Novel | ナノ


▼ 4


『じる、ジル、速いよ、ジル』
『カラエが遅いんだよ』
 小さい頃からずっと一緒の少年はそう笑って、でもちゃんと立ち止まって手を差し伸べてくれる。あの時から、彼の瞳はきらきらと光を反射して輝いていた。

「ジル、やっぱり怒られないかな、母さんにも、奥さまにも、みんなに黙って外に出るなんて」
「だいじょうぶだよ!すぐに帰ればだれも気が付かないから。ね、ほら早く!」

 あれはいつの事だったか。
 奥様に連れられて市場に行って来たジルが、屋台で買って貰って食べた林檎飴トフィー・アップルが本当に美味しかったのだと目を輝かせて話してくれた。
 ベタつくから持ち帰ることが出来なかったのだけれど、カラエにも食べさせたいと、それがどれだけ美味しいかを拙い言葉で教えてくれた。
 僕はそれで十分だったのだけれど、ジルはそれで満足しなかったようで、お手伝いで貰ったお小遣いの銅貨を握って「外にいっしょに出かけよう!」と言って来たのだ。
 最初はダメだと首を横に振った。せめて奥様か母さんが一緒じゃないと子供の僕たちだけでは危ないと。
でもジルは市場は遠くないし、二人だけで外出するなんて冒険みたいじゃないかと意気込んで、頑としていう事を聞かなかった。
 それに、確かに少しだけ惹かれてはいたのだ。二人だけでの外出。母さんの買い出しに付き合う事はあっても、一人で外に出た事は無い。その外出ですら必要最低限を購入したらすぐに帰ってしまうので、お菓子の屋台なんて寄り道した事が無いのだ。たっぷりとトフィーのついた林檎飴は、きっと言葉に表せない程美味しいのだろう。
 だから、つい、根負けしてジルの計画に乗ってしまったのだ。市場はそう遠くも無く、すぐに戻れば大丈夫だと。そう思って。




「わぁ……!」
 賑やかな市場は、いつも日用雑貨を購入する店とは違って、色んな色や匂いに溢れていた。
 鮮やかな果物に野菜、香ばしく美味しそうな香りがするのはスコーンだろうか。フックにぶら下げられた生ハムに、この国では余り見た事が無いエスニックな料理を並べている屋台もあった。
「すごい、すごい!」
「こっちだよ、カラエ!」
 人混みに埋もれそうな僕たちは、手をしっかり握って波を掻きわける。
 秋も終わり、冬が始まりそうな冷たい風の中、握った手がとても温かくてコートの前をぎゅっと握ったのを覚えている。

「ここ!ほら!」
 導かれた先の想像以上の光景に息を呑んで目を輝かせた。
 こってりとしたトフィーが、自分の手の平よりも大きいリンゴに滴らんばかりに塗られて、てらてらと輝いている。その甘い香りは店の前に立っただけでも、むわりと濃く、身体に染み込まんばかりだ。
「おじさん、二つちょうだい!」
 はいよ、と渡されて、ずっしり重いそれを受け取った時の高揚感!そして恐る恐る舌を飴の表面に這わせた時の感動は、一体どう表せば良いのか。
 トフィーの濃いバターの味と甘さは舌がとろけそうな程で、こんなにも美味しい物があるのかと思ったくらいだ。
 お屋敷で出されている食事は、とても上質な物だけれど、流石に食事までジルと一緒な事は無い。あくまで使用人としての枠に収まった物だ。でもあんなに美味しく感じたのは、きっと二人でこっそり抜け出してきたというスリルも加えられていたからなのだろう。
 美味しい!と目で訴えれば、ジルは本当に嬉しそうに笑っていた。

