Novel | ナノ


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「じゃあ行って来るね」
「お気をつけて」
 準備が出来たジルを玄関先まで見送り、頭を下げる。
「そうじゃなくて。いつものでやってよ」
 その態度に、ジルは少し口を尖らせて文句を言う。何の事か分かっているが、ここはジルの部屋では無くて他の目もある。今のところ人は見えないけれど……。でもジルの言う通りにしないと学校に行きそうに無い。
「……いってらっしゃい」
「うん」
 溜め息を吐いて、仕方なくそう小声で言ってやると、ジルは嬉しそうに笑ってすっと身を屈め、唇のぎりぎり端くらいの頬にキスを落としてきた。
「ジル!」
「ふふ、ごめん。行って来ます!」
 咎める様に声を荒げるが、ジルはそれを笑ってひらりと交わし、満面の笑みで外へ出て行った。
 キスされた所を手で押さえ、溜め息を吐く。丁寧な言葉使いをすればいつも通りにしろと言い、出かける際のキスは欠かさずする。何度やめろと口で言っても、ジルが聴こうとしたためしが無い。

「カラエ・レーニス!!!」
「はい!!」
 背後から大声で呼ばれて、反射的に返事を返す。この声は誰か振り返らなくても分かる。
 振り返りたくない気持ち半分で振り返れば、痩身の女性がカツカツと足音高らかに近づいて来た。
「カラエ・レーニス!何ですか、今のは!」
「も、申し訳ありません……ミセス」
「ジラード様に向けて<いってらっしゃい>は無いでしょう!それに主人から出かけ際のキスなど!何度目ですか!」
 鋭い目をさらに鋭くさせて怒っているこの女性は、使用人を取り仕切っている女中頭ヘッド・キーパーだ。
 それだけでなく、この屋敷で、そして女性としても異例のハウス・スチュワードの仕事の一部も兼任している彼女――ミセス・レティに俺はいつも叱られてばかりだ。

「まぁ……何度言ってもお止めにならないジラード様に非が無いとは言い切れませんが……」
 ミセスが苦虫を噛み潰したような顔をして呟く。
 ミセスが俺を叱るのは当たり前の事で、別に目の敵にされている訳では無い。むしろミセス程理解があり、知識が深く、堅実な人はいない。彼女は本当に凄い人なのだ。……怒ると少しばかり怖いだけで。
「ですがレーニス。貴方もちゃんとお断りしなさい。断固とした態度を貫いている様には私には見えませんでしたよ」
「……はい」
「貴方がジラード様と仲が良いのは知っています。ですが、もう子供では無いのですよ。自分の立場と仕事をもう理解出来るでしょう。貴方は使用人、ジラード様は雇い主です。もう線引きをなさい。貴方が曖昧な態度を取るから、ジラード様も甘えてしまうのですよ」
「……はい」
「それにレーニス。貴方、最後にジラード様を愛称で、それも呼び捨てにしましたね?」
 あ、という顔をすれば、ミセスの目がきりりと釣り上がった。
「初歩的なことですよ。こんな事まで注意されるとは情けない。そもそも“ジラード様”とお呼びする様に言っているというのに。まさかレーニス、他の者の目が無いところでジラード様を愛称で呼んだり、砕けた口調で話したりしてはいないでしょうね。……そんな事があれば、ジラード様のお付きを止めさせなければならなくなりますよ」
 内心ひやりとしたが、思わず首を横に振っていた。
 それはミセスから大目玉を食らうのが嫌だったからなのか、ジル付きの使用人から下ろされるのが嫌だったのかは分からない。
 全てお見通しのようなミセスは、顔をじっと見つめた後、溜め息を吐いた。
「次から気をつけなさい。エルザの面倒はまだですね?」
 いつもよりかは少し早めに切り上げられたお説教に、少し胸を撫で下ろしつつ頷く。
「それではお行きなさい。今日は旦那様も一度お昼に戻られるとのことですから忙しいですよ」
「はい。あ、ジ、ラード様のお昼は、サンドウィッチとローズジャムの紅茶が良いそうです」
「そう……それなら鴨肉とマッシュポテトのサンドウィッチにしましょう。ローズジャムならキーマンが良いかもしれませんね。お昼は旦那様とご一緒に食べられるでしょうから、今日はジル様の部屋に運ばなくても結構ですよ」
 ふと目線を宙に向けて、すぐにメニューや予定がすらすらと出てくるミセスは流石だ。こんな風になりたいと憧れを抱きつつ、分かりましたと返事をする。
「さ、エルザが食事とブラッシングを心待ちにしているから早くお行きなさい」




