Novel | ナノ


▼ 2


 肉と玉蜀黍の粉を練って焼いたパン、それと汲んだ水を持ってシャンラは天幕へ向かった。
 己の天幕の、隣の二回りほど小さな天幕。厚い布で出来た扉を捲り、中へ入ると、籠った空気と、据えた汗の匂いが鼻をつく。
 が、それに全く構わない様子で、シャンラは天幕の中心にいる人物へ声をかけた。
「――おい、起きてるか?」
 その声に、死んだように動かなかった影が、僅かに身じろぎする。同時に、ガシャリと鳴ったのは頭の後ろで挙げた状態で固定された腕につながれた鎖だ。
 のろのろと上げられた顔に、シャンラは何度目か分からない溜息を吐いた。
「おまえも随分と強情だな。素直におれの物になれば、すぐにでも鎖を解いてやると言ってるのに」
 持ってきた食事を床に置き、シャンラは男に近づくと、汗と皮脂と埃に汚れた頬に指を這わせた。

 男の怪我に治癒を施してからほどなくして、男は目覚めた。しかしそれから一言も口を開かないのだ。命を狙う鋭さはないが、かといって目を離せば隙をついて逃げ出そうとする。
 敵兵であった男の命があるのも、ひとえにシャンラというこの軍の主が戦利品として持ち帰ってきたからだ。逃げ出し、シャンラの目の届かないところで見つかれば、あっという間に殺されるだろう。
 だから鎖に繋いでおく他ないのだ。シャンラとしては、自分の物は大切に扱いたい主義だ。さっさと自分の物になれば幾らでも愛でてやれるものを、この戦士といったら、うんともすんとも言わない。おかげで男の名前すら分からない。
 拷問をして無理矢理跪かせ、追従させる手もあるが、それはやりたくなかった。男の魂そのものが欲しいのだ。力で屈服させても意味がない。

 何度目か分からない溜息を吐き、持ってきた肉を手で掴むと喰らいついた。
 むしりと齧り取り、何度か咀嚼すると、男に近づく。膝で立たされている男と、シャンラの頭の高さは背伸びをすれば届く程度だ。
 伸びあがり、顔を寄せ、唇に唇を重ねる。そうして咀嚼した肉を口移しで与えてやると、暫くして男の喉が上下した。
 飲み込んだのを確認すると、また肉を口に含み、咀嚼して、口移す。
 仲睦まじい恋人同士でもやらないような行為を、男はどうだか知らないが、シャンラ自身は楽しんでいた。
 一通り口移したところで、傍の椅子に腰かけ、肉に再度齧り付くと、次は己のために呑み込んだ。

「――腕は立つ。だが、おれを殺す気はない。かといって、目を離せば逃げ出す。拘束すれば、暴れはしないが、やはり逃げ出す機会を伺っている。しかし、己の命を絶つ気配はない。口移しで餌をやれば、拒まない程、生に執着している」
 男を観察しながら、これまでの見解を誰に聴かせるともなく口にする。
 敵から口移しで食べ物を与えられるなど、男にしてみれば屈辱以外の何物でもないだろう。しかし、吐き出すこともなく、男は飲み込む。食べねば衰弱して死ぬからだ。
 しかし、逆に男は飲み込む以外のことは何もしない。そう、例えばシャンラの舌を噛み千切る、なんてことも、出来る出来ないはさておき、企てるくらいのことは出来るのだ。しかし、そんな素振りもない。
 ふむ、と大ぶりな耳飾りを揺らして小首を傾げる。
「おまえ、あの国に忠義なんてないだろう?」
 そんな男ではない。誇りと忠義を持つような人間のお綺麗な戦い方ではなかった。ましてや、褒賞金や名声目当ての戦い方でもない。何が何でも生き延びる。それに固執した戦い方だった。
「なら理由はなんだ。どうしておれのものにならない。何がお前を、そこまであの国に――」
 そこまで口にして、はたと口を閉ざした。
 神に戦いを挑み続ける愚かしい国。疲弊した民。屈強な異民の戦士。ならば答えは自ずと導き出せる。
「――ああ、そういうことか」
 小さく呟き、しゃぶっていた肉の骨を吐き捨てる。いつの時も、愚かで低俗な国が考えることは、腐った死体よりも臭いものだ。
 そうと解れば、やることは一つだ。
 シャンラは立ち上がると、男に近づき、その汚れきった髪に愛情たっぷりに唇を寄せた。
「欲しいものは欲しいとおれに強請れば、幾らでもやるのに。まあ、待ってろ。すぐに持って来てみせる」
 そう囁き、楽しげに笑うと、シャンラは嬉々としながら男のいる天幕を後にした。
 次、この場に戻る時こそ、男を自分のものに出来る時だと。