 目的の飴も変えたことだし、と、舐めながら二人で来た道を歩いていると、ふいに目の前を遮られた。
 また人混みかと見上げたそれと目が合い、二人して歩みを止める。
 見知らぬ男が三人。背が高かったかどうかは、あの頃、大人といえば皆自分達より背が高かったので分からないが、それでも見上げる程高かった。
「……なに?」
 ジルが訝しげにそう言うのと同時に一人の男がにんまりと笑い、猫撫で声で「お前達、あのでっかい屋敷から出て来たろ?どっちがオルタシアの子だ?」と言った。
 にたにたと気持ち悪い笑みに足が竦み、本能的にこの問いに答えてはいけないと思った。
「お前か?」
 が、ニタリ、と笑っている澱んだ瞳を向けられた瞬間、ひくっ、と喉が鳴って身体が震えはじめる。
 違う、と言えば良いのか。それでは消去法的にジルがそうだと分かってしまう。何と答えれば良い。いやそれよりも逃げないと、でも足が、動いてくれない。
 助けを求めようと必死に目線で周囲を見渡しても人通りは無く、だからこそ男達は大胆にもこういった行動に移したのだろう。
 伸ばされた太い腕に竦み、ぎゅっと目を閉じた瞬間。

「僕がオルタシアだ」
 聴きなれた、でも今まで聞いた事の無い凛とした声に、はっと目を開けば、男達から庇うかの様にジルが前に立っていた。
「じ、」
 ジル、と呼ぶ声を遮って男達が喋り始める。
「聞かなくても分かるだろうがお前。オルタシアの旦那は黒髪で、奥方が栗毛だろ?ならこの赤毛のガキがオルタシアの子供な訳ねぇだろうが。おまけにあの美形夫婦の子供がこんな顔なわけねぇだろ」
「わかんねぇだろ、使用人にしちゃ良い身なりだしよぉ……」
「そりゃオルタシアの使用人なら、そこんじょそこらの奴らよりかずっと良いもん食って良いもん着てるだろうさ」
「じゃあコイツだけで良いな。へへ、オルタシアのガキなら金の支払いが随分良いに違いない」
 その言葉に涙が出そうになった。
 このままではジルがどこかに連れて行かれてしまう。
「馬鹿野郎。お前はとことん頭が鈍いな。俺達の顔を見られたんだからそっちのガキも一緒に連れて行くんだよ。人を呼ばれでもしてみろ」
「ああ、そうか。そう言われてみりゃそうだな」
 恐怖に竦んで、ろくに抵抗も出来ない内に太い腕に二人とも抱え込まれてしまった。
「やめろ!カラエは関係ないだろ!離せ!」
 ジルが大声を上げて、暴れたけれど、二人ともお腹を拳で殴られ、視界がぶれると共に意識が遠のいた。
 暗くなっていく視界の中、力を失った手からリンゴ飴が地面に落ちるのが見えて、ああなんて勿体無い、と場違いにも思った記憶がある。




 目が覚めると、目の前に何か木の棒が数本あった。
 それが机や椅子の脚だと気づいて、自分が床に転がされているのだと知る。腕は後ろで縛られているみたいで、動かそうと思っても全然動かなかった。
「カラエ……カラエ」
 こっそりと呼ばれて身を捩れば、同じように床に転がされているジルがいた。
「ジル……!」
「良かった、痛いところはない?」
「うん、うん、だいじょうぶ、ジルは……?」
「だいじょうぶだよ」
 ニコ、と笑って見せるジルの頬には床の汚れで黒く煤けていて、襟にも煤がついている。それを見て、何故かじんわりと涙が滲みそうになるのを、必死で堪えた。
 目だけでぐるりと周りを見渡せば、薄暗く狭い部屋なのだと知る。ガタガタと後ろで椅子が揺れ、ビクリと身体を跳ねさせれば下品な笑い声が上から降って来た。
「おーお目覚めか、ボウズども」
「まぁ暴れたりしなけりゃ殺すつもりはねぇよ。お前の親が金を払ってくれればすぐに返してやるからよ」
 払わなかった時は……まぁ、お楽しみにしておきな、と男が言った後、ドッと他の男達が笑った。
 何が面白いのか全然わからないし、怖さの余りにガタガタと身体が震えた。
「カラエ、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。僕の目を見て、ほら」
 震えながら、ジルの言葉に従って顔を上げると、そこには安心させるように笑っている金茶の澄んだ瞳があった。
「父さんも、母さんも、きっとお金を出してくれる。僕だけじゃなくて、カラエも一緒なんだ。絶対だいじょうぶだよ」
 だから、安心して、ね?と囁かれて小さく頷く。が、それも「おお、涙ぐましい程仲が良いな!」と冷やかされて、余り心が落ち着かなかった。

