Novel | ナノ


▼ 1


 厚い扉を、控え目にノックする。
 反応は無い。
 暫く間をおいて、もう少し強くノックをするが、やはり反応は無し。
 反応があるとは思っていなかったので、いつもの様に「失礼します」と声を掛けて扉を押した。
 厚いカーテンの隙間から差し込む光に、ぼんやりと部屋が照らされている。広い部屋に似つかわしい大きなベッドの上で寝息を立てている人物の傍に、そっと近寄った。
「ジル様、おはようございます。朝ですよ」
 声を掛けただけでは起きない。名前を呼ばれた事に、身動ぎどころか呼吸一つ反応させずに、この部屋の主は昏々と眠り続けている。
 それも毎度のことだ。日常と言っても良い。小さく溜息を吐いて、大きな窓を覆っているカーテンを掴むとシャッという音と共に大きく開いた。
 途端に眩しい朝日が、部屋中に満ちる。勿論ベッドの上の人物も例外なく照らされて、流石に眩しいのか眉間に皺が寄り呻き声を上げた。
「ジル様、ジラード様。起きてください」
 上質な布団に包まれた身体を、ゆさゆさと揺さぶる。
 意味をなさない音を発した彼は、不意にひっしと布団を掴んでいた手を離し、寝ぼけているのかこちらに腕を伸ばすと、ギュッと抱き着いて来た。
 余り背丈は変わらないが、しっかりとした身体付きの彼に比べて、自分は情けない程ひょろっとしている。
 その腕の力強さによろけながら、数歩引き寄せられた。
 先程よりも近くなった顔。日に透かしても茶色に輝いたりはしない、夜よりも黒い髪と同色の長い睫は呼吸と共に微かに揺れる。
 憎たらしい程に整った顔をまじまじと眺めた後、少し頭を後ろに反らせ、胸一杯息を吸い――。
「起きろ、この野郎!!!」
「ぎゃん!!!」
 唯一幼い影を残す額に、思い切り己の額を打ち付けた。




「い、痛いよー」
 涙目になった彼が、額を擦りながら口を開く。
 まるで蹴られた犬の様な声を上げたが、今浮かべている情けない表情もまるで犬の様だ。
 彼の飼い犬である、エルザという名の犬に良く似ている。それは今こそ寝癖で乱れてはいる物の、本来ならば柔らかく指通りの良い彼の髪の色と、エルザの毛の色が同じだという事や、良くある犬は飼い主に似るというだけでは無く、元々彼が犬に似ているのだ。
 レモンを入れた紅茶の様な、薄く明るい何よりも気持ちを語る赤みを帯びた金茶色の瞳も、悲しみや喜びを素直に、表情に留まらず身体中で表現するのもまた。
「もうちょっと優しく起こしてくれたって……これじゃあオレ、いつか額が割れちゃう……」
「じゃあそのデコがぱっくり割れるか凹む前に、一度呼びかけられたら起きるようにするんだな」
「ひ、酷い……」
 今だって、グスン、と言わんばかりに痛みと悲しみを身体中で表現している。
 それが大げさでも、そして芝居がかっても見えないのが彼の……まぁ、ある意味の美点なのだろう。
「ほらさっさと着替えて。飯食べて」
 アイロンがしっかりと掛かった白いシャツを差し出しながら、ワゴンを指す。
 彼の父親であり、ここの屋敷の主でもある旦那様は、貴族の血筋を引いていながら、大きな貿易会社も営んでいるとても有能な方だ。
 それゆえに忙しい日々が続き、息子であるジルと過ごす時間が余り無い事を気にして、せめて朝食だけは一緒にと、どれだけ忙しくても時間を作っていたのだが、あいにくここ最近はそれに輪をかけて忙しい様子で、今朝もまだ日が昇り切っていない時間にお出かけになられてしまった。
 その寝起きの良さを受け継いでくれれば少しは助かるのに、と、ジルを横目に見ながら小さくため息を吐いた。
「あーあー。寝相良い癖に、何でこんな後ろぐしゃぐしゃなんだよ……」
 もぞもぞと寝間着のボタンを外し始めたジルの後ろに回ると、手に持ったブラシで髪の毛を梳く。
 縺れた髪を梳っていつもの様に綺麗にするのは結構好きだ。そういえばエルザをブラッシングしてやる時も楽しい。
 エルザはフラット・コーテッド・リトリバーという種類の犬で、艶やかな黒い毛並を持っている。
 エルザの毛並と同じくらい柔らかくて、艶やかで、少しだけウェーブが掛かっていて、エルザよりももっと指通りが良いそれを指先で楽しんだ。
「シャツこっちに置いたから。脱いだ寝間着はそこに置いて。何回も言うけど床に落とすなよ、畳むから」
 本来ならば、使用人ごときが雇い主の息子にこんな言葉使いや態度をしていたらすぐにクビだろう。
 けれど俺がこんな風にジルに接しているのは、なにも同じ年で気が合うから、なんて理由だけでは無い。

