▼ 共にある光
怒声に近い掛け声や、床を擦る足や衣擦れの音が響き、そんな騒音とも言える中で精神を集中させ相手の隙を窺う。
そういった、ぴりぴりとした空気が漂う武道場が
……いくら校内で屈指の汗臭さを漂わせる場所だと言われても。雨の日に戸を開けっ放しにして欲しくない場所ナンバーワンでも。
「光ー」
「うん?」
部活が終わり、汗を首に巻いたタオルで拭き取りながら、剣道着を脱ごうと手を掛けた時に名前を呼ばれて振り返る。
「なぁ、帰りに駅前のラーメン屋でラーメン食ってかね?」
「あー……うん、今日はちょっと……」
育ち盛りの高校生に有りがちな誘いを、笑みを浮かべながら歯切れ悪く断る。今日は色々と急いでいた。何せ今日は大切な――待ちに待った日なのだから。
「何だよ付き合いワリィなぁ」
「あ、あれだろ!昨日の放課後、お前呼び出されてたもんな!えーっと相手は……山口、だったっけ?」
「え、山口って三組のあの可愛い子か?!」
「うわぁ、なんだよお前、俺達より彼女優先かよー。リア充爆ぜろ」
着々と服を着替えている後ろで、友人達が口々にブーイングを発する。それに思わず苦笑を零す。
「違うよ、俺その子の事断ったし」
「はぁ!?」
途端に周囲の友人たちは目を剥きだし、同じような反応を皆返した。その揃った反応にまた苦い笑みが零れる。
同い年の友人らは、そんな光の態度を大人びていると言う事があるが、あながち間違いではない。光の肉体の重ねた年月は、十六年と目に見える形で表している。しかし精神は幾年重ねた事か。
「ちょっと今日は早く帰りたいんだよ、ラーメンはまた今度な。じゃ!」
想いに急かされるまま制服を手荒く身につけると、友人達への挨拶もそこそこに、光は更衣室を飛び出した。
「あ、おい!」
「あー行っちまった」
「アイツ足速ぇよな」
「運動も出来て、顔も良いヤツはモテて仕方ねぇだろうなぁ。ちくしょう、羨ましい」
「そんなのが彼女作らないから女子達がまた騒ぐんだよー、くっそぉ……」
「でもホント何でアイツ彼女作んないんだろうな」
「そういう浮ついたのが嫌いとか?だってアイツ髪染めねぇし、ピアスもしねぇし……硬派!みたいな感じじゃね?」
「何だよその硬派!って。じゃあ俺らは軟派かっつの。俺らだってしてねぇじゃんか」
「夏休みとか染めたりするだろー。アイツはそういうのでもしねぇんだってば」
「……年上の彼女がいるとか?」
「何だと!?」
「いやだってさ、俺らの歳で彼女欲しくないとか無くね?でもアイツ校内の女子どころか他校の女子と付き合ってる話聞いた事無いしさ……。なら、もうそれ以上の歳の女の人がいて満足してるくらいしか思い浮かばねぇんだけど……」
「ちくしょー……!!年上で綺麗なお姉さんが、大人の世界を手取り足取り腰取り教えてあげますってか!?それならタメの女子に見向きもしねぇ訳だ、くそぉ……!!」
「羨ましい……っ!!!」
アパートの階段を駆け上がり、目的の番号の部屋の前に来ると呼び鈴を鳴らす。合鍵は持っているのだが、光はドアノブが捻られるのを待ちながらその場で足踏みをした。
――ああ早く中に入りたい、顔を見たい。
光の友人達が噂をしていたように、光が彼女を作らないのはもう既に心に決めている人がいるからだ。
噂の通り、相手は年上。ただし――。
ガチャリと音を立ててドアが開く。そこから顔を出したのは中性的な顔立ちの、男性。
――ただし相手は年上の『男性』だ。
「アキ、ただい――」
「“
「……秋邦、さん……ただいま」
「おかえり」
中性的で整った顔立ちの男性の顔を見た途端、ぱぁっと光の顔が輝いたが、男性に呼び方を注意されるとシュンと萎んでしまった。
そんな光を男性はドアを大きく開き、中へ招き入れると後ろ手に閉める。
「……はぁ、玄関の所も“外”なんだから」
「ごめん……」
溜息混じりの小言に、光は更に項垂れた。
「……良いよ。今度から気をつけて。それより風呂沸かしといた。部活で汗掻いたろ」
「あ……うん」
それだけ言って、いつものようにスタスタと足早に部屋へと戻っていく男性の背を、光は切なそうな眼差しで見つめた。
祖父の祓い損じた祟りによって、その血筋の者全員に災厄が降り掛かり、秋邦もその牙に掛かりかけた。だが死んだ祖父が、必死の想いで願った為に、地獄から先祖に当たる
総十郎という霊は祟りを滅するという役目を終えた為に、地獄の責め苦を解かれ、そして――今に、至る。
頭からシャワーを浴びながら、光は独り言ちた。
総十郎という霊が、地獄で負わされていた責め苦とは『魂を二つに別つ事』。それは生きながら肉を切り、骨を絶つよりも辛い痛みと喪失感を味わう物だったそうだ。
その責め苦を解かれた彼の魂は、既に転生していたもう片方の魂へと引き寄せられ、一つに――『
あの時の、自分の魂があるべき一つになった時の感覚は、今でも忘れられない。
祟りの所為で自分の両親は死んだ。……多分、祟りが払われなかったら、秋邦――アキの次は自分が祟りで死んでいたかもしれない。
その両親が死んでしまったという途方も無い悲しみと不安の中、ぱっと視界が明るく、鮮やかになったと思った瞬間、ぐぅっと身体が重くなった。
