▼ 3
無言で白菜を刻む。
冷蔵庫の中には食材がたっぷり入っていて、何かを作るのに足りないという事は無かった。何故、俺はこんな事をしているのだろうか、と思いながら思考を巡らす。
俺の人生は、あの時終わるはずだった。それを今更再び始められて、一体どうしろというのだろうか。胸の内にあるのはただの虚無感で、残りの長いであろう人生の先に、目を向けるだけで例えようもない恐怖に襲われて、慌てて目を反らす。
「……なんで……呪いを解いたんだ……」
小さく呟く。
俺はあれで良かった。そうだ、良かったんだ。
ようやくあの時の答えを得た。得たが、得た所で何も変わらず、ただ途方に暮れるしかない。
溜息を吐き、時間もあるし、薪割りに行くかと重い足を引き摺るようにして、外に向かう。じっとしていると色々と考えてしまうから、少しでも体を動かしたかった。
一体どれくらい薪は必要なのかと、考えながら歩いていると、今朝彼が掛けていたテーブルの上に置いてあった新聞を落してしまった。さっきから止まらない溜息を吐きながら、バサリと音を立てて落ちたそれを拾い上げようと手を伸ばし、ある物が目に入って俺は凍り付いた。
「ただいまー。あ、良い匂い」
微かに漂う温かな料理の匂いに、笑みが滲む。
「ただいまー。あれ?いないのか?」
日が暮れた暗さが室内を満たしていて、俺は小首を傾げながら、天井からぶら下がる電気の紐に手を絡めて引っ張った。
「おわっ!?」
明るくなった部屋の隅に、誰かがいる事に気づいて思わず飛び上がる。日向が隅に置いたソファーに静かに座っていた。
「日向、居るならいるって言って――」
「おかえり」
日向が俺に顔を向けて、笑みを浮かべる。それは余りに作り物めいたもので、その下から僅かに零れているのは……怒り。
「ご飯、もう出来てるんだ。食べるだろう?」
不気味なくらい静かに日向はキッチンに立つと、冷めてしまった鍋の中身を温め始めた。
その会話を交わしながらも完全に俺を拒絶する態度に思い当たる節が無くて、日向の肩を掴んで自分の方に向かせる。
「日向。どうしたんだ?俺、何かしたか?」
「何か、したか、だって?」
わなわなと日向の両手が握り拳を作って震えた。
「俺を、呪いから解いたじゃないか……っ」
日向の片手が脇に置いてあった何かを、ぐしゃりと掴むと俺に投げつけた。ばさりとそれが俺の胸に当たって落ちる。
「新聞……?」
「お前、今は何年だ……!?」
悲痛な声を日向は絞り出した。その声に心臓が苦しくなる。
「俺が石になったのは1993年だ。今は新聞を見れば2008……十五年も俺は取り残されてるじゃないか!!!」
頭を掻き毟って日向は叫んだ。
「ひな……」
「何で呪いを解いた!?何で!?何でっ!!俺が頼んだか?頭をお前に下げて、呪いを解いてくれなんて言ったか!!??それとも何かの意趣返しか!?」
ばりばりと掻き毟る指が額を削ったのか、爪が血に濡れる。
「日向っ、日向!止めろ!」
腕を掴んで止めさせると、日向は身悶えして手を振り解こうとした。
「俺は、俺はお前に生きてほし――」
「生きて!?生きて苦しい思いをするくらいなら、石になっていた方がましだった!!」
『石になっていた方がまし』の言葉に愕然として、掴んでいた手が緩む。緩んだ手から腕が抜け出し、日向は水差しを引っ掴むと中身を俺に浴びせた。
「勝手に呪いを解いて、勝手に俺の人生を用意して、全部自己満足じゃないか!!!」
喚きながら手当たり次第に物を俺に投げる。俺はそれを避けようとしなかった。……出来なかった。
日向にこんな思いをさせているのは、俺だと分かっているから。そして日向が言っていることは、その通りだと思ったから。
「何で……何でだよ……っ……もう、お前が責任とって俺を殺してくれよ……」