「エルザ!」
 整えられた庭で伏せて微睡んでいる黒い躰に、いつものように声を掛けると、瞬時にその上半身が起きる。
 顔を向け、こちらを認識すると、ブラシの様な尻尾がぱさぱさと左右に軽く振られた。
「ごめん、遅くなって。ブラッシングしよう」
 手に持ったブラシを左右に振ると、こげ茶の瞳がきらきらと輝いたように見えた。

 レトリバー犬種に共通して言える賢さを、エルザも同様に持っていて、ブラッシングしている間、身じろぎ一つしない。
 むやみやたらに吠える事も無く、猟に出かける時には優秀な猟犬になる。
 けれど気立ても優しく人懐っこい本当に良い子なのだ。
「お前のご主人様も、これくらい言う事聞いてくれればなぁ」
 尻尾の先までブラシを掛けながら、独り言ちる。飼い主に似る、とあるが飼い犬に似て欲しいくらいだ。
いい子Good Girl
 終わり際、ぽんぽんと頭を撫でると、ぺろりと手の平を舐め、置いてある餌の前にちょこんと座る。
 行儀良く腰を据えるその様子は、愛らしくて堪らない。
待てStay……良しOk
 GOサインを出してからちゃんと食べ始めるエルザに頬が緩む。
 ああ、本当に良い子だ。




 まだ見習いである自分は、ジルの身の回りの事や、エルザのブラッシングの他にはこれといってやる仕事は決まっていない。
 ジルの身の回りの事だって、ジルが学校に行っている間は部屋の掃除、衣服のチェック等々で、時間を費やす仕事では無い。
 残りの時間はその日忙しい仕事を手伝う事で、屋敷の色々な仕組みを学ばせて貰っている。

 エルザのブラッシングの後、そのまま厨房に行き、必要な手伝いをする。
 それは時には業者からの食材の受け取りだったり、食器洗いだったり、時には芋の皮むきだってある。今日は久しぶりに旦那様も昼食時に帰って来られるという事で、いつもよりも少し慌ただしい様子だ。
 手伝いに精を出していると、馬の鳴き声が耳に入った。旦那様が帰って来たに違いない。
「旦那様がお帰りになったんだろう。カラエ、出迎えて差し上げなさい」
「え、でも」
「旦那様はお前に出迎えて貰うと喜ぶんだから。こっちの仕事も殆ど終わったし行っといで」
 ここを仕切る料理長ヘッド・シェフに片目を瞑りながらそう言われたら、仕方が無い。
 逆らう理由もなく、分かりましたと捲っていた袖を下ろし、廊下を小走りで玄関へ向かった。