 男は憔悴した頭で、ぼんやりと思考を巡らせた。
 魂を削るような戦いの最中、幼子の姿の戦神に、自分の物にするという宣言をされて、気が付けばこの場所にいた。
 何が気に入ったのか、ただの気まぐれか。どうやらすぐに殺すつもりではないらしい、とずたずたになっていた身体を治されていたことで気づいた。
 だが、だからと言ってこの戦神の元にくだる訳にはいかない。今すぐにでも戦場に戻らなければ。
 しかし隙を見て逃げ出そうとしても、すぐにあの戦神に見つかって、捕まってしまう。最終的には、鎖に繋がれ、この有り様だ。
 今でも機会があれば、すぐにでも逃げ出すつもりだ。だが、この鎖に繋がれた時、どこかでほっとした己もいた。

 終わりの見えない戦に、心身共に憔悴しきっていた。長年、日々、戦という戦に身を投じ続けさせられた。その度、がりがりと心と魂が削れていく音が耳を打つ。
 細った心に、もう何もかも投げ出したかった。その言い訳を与えられた気がしたのだ。この鎖があるから、逃げ出せないのだと。
 親鳥が雛に餌を与えるように、幼くも美しい戦神から口移しで餌を与えられながら、怠惰なそれを心地好いとすら感じた。

 醜い本心に、胸の中で唾を吐きかける。
 よくもそんなことが思えるものだ。忘れたとは言わせない。戦い続けなければいけない理由を。今、生きている、そして生きねばならない理由を。
 あれから数日、戦神はこの天幕に来ていない。食べ物については、あの戦神が命令したのか、時折兵がやって来て口に突っ込まれる形で少量の食べ物は与えられているので、衰弱しない程度に体力は保っている。が、万全には程遠い。しかし、機会は今しかないだろう。
 鎖を揺らし、太さや強度を確かめる。どうやってこの場から逃げるか――と、算段を頭で組み立てていると、天幕の垂れ幕が上げられ、光が差し込む。
 眩しさに目を細めれば、逆光の中、幼子の姿がぺたり、ぺたりと足音を立てて近寄ってきた。
 鼻先を生臭い香りが漂い、目を見開く。嗅ぎ慣れてしまったそれは、血の匂いだ。
 漸く顔がわかる程近くに寄った戦神は、全身を血に塗れ、なんの表情も浮かべていなかった。
 息を呑み、血の滴る音が聞こえる程静かな中、幼子の姿の戦神は口を開く。
「――おまえ、鹿追いの民ルー・シャサールだったのか」


 鹿追いの民ルー・シャサール
 己の国を持たず、秋と共に森を移動する少数の狩猟民族。
 夕日の髪を持ち、男女問わず、長く伸ばすのが成人の狩人の証だ。
 穏やかな気性の民だが、狩りの腕はどんな民にも劣らない。
 それ故彼らは、鹿追いの民と呼ばれていた。
 国を持たない放浪の民。それが何故、他国の戦に、などとシャンラは問わなかった。――人質だ。
 自国の人間でない者を従わせる一番手っ取り早い方法。少数民族となれば、一族内の絆はより強いだろう。
 男が鹿追いの民とまでは気づかなかったが、頑なに従属しようとせず、戦いに舞い戻ろうとしているのは人質を取られているに違いないと、そうシャンラは予測したのだ。
 なら、その人質を奪い返すまでと、そう思い、天の父の命を半ば背くような形で戦神直々に戦場に立ち、ものの数日で男が縛られていた国を攻め落とした。
 シャンラの予測は当たっていた。が、しかしシャンラの予測よりもはるかに悪い形で、だった。

「――なんだ、これは」
 想像を絶する光景に、神ですら一瞬言葉を失った。
 臭気の籠る狭い部屋に吊るされた、頭蓋、頭蓋、頭蓋。丁寧に網状にされた縄で、天井から至る所に人間の頭が吊るされていた。最近殺されたわけではないというのが、最早白骨化している状態から理解出来た。


「……鹿追いの民は、魂は頭に宿ると考え、死ぬと骸は樹の苗と共に森に植える。そうやって、ずっと森を育んで来た。それが鎮魂であり、土に還れないような死に方をした者は、永劫苦しみ続けることになると信じられている」
 初めて戦神の前で口を開き、男は静かに瞼を閉じた。

 あの光景を、忘れることは出来ない。
 何もしていないのに、突然一族郎党捉えられた。そして年寄りと女は引き剥がされ、次相見えた時には、彼らは物言わぬ頭になって、狭い部屋の天井からぶら下がっていた。
 あの驚愕を、憤怒を、絶望を、恐怖を、哀絶を、表す言葉を知らない。
 まだ少年であった自分は、どうしてこんなことをされなければいけないのかと、その理不尽に呆然とした。自分たちは何もしていない筈だ。罪人でもないのに、何故こんな仕打ちを受けねばならない。
 残った男たちは皆、号哭した。妻を、母を、祖母を、祖父を、妹を、娘を、突然奪われ、そして死後の安寧さえ奪われている。
 その場であまりの怒りに失神する者もいた。その場で兵に飛び掛かる者もいた。抗った者はその場で首を刎ねられた。また一人殺された仲間の死体を踏みつけながら、その国の王は言った。
『お前達の身内の魂を救いたければ、戦に出て手柄を立てよ。立てた手柄に応じ、あの頭蓋を地に埋めてやろう。なに、お前達は狩りの腕は立つのだろう?ならば造作もないことよ』