何本も涙の筋を頬に引いて、日向が俺に手を伸ばした。
「俺はこの先の人生に何も求めて無いんだよ……。お前が始めたことなんだ、お前が責任とれよ……」
俺に近づいて、俺の両手を握ると日向は自分の首に当てさせる。
「お前が終わらせてくれよ……」
日向が静かに目を閉じると、一筋また線が頬に引かれる。
勿論その手に力を込める事なんて出来る訳がなくて、俺は無言で日向を力一杯抱き締めるしかなかった。
その腕の中で、押し殺したような呻きに近い声で、日向は泣いた。
目が覚めたら腕の中に日向がいた。
ずっと夢見てきた光景に一瞬息を呑んだが、昨日の出来事を思い出して気持ちは暗くなる。そうだった。あの後、泣き疲れた日向を抱えて一緒に寝たんだ。
こんなにも日向が、あの呪いを解いて欲しくなかったなんて思わなかった。いや、多少は覚悟していたが、まさかこれほどとは……。
『いいの?この類の魔法がこういう方向に働くってことは、そういうことも想定出来るのよ?むしろその可能性の方が大きいわ』
猫だった俺に彼女はそう言った。うねる茶色の長髪の綺麗な女性だった。
『それでも貴方はこれを解除するの?』
「そうだ……これは俺のエゴだ……」
腕の中の体を抱きしめて目をぎゅっと閉じる。それでも俺は……日向、お前に……。
その力で目が覚めたのか日向が、目を薄らと開けた。
「ああ……そうだったっけ」
小さく呟いて日向が目を擦る。『そうだったっけ』が『呪いを解かれていたんだっけ』と変換出来て俺は顔を小さく歪ませた。何故そこまで日向は生きる事を断念……むしろ厭んでいるのだろうか。
「日向……お前……」
「うん?……ん!?」
日向が未だ少し寝ぼけた眼で俺を見て、驚愕の表情を浮かべる。
「ど、どうした?」
「み、耳が」
「耳?」
首を傾げると、日向の手が俺の頭に伸びて、何も無い筈の所をぐしゃりと掴んだ。
「い、痛い!?」
「……猫の耳が、生えてる」
呆然と呟く日向に、ああもうそこまで終わりが来ているのか、と更に心が重くなった。
俺は日向を石から元に戻すために人間の噂に耳を傾け、野良猫に話を聞き、そうしてやっとそういう類を扱っている女性の所に辿り付けた。
彼女は俺の言葉が分かり、そうして日向の呪いの解き方を教えてくれた。その時に日向の呪いとは全く別の話で、自分を人間にして欲しいと頼んだのだ。彼女は渋ったが、最終的には人間にしてくれた。
その魔法の条件は『人間の姿となって一番の望みを叶える事』。それが不可能な場合、魔法は解けて元の姿に戻ってしまう。
「……つまり、俺がお前を振ったから猫に戻るってこと……なのか?」
「うん、まあ。そういうことだな」
長々と説明した割に、あっさりと要約されて少しだけ空しくなる。
日向は暫く黙って考え込み始めた。
「俺の呪いを解く為だけに十五年も放浪してたのか……?」
口を開いたと思ったら、ぼそりと疑問を吐き出す。
「いや、そうでもない。放浪したのは四年くらいで、後は解くのに十年くらい、かな」
「そんなに時間を掛けて呪いを解いて、お礼の一つも言われないどころか罵倒までされて嫌になったろ?」
「全然」
自嘲するような笑みを唇に浮かべる日向に、俺は言い切った。そんなはっきり言われるとは思わなかったのか、驚いた顔で日向がこっちを向く。
「あのな、日向。俺は日向に死にかけてたとこを拾われて、温かい家を用意してもらって、これ以上ないってくらい感謝してるし、そんな優しい日向がこれ以上ないってくらい好きなんだ」
あの時の事は忘れない。神様って、この世に本当にいるんだと本気で思ったんだ。
「だからその日向になら何されたって俺は良いんだ」
俺は日向の目を真っ直ぐ見てそう言った。