重くなったと言っても息苦しいとか、そんな不快な物では無い。むしろ本来の重さに戻ったというのが正しい。あれが、あの重さが魂の重さだったんだと、今では思う。
それと同時に脳内になだれ込んで来た、色々な想い。
最初に泥の様に重い苦しみ、悲しみ、罪悪感といった感情が顔面に押し付けられて息が出来なくなった。しかし、息を詰まらせ涙を零していると、それを優しく拭ってくれる手の様な温かく優しい感覚に包まれた。
脳裏で閃くシーンはブツ切れに目まぐるしく変わるが、何故かその速度に頭がついて行く。
自分の目線だというのに、自分の細い腕とは違う逞しい腕が、綺麗な顔立ちの男性を守っている。
次にはその人のどうでも良さそうな無気力な顔が、次には困った顔が、次には微妙にはにかんだ顔が。
(――あ、この人知ってる。親戚の……これからお世話になる……。)
自分の物では無い記憶。だけど自分のだと断言出来る記憶。その矛盾に戸惑いながら、なだれ込んで来た想いが終わる頃には、胸が締め付けられる様に切なくなっていた。
(――会わないと。)
この人に。
(――だって。)
約束をした。必ず会いに行くと。貴方に、必ず。
いつの約束か分からない。
親戚が集まった時は顔を合わせる程度で、挨拶以外ろくに口もきいていない筈だ。
それよりもずっと昔に交わした様な、でもつい昨日交わした様な気がする約束。
両親を亡くした悲しみを、一時期でも凌駕する程の感情は眩暈がするほど切なくて。予定を自分で早めて飛び出す勢いで、この人に、アキに、会いに来てしまった。
ドアが開いて泣き腫らした様な顔を見た途端、胸が引き絞られる程の切なさと、甘さが溢れだして来た。
何を言ったら良いのか、何を伝えたら良いのか分からない。
目が泣き腫れている事に対する、罪悪感と喜びか。
見下ろしていた目線が見上げる目線になっている、違和感と納得か。
感情の濁流が喉を塞いだが、こちらを見下ろしている自分より年上の……大人である男性の唖然とした顔を見た途端、自然と顔が綻び、伝えるべき言葉を紡いでいた。
「ただいま」、と。
そう言った途端、目の前の大人は涙を流して顔をくしゃくしゃに歪ませると自分に縋りついて来た。
その背中に手を回しながら、漸くちゃんと触れた、と、そんな事を漠然と思ったのを覚えている。
それから部屋の中に入り、温かい飲み物を二人で飲みながら沢山、それこそ1日中延々と話した。
光はどこまで覚えているの、という疑問に、前世の事は覚えていないが後悔の念だけは深く覚えている事。死後の世界がどんななのかも思い出せないが、アキに出会ってからの事はそれらに比べてずっとはっきりと覚えている事。でもそれも完ぺきでは無く、断片的な物でどういった物なのかは思い出せないという事。それでもただただ会わなければと、約束を果たさなければという想いで突き動かされた事を伝えた。
「……本当、馬鹿みたいにお人好し」
自分の話を聞いて、アキは小さく苦笑を零した。
その笑みが自分にでは無く、多分自分を通しての誰かに向けられた物だというのは、何となく分かった。
それが悲しいような、嬉しいような意味の分からない感情の矛盾に思わず押し黙る。
それから俺は、アキの口から、自分の前世の事と、その自分の前世の霊がアキを守った話を聞いた。
その話を聞き終えた時の、複雑な気持ちは何と言ったら良いのか分からない。
アキを守ったのは自分であり、自分では無い。その事が誇らしくもあり、そして自分では無い事が悔しくて堪らない。
“総十郎”という人は俺を構成する主たる物だが、“俺”自身ではないから。……だから、アキがそいつの名前を大切そうに口にするのがこそばゆく、そして酷く腹立たしかった。
「……秋邦さん」
「うん?」
「もう、どこにも行かない。僕が傍に居るから」
そう言うと、驚いた表情をした後、アキは小さな笑みを浮かべて頷いてくれた。
……あの言葉はアキに向けた物であり、そして“総十郎”という自分の前世への宣戦布告だった。
秋邦の傍にいるのは“三本光”という人間だという、宣言だった。
しかし、それからが困難の道のりだった。
共に生活をするという心躍るシチュエーションにも関わらず、全く進展しないのだ。
まるでただ身内の子供の世話をしている、されている状態で、生まれ変わって再び会い見えた二人とは全く思えない。
焦れた自分はアキの家に来てから三ヵ月後、強硬手段に出る事にした。
そう、夜這いを掛けたのだ。
布団で寝息を立てるアキの上に余り体重を掛けない様に跨り、その唇にそっと自らの唇を重ねる。
脳裏に一瞬柑橘の味が漂った気がして、その味と唇の感触に酔いながら何度も何度も啄んでいると、自分の下にある身体が身動ぎし、その瞼が震えながら開いた。
……開いた途端それは驚愕で見開かれ、俺は思い切り突き飛ばされていた。
一体どういう事なのかと状況が掴めず、背中を打つ鈍い痛みに困惑が隠せない俺は、アキの顔を見て更にそれを深めた。
己の唇を震える手で覆うアキは、まるでなんてことをしてしまったのかとでもいう様な表情をしていたのだ。
アキはそのまま視線をこちらに向け、はっとした表情をするとその震える手で前髪を掻き上げながら「話を……しよう、か」とか細い声で言った。