 ジルの母親の今は亡き奥様は、昔から身体が丈夫では無かったのだという。
 出産の際も色々と問題があったが、さらに母乳の出が悪かったらしい。
 そこでここの屋敷の使用人の中でちょうど同じ時期に子供を産んだ俺の母さんに白羽の矢が立ったのだ。母さんと奥様は性格が真逆だったのに何故か仲が良かったらしく、母さんも喜んでそれを引き受けた。
 つまり俺とジルは乳兄弟になるわけだ。
 血の繋がった兄弟のいない俺達は、小さい頃は本当の兄弟の様に一緒に育てられた。奥様も旦那様も俺をジルと同じように扱ってくれて、今ならそれが信じられない程恵まれていた事なのだと分かる。
 それもこれも、奥様と旦那様が常識に捉われないとても優しい人だったからだ。
 いや、恵まれているのは今でもだ。街中で流行り病が広がり、あんなに元気だった母さんが死んで一人っきりになってしまった俺に、同じ病で奥様を失ったばかりだというのに、旦那様は気を遣い優しく接してくれて、更にはこの屋敷で働けば良いとまで言ってくれた。
 それだけでは無く、母さんの葬式の手配までしてくれたのだ。
 一時は養子に迎えるというのも視野に入れていたくらいで……。それは俺と周囲の人間が反対したから無くなったものの、本当になんとお礼を言って恩を返せば良いのか分からない。
 一応大きくなるにつれて自分の身の程を理解出来る様になり、使用人として一線を引く様になったものの……それでもやはりジルとこうやって二人っきりになると昔の様に接してしまう。
 ジルもそっちの方が良いと言ってくれたから、気軽に自分をさらけ出す事が出来る。

「さっさとしないと学校遅れるぞ、ほらタイ結んでやるからこっち向け」
「カラエって……」
 大分目が覚めたのか、ぱちぱちと瞳を瞬かせながらジルは笑った。
 日の光に照らされて瞳の金味が強くなり、まるで蜜の様に輝く。
 精悍さのある整った顔立ちに、それはとても似合っていて、思わず見惚れた。
 そして見惚れた自分に気付いて恥ずかしくなると同時に、妬ましさとも僻みとも言えないもやもやとした気持ちが胸に満ちる。

 背が高く、顔も整っているジルは、まるで絵画から出て来たかの様に綺麗だ。いや、綺麗とは違うかもしれない。
 整っているけれど、守りたくなるような、とか、眩しいばかりの、とか表現する美しさでは無い。精悍で、でも優しげで。稚拙な言葉だけれど“格好良い”というのがしっくりくる。あ、“凛々しい”というのもあった。
 まぁ、それは口を開けば、ガラッと印象が変わってしまうのだけれど。
 まるで構われたがりの犬の様な性格はおいといて、とりあえず見た目だ。
 どこにも難点を見つけられない様なジルの容姿は見惚れると同時に、自分のみすぼらしさをひしひしと感じさせるのだ。
 少なからず自分の見た目にコンプレックスを抱いている俺は、その度に自分の容姿を振り返ってしまう。
 顔立ちは言わずもがな、茶色というには赤味が強すぎる赤毛の髪は、どれだけ梳いてもジルの様に手触りは良くならない。
 髪の色が強いのだからせめて瞳はハシバミ色とか落ち着いた色だったら良かったのに、鮮やかすぎる緑色で、なおさら対比で髪の赤が目立ってしまう。
 同じ年だというのに俺の成長期はやけに控えめで、背の高さも身体の厚みもジルと全然違った。
 そして一番のコンプレックスは、なんと言っても鼻を横切って頬に広がる雀斑だ。

 指でそっと頬に触り、こっそりと溜息を吐いた。
 日に少し焼けるだけですぐに色濃くなってしまうこれは、整っている訳でも無い顔立ちを更に見栄え悪くする。
 自分の顔についてぐだぐだ言うのは女々しいかもしれないが、それでもコンプレックスな物はコンプレックスなのだ。
 そんな事を考えていて上の空だった意識を、ジルの声が引き戻す。
「カラエって、お母さんみたいだよね」
「はぁ?そんな訳ないだろ、奥様はおしとやかで品が良くて……」
「違う違う、俺の母さんじゃなくて、世間一般の“お母さん”ってイメージだよねってこと」
 朝、怒りながら起こして、急かしながら身支度させて、色々と世話を焼いてくれるし。と指を折りながら笑顔で喋っているジルの額を指で弾いた。
「いたっ」
「一体どこでそういうのを知ったんだよ、馬鹿なこと言ってないでさっさと着替えろって。そもそもお前が、さっさと起きて、さっさと用意してくれれば、俺はうるさくしなくて済むの」
 そう言いながらタイを結んでやり、着替え終わったその背中を押す。