 皆が怒り狂った。嘆き悶えた。しかし、その力に屈服する他なかった。
 自分がやらねば、誰が散った者の怒りを、悲しみを、鎮めてやるのだ。
 そうやって、皆が狩りの武器を捨て、人を殺す武器を手に取った。しかし、それでも一人、また一人と戦で死んでいった。
 その首もやはり、吊るされる。
 手柄を立て、貰うのは、腐臭を漂わせ、蛆が沸き、崩れた同胞の頭蓋。
 ――還ろう。森へ還ろう。
 皆が口々にそう呟くようになった。
 もう森の木々のことなど思い出せない。あの清涼な風の匂いの記憶は、戦の血煙の匂いに消えた。
 茜の髪は日に焼け、いつしか煤けて銅の色に変わった。
 あの国に全てを奪われた。しかし、まだ取り返すものがあるから、ずっと、ずっと――。
 そうやって何年戦い続けただろう。いつしか同胞は皆死に、気づけば自分しか残っていなかった。鹿追いの民の最後の一人として、どうしても生きねばならなかった。もがく様に、生き続けてきた。


 ガシャン、と腕を繋いでいた鎖が突如断ち切られた。
 支えるものがなくなり、そのまま前に崩れ折れると、目の前の地面に、何かばら撒かれる。
 ――鹿の角から削り出した額飾り。
 一族の皆がつけていたそれに息を呑む。

「受けとれ。おれを楽しませた褒美だ」
 朗々と、神が告げる。
「――国は滅びた。あの頭がいは全て木と共に土に埋めるよう取り計らった。そこから生まれる森を、鹿追いの森ルー・シルウァと名づけて、何人にも侵されないようにするとおれの名に誓おう」
 続けてそっと囁かれた声は微かに情が滲んでいるように思えた。が、すぐに冷たく孤高の神の声に戻る。
「おまえを縛っていた鎖は、おれが断ち切った。狩人よ、おまえが森を望むなら森に帰るがいい。おれを楽しませた褒美として、命は見逃してやろう」
 逃がしてやる、という言葉に思わず顔を上げる。

「生憎、おれが欲しいのは戦士のおまえだからな。狩人としてこの先、生きたいのならいらない」
 何故か、“いらない”という言葉が胸を抉り、男は顔が歪みそうになった。
「おまえは面白いが、おまえが戦う理由が存外つまらない。死者に魂を縛られ、死者のために生きるなど、なんの面白味もない。まだ何も理由がない方が、面白いというものだ」
 だが、と戦神は言った。
「おまえが森を捨て、戦場に生きるというのなら。狩人であることを捨て、戦士であるというのなら。その魂、おれが貰ってやろう」
 おれに縛られろ、と神は目を輝かせた。
「生きる意味をおれがおまえに与えてやる。今までの生きながら死んでいるような生とは違う、鮮やかな世界を見せてやる。――さあ答えろ、最後の鹿追いの民。おまえはどちらを取る」

 強く、傲慢な神そのものの、輝かしい問いだった。
 男は頭を垂れ、瞼を閉じる。
 この輝かしさに、焦がれない人間などいない。長いこと血に塗れた闇を歩くような年月を過ごしていたのなら猶更だ。戦場に、雷のように降り立ったあの瞬間から、己の魂はこの幼子の姿をした美しく熾烈な神に惹かれていたのだ。
 鎖は解かれた。しかし、もうこの身は狩人に戻れはしないだろう。この手はあまりに人を殺しすぎた。
 しかし、その血濡れた手こそをこの神が望むのならば。生きる理由を果たし空虚になったこの胸を満たすというならば。この生に再び理由を与えてくれるというのならば、何を躊躇うことがあるだろう。
 顔を上げ、光を放つような碧眼を見つめると、口を開いた。

「……戦神よ、この身体と魂――貴方に捧げる」

 答えを聞いて、幼子の姿の戦神の目は輝きを増しながら、弓なりに細められた。
「おれに、捧げるのだな。その全てを」
「ああ」
「――ならばもう一度問おう!鹿追いの民だった男よ。おまえが握る物はなんだ」
「――戦うための剣を」
「おまえが駆ける場所はどこだ」
「――戦場を」
「いいだろう!鹿追いの民の名を捨てた男よ。――今からおまえは、おれイェマ・シャンラのものだ」
 幼子が手を伸ばし、男の頬を撫でながら酷く満足そうな無邪気な笑みを浮かべた。
 それは欲しい物が手に入った子供そのものの顔で、いつしか神は声を上げて笑い、気に入りの人形でも抱きしめるように男に抱き着いた。
「くふ、ふは、ははは、ようやくおれのものになったな!」
 首に抱き着かれながら、男は全身で喜びを表現する神に少したじろいだ。
 だが、それ以上に、それだけ己の物にしたがっていたのかと思うと、じわりと胸の中に喜びの気持ちが生まれる。
 自分も大概、この戦神に惹かれていると苦笑を禁じ得なかった。



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