『日向になら何されたって俺は良いんだ』と目を反らさずに言いきった男は、苦笑いを浮かべて「今日は仕事休むわ。というか、辞めなきゃいけないよなぁ……」と、言いながら立ちあがった。
こんな尻尾と耳じゃ仕事できないもんなぁ、と、ズボンをずらして、隙間から滑らかな黒い毛を生やした尻尾を取り出して触っている姿は、どことなく滑稽で、少し笑いを誘う物だった。だというのに、俺の顔は少しも微笑みを浮かべることが出来ずに強張ったままだ。
――……そういえば心の底から笑ったのは、いつが最後だったろうか。
ゆらゆら揺れる男の尻尾を見つめながら、心が少し痛んだ。
素直に笑えなくなっている自分に。
新しい人生を歩めることを喜べない自分に。
重い気持ちを引き摺って朝食を作る為に台所に立つと、慌てて男が俺から包丁を取り上げた。
「飯は俺が作るからっ!」
「……ああ、大丈夫だ」
顔を引き攣らせながら飯は俺が、と繰り返す男の考えが読めて、俺はやんわりと男の手から包丁を取り戻す。
「自殺なんてしないから」
いや、正しくは『出来ない』だ。
俺はそういう奴だ。死ぬ勇気なんか無い。死にたいと願いながら息をして、飯を食って、寝て、そして朝を迎える。モノクロの無味乾燥な毎日を、鬱々としながらも細々と生きていく。そんな奴だ。だからこそ、石になりたかった。楽な方法でこの人生の幕を閉じたかったんだ。
そんな思いで包丁を眺めていると、男が悲しそうな顔で俺の頬に手を伸ばして――伸ばしかけて拳を握り、決意したように俺を見つめた。
こんなことを言ったら、お前の過去に不用意に踏み込む事になるから、止めとこうと思ってたんだけど……と言った後に言葉を続ける。
「日向……あのな。お前の呪いを解く方法を教えてくれた人が教えてくれたんだが……。あれは呪いなんかじゃなかったんだ」
「は?」
予想もしなかった言葉に、呆然とする。
あの時俺は確かに石になった。それをこの男は否定するのか?いや、こいつはそれを解いたと言っていた。ならばどうしてそれを……。
「あれは呪いじゃなくて、“魔法”だ」
『魔法?』
先ほど彼女が言った言葉を繰り返す。
『そうよ。そもそも私達に“呪う”なんて思考が無いもの。私たち魔女の血を引く者たちが使うのは魔法。代価がない魔法なんてよっぽどの大物でもないと使えないはずなんだけど……。先祖返り様かしらね、貴方のご主人に魔法を掛けた人は』
ああ、でも力が不十分で二十年なんて後に発動するようになっちゃったのかしら。と呟きながら、くるくるとフラスコを回して光に透かすと、彼女は紙に何か書き込んだ。
『だから人を不幸せにするような代物じゃないから、解除の方法が数少ないのよ。解除するって発想にならないもの』
小さく溜息をついてフラスコ内の液体を棄てる。
『まあ、ないわけではないけれど。色々と複雑で大変』
そう言って彼女は不思議に光る瞳をこちらに向けた。
『あなたのご主人に掛けられた魔法は“その時その人が一番望んだ事”を実現する魔法。最大の祝福のような魔法だわ。その魔法がこんな形で発現したのは、あなたのご主人がそれを望んでいたからに他ならない。それが二十年ずっと変わらない可能性は否定し難いけれど、もしもまだその状態を、ご主人が望んでいたら貴方が魔法を解いて、ご主人は喜ぶかしら?』
俺はその話を呆然として聞いていた。
それでは何か。俺が石になったのは、七歳の俺が望んでいたからだとでもいうのか。確かに思い返せば呪い……いや魔法を掛けた少女は、一言も『二十年後に石になる』とは言わなかったかもしれない。でもはっきりと体で分かったんだ。
余りの事実に反応も返せない俺を、痛ましいものを見るような目で男が見る。
「日向……どうしてそんなに『石になりたかった』んだ?」
俺の瞳を覗き込んでそう、男が言った。