 ジルが行っている学校は八年制で、この国で一番の機関が備わった学校だ。
 一流の教育だけでなく教養も身に付けさせられるそこは、莫大な学費が掛かるために通うのは貴族や上流階級の息子、娘が多い。
 制服指定は無いが、そういう出身の人間が集まる場所だからおのずと着る服は決まって来る。
 たかが使用人されど使用人。使用人の質がその家の質を表すと言っても過言ではないため、俺が身に着けている使用人用の服もデザインも質も良い物だ。
 背中を押されながらどこか楽しそうに笑うジルを席に着かせ、テキパキと朝食を前に並べる。
 銀のポットから陶磁器のポットにお湯を注ぎ、蒸らしてカップに紅茶を注ぐ。
 ふわりと紅茶の良い香りが鼻を擽ると、ああ朝なのだなと実感する。
「ありがと」
「急いで食べる必要は無いけど、ゆっくりしてる暇もないからな」
「うん」
 長く、けれど節のある男らしい指がカップを持ち上げる。
 その姿は本当に上品で様になっていて、大人になってもこんな風に紅茶を飲んでいるのだろうと容易に想像が出来た。
「今日は講義が少ないから、早く帰ってくるよ。多分お昼を少し過ぎたくらいかな」
「じゃあお昼ご飯は帰って来てから?」
「うん。サンドウィッチとカラエの淹れた紅茶が飲みたい。あ、薔薇ジャム入りが良いな」
「分かった、用意しておく」
 楽しみだ、と嬉しそうなジルの笑顔を受けて思わず目を逸らす。

 いつもそうだ。ジルの嬉しそうな笑顔を見る度に、嬉しく思うと同時に気恥ずかしくなってしまう。
『主のお役に立てる事、それが私達使用人の使命であり何よりも喜びなのです』
 亜麻色の髪をきつく結い上げ、神経質な声音でそう言ったメイド長の顔がふっと脳裏に浮かぶ。
 少しは使用人の心構えというのが身についてきたのだろうか、と食器を片付けながら思う。
 使用人の中で自分は一番年下だ。
 一番近い歳の人だと庭師のナタリーだが、彼でも五つ年上だ。
 一番年下で、一番下っ端で……そして一番出来が悪い。
 口に出されて出来が悪いと言われた事は無いが、使用人たちの中で一番メイド長に叱られる回数が多い。
 そして自分でも自覚している。

 使用人というのは何でもかんでも一括りに「使用人」というわけではない。
上級使用人アッパー・サーヴァント下級使用人ロワー・サーヴァントがあり、その中にランド・スチュワート、バトラー、メイド、ハウスキーパー、シェフ、ヴァレット、フットマン、グルーム、その他諸々……。
 メイドといったが、メイドですら何種類にも分かれている。
 すべての屋敷にそれら全員がそろっている事は少ないが、どれもがその道のプロフェッショナルで己の仕事に誇りを持っている。
 この屋敷に雇われている使用人は、他と比べるとずっと少ないため、職を兼任している事が多いが、そのせいで質が落ちるなんて事は無いし、許されない。<使用人の質はその屋敷の質>なのだ。
 だから巷に名を馳せているオルタシア家で雇われているという事は、それだけ凄い腕を持っているという事で。
 本当に皆とても凄い人たちばかりで、いつも憧れと共に自己嫌悪に陥る。
 本来なら小姓ペイジ・ボーイくらいの立場なのに、俺がジルの、主人の息子である彼の周辺のお世話をさせてもらっているのは、一重にジルが俺じゃないと嫌だとごねたからだ。
 本来ならこんな事、ちゃんとしたメイドか、将来ジルの執事バトラーになるような人がした方が良い。
 俺が贔屓にされている事を、裏で悪く言うような人はこの屋敷にはいないが、未熟なために叱られる事は多いし、分不相応な事を自覚している。

 もっと腕を磨かないといけない。
 バトラー、なんて高い目標を今から掲げるつもりはないが、ジルの傍にいてもせめて問題がないくらいに。
 そう思いながらパシリと両頬を叩いて気合を入れた。



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