「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいまカラエ。久しぶりに顔が見られて嬉しいよ」
 玄関から入って来た旦那様のコートとステッキを受け取ると、そう言いながらこの屋敷の主はにこりと微笑んだ。
 ジルと同じ濡れたような黒髪に、精悍な顔立ち。ジルの瞳は奥様譲りだから瞳の色は違うが、知性を湛えた菫色の瞳は柔らかく微笑んでいる。
 ジルの垂れ目がちの目元は奥様を彷彿とさせるが、他は旦那様にそっくりだ。きっと年を重ねれば旦那様の様な紳士になるのだろうと簡単に想像出来た。
「今日はジラード様も、お昼にお戻りになるそうです」
「そうか、それじゃあ久しぶりに食事が一緒にとれるな。どうだ、あの子は。情けないが父親なのに中々時間がとれてやれない。カラエがいるから寂しい想いはしていないだろうが……あの子はカラエの前では我が儘ばかり言うからね、迷惑を掛けていないかい?」
 もう、本当我が儘ばっかりです。と、言えたら良いが、そんな事言える訳が無い。
 そもそも、確かに我が儘ばかりだけど、その我が儘に多少困りこそすれ――迷惑に思った事は一度も無かった。
「そんな事は無いですよ。ただ……そうですね、旦那様と違って朝が弱いのには、少し困る事はありますが」
 少しジョーク混じりにそう答えると、旦那様は楽しそうに笑った。
「ふふ、そうか。小さい頃は誰よりも早く起きて、遊んでとベッドの上で飛び跳ねていたのになぁ」
 懐かしそうに目を細める旦那様は年月が流れるのは早いな、と年寄り臭く独り言ちていたが未だ三十半ばだ。
 見た目も若く、今でも世間では後妻の席を狙っている女性が後を絶たないという。
 勿論それはオルタシア家という家柄や財産もあるだろうが、何よりこのレオン・オルタシアという人が魅力的なのだ。
 けれど貴族なのに珍しく恋愛結婚をした旦那様は、亡くなった奥様の事を今でも想い続けており、その左薬指から指輪が外れる事も無ければ、後妻を娶るつもりも一切無いのだそうだ。

 因みにそういった経緯で結婚をしたからなのか、ジルも貴族なのに珍しく許嫁という存在がいない。旦那様と奥様曰く、家柄や身分に縛られず、自分の好きな人と結ばれる事が一番幸せなのだからと、それを縛る事はしたくないらしい。
 おかげでジルは学校でも時折参加する社交界でも、沢山の女性やその父親に言い寄られているのだとか。
 それもやはり家柄や財産だけで無く、ジルの魅力も大いに関係していると思うけれど。

「ただいま――父さん!」
 ギイ、と重い扉が開く音と共に入って来た帰宅を告げる声は、旦那様を見つけて驚き半分、喜び半分の声を上げた。
「お帰り、ジル。中々顔を合わせられずにすまなかった」
「仕事は山を越えた?」
「そうだな、けれど後もう少し掛かりそうだ。すまない」
「ううん、ただあまり無理をして欲しくないと思っただけだから」
 仲が良い事がひしひしと伝わる父子の会話に、人知れず微笑んでしまう。
 旦那様の前ではどんなに恰好良かろうとも、ジルはやっぱりまだ子供で。そしてジルの前では旦那様は、旦那様では無く父親である事が、何よりも素敵で、嬉しく思った。
 このお屋敷にお勤め出来て良かった、と思う瞬間だ。
 少しでもこの二人が笑っていてくれるように、この二人の役に立ちたいと思える。
 そんな俺の方をちらりと見るとジルは一瞬酷く嫌そうに顔を顰めた。

(……え)
 それはすぐさまいつもの表情に戻ったが、見間違いでは無い。……無いと、思う。いつもなら、俺と目が合ったら笑い返してくれるのに。
(何か、したかな、俺……)
 ジルは温厚な性格で、よっぽどの事が無いと怒らないし、その怒り方だって半分くらいは拗ねた様なものなのに。
 俺の後ろには誰も立っていないし、明らかにジルは俺の顔を見て顔を顰めた。
 何をしてしまっただろうか、と自分の行いを振り返りながら無意識にきゅ、とベストの胸元を握り、不安に心中を曇らせた。




 一応はジルのお付き、という立場なので、給仕の際はジルの傍で行う。
 ジャムを溶かした紅茶を啜り、美味しいと笑ってこっちを仰ぎ見たジルには先程の雰囲気は欠片も無くて、ホッと少し胸を撫で下ろす。
 もしかしたらお腹が空いていたとか……それに一瞬の事だったから、そんなに顔を歪めてなかったかもしれない。
 そう自分に言い聞かせて、食べ終わった皿を片付けていると、旦那様がああそうだ、と声をあげると俺を見てにこりと微笑んだ。
「カラエ、少し話があるんだがこの後私の書斎に来てもらえるかな?」
「はい、旦那様」
 話とはなんだろう、と思いながら頷き返すと、突然ガシッと腕を掴まれ驚く。
 俺の腕を掴んだのはジルで、旦那様を見つめるその険しい表情に更に驚いた。




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