころか半人前だ」
 カタカタ、とティーポットを持っている手が震える。
 お願い、それ以上言わないで欲しい。お願いだから。

「お前のような人間は、オルタシアに相応しくない」
 止めだった。
 ずっと小さい頃から、ジルの隣にいるとひそひそと囁かれていた。
 身分違いだと、図々しいと囁かれ、それはいつしかいつも自分の容姿に繋がる。
 派手な赤毛。見苦しい雀斑。赤を強調する緑の目。ジルと並べば更に見劣りすると影で笑われた。
 赤毛と雀斑は母さんからの贈り物だ。緑の目は写真でしか知らぬ父さんから。大好きな両親から貰ったこれを、恥ずかしいとは思いたくなかった。
 それでもやはり、自分の髪が違う色だったら。雀斑が無かったら。せめて目の色が違っていたら。容姿が整っていたら。ジルの隣にいても笑われなかったのだろうか、と思ってしまう。
 必死で耳を塞いで、聞こえないふりをして、それでも指の間を縫って言葉は責めて来て。
 でも、縮こまってシーツに包まっていた自分から、ジルがシーツを優しく剥いで、その両手を取って、僕はその色が好きだと。とても素敵だと思うと何度も何度も言ってくれるから、ジルがそう言ってくれるなら、と、せめて恥ずかしく無いように使用人として頑張ってきたつもりだった。

 でもそれすら相応しくなかったのだとしたら。
 ジルも、俺を傍に置くのを恥ずかしいと思っていたのだとしたら。
 ああ、だからあんなに使用人として振る舞うのを嫌がっていたのだろうか。使用人は、その家の、主の、質だから。



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