 それからどれくらい経ったのか分からない。
 縛られた腕の感覚が無くなってきて、足の爪先が冷たくなっていたのを覚えている。
「……」
 さっきから男の一人がじろじろとこっちを見てきて、居心地が悪くてもぞもぞと足を動かした。
「……なぁ」
「ああ?」
「こっちの赤毛のガキは別に何したって良いんだろう?」
「はぁ?……ああ、まぁ、ただの使用人のガキみたいだしな。でも何かの切り札になるかもしれんし、まだ殺すなよ」
 殺す、という単語にざぁっと血の気が引く思いがした。
「殺しはしねぇよ。ただ、確か赤毛ってすげぇ肌が白くて柔らかいって聞いた事あってよぉ……」
 男の舐めるような目線に膝を折り曲げ、身を縮める。
「……は?ああ。はは、何だ、お前そういう趣味あったのか」
「バカ、そういうんじゃねぇけど、まぁこんぐらいのガキなんて女も男も変わんないだろ」
 縛られた腕を強く掴まれ、無理矢理立たされる。
 泣きそうな顔で男を見れば、男はにやりと怖く笑った。
「やめろ!カラエに触るな!はなせ!」
「うるせぇな。騒ぐんじゃねぇよ!」
 足をバタつかせ、大声で怒鳴るジルの腹に男の蹴りが入り、ジルが苦しそうに呻き、咳き込む。
「や、止めて!ジルにひどいことしないで……!」
 自分はどうなっても良いからと必死で懇願すれば、男はにやけた笑みを深くした。
「じゃあ俺の言う事を大人しく聞け。じゃないとあのガキが吐くまで蹴るからな」
「おいおい、オルタシアのガキは怪我させるなよ」
「服で見えないところなら構わないだろ」
 良いな?と言われ、何度も頷いた。
 そのまま何故か机の上に横にさせられ、男はズボンに手を掛けて来ると、荒い動作で足からそれを抜き去った。
 履いていた靴が片方脱げ、見知らぬ他人の目に下着姿を晒す心細さと恥ずかしさに足を閉じ、縮めた。
「はは、なまっちろい足だなぁ。こうも細いと女と変わらんな」
 内腿を男に撫で回され、その不快感を、唇を噛み締めて耐える。
 何をされるか分からないが、その這う様な手に、本能的に、厭らしく、辱めるような物だということを察した。
「やめろ!さわるな!さわるな!やめろぉお!!!」
「チッ、うるさいガキだ」
 ジルが見た事も無い程大声で怒鳴り、暴れていたが、男の一人が抑え付けて、猿轡をし、両足も縛ってしまう。
 それでも獣のように唸り続けていたジルが、机の足に思い切り体をぶつけて来た。
 ぐら、と少し揺れた瞬間、机の上に置かれていたカンテラがバランスを崩し、床に叩きつけられた。
 オイルランプで、更に中身がたっぷり入っていたようで、割れるのと同時に油と火が撒き散らされる。寒さが増すと共に乾燥もしていたあの季節に、木で出来た古い小屋に灯された火は、男達が対処するよりもずっと早く燃え広がった。
 男達が慌てている間に机の上からジルの所へ転がり落ち、口で必死に紐を解こうとしていると、男の一人がこちらに気づいた。
「……ンのガキ!!」
 が、その伸ばされた手を、天井から落ちて来た梁が遮る。
「オイ!逃げるぞ!」
「だけど、ガキが!金はどうする!」
「金は惜しいが、拾ってる暇なんかねぇよ!放っとけ!全部燃えて証拠なんかなくなるだろうよ!」
 舌打ちと共にバタバタと足音が遠ざかり、耳に入るのはぱちぱちと火が爆ぜる音だけになった。

 煙が目に沁み、息苦しさが増す中、必死でジルの両足を縛っている紐に食いつく。このままでは逃げる事も叶わず死んでしまう。
 煙の所為だけでなく、ボロボロと涙が零れた。
 ――自分のせいだ。
 胸の内で己を攻めた。
 どんなに嘘だと分かっても、自分がオルタシア家の子だと言い張るべきだったのだ。そうすれば自分だけが攫われて、ジルがこんな目に合うことなんてなかったのに。
 いや、せめて、どちらがオルタシア家の子息か分からないほど、自分の見目が良ければ。赤毛なんかじゃ、なければ。
 ジルが何か言いたげにもごもごと叫んでいるが、首を振りながら紐を解こうと死にもの狂いになる。
 幼い頃からずっと共に育ってきた乳兄弟が、何を言おうとしているかなど分かっていた。「自分のことなど、放って逃げろ」と、優しい彼はそういうに違いない。
そんな事出来る訳が無かった。
 大切な彼を。家族のように思っている彼を、残して逃げられる訳が無かった。
 きつく結ばれた紐は微塵も解ける様子が無く、とうとう煙の息苦しさにそのまま意識を失った。


 目が覚めるとそこは見慣れてはいなくとも、見知ったオルタシアの屋敷の一室で。
 横に座っていた母さんに、本当に心配したと安堵の表情を浮かべながら酷く怒られた。
 その叱りを遮って、煙で痛む喉を酷使してジルはどうしたのかと、無事なのかと矢継ぎ早に尋ねた。
 話を聞くに、誘拐される様子をどうやら街の誰かに見られていたようで、即座に警察には届けられたらしい。しかし男達を見失ってしまい、おまけに誘拐されたのがまさかオルタシアの子供だとは思いもしなかったようで、迅速な対応が出来なかったのだという。
 しかし、街隅の寂れた小屋で火災が起き、聞き込みで、そこから飛び出てくる怪しげな男達の人相が誘拐犯として届けられた物と似通った点が多数あったため、まさかと警察の人が小屋に飛び込んだ所、燃え盛る火で崩れた梁の下に、子供を二人見つけたのだ。
 最初に崩れた梁が、丁度他の瓦礫を遮る形になってくれたおかげで、自分は打撲と小さな火傷以外の傷は負っていなかった。
 しかしジルの方は、自分よりも火に近かったようで、腰に大きな火傷を負ってしまったのだという。
 診察に来た医者が、火事は火傷よりも煙が怖いのだと言い聞かせるのも上の空で、ただただジルの安否が気になって仕方が無かった。
 怪我が軽かった俺は次の日にはベッドを下りる許可を貰い、ジルの部屋へとすぐに向かった。顔を見た瞬間に安堵に顔を綻ばせ、謝罪をしながら本当に良かったと笑うジルは、パッと見、目立った怪我は無くとも、少し髪が焦げていて。腰を庇う動作から、寝間着の下に包帯が巻いてあることは容易に想像がついた。
 自分の怪我を棚に上げ、ただ只管こちらの安否を気にするジルを見て、その時誓ったのだ。
 二度とこんなことが無いようにしよう。使用人としての立場を弁え、彼の役に立てる、そんな人間になろう。と。
 だって自分と彼は違うのだ。同じであってはいけない。同じな訳が無い。



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