Novel | ナノ


▼ 3

 あれから、武士に気分を損ねてしまったら申し訳なかった、と謝られたが、恥ずかしかっただけだと言えずに有耶無耶になってしまった。
 今日はそのお詫びも兼ねて……と言っても、そういう意味合いを込めていると伝えてはいないのだけど、お詫びも兼ねて、武士の食器を大学の講義帰りに買いに来ている。
 一緒に食べようとしても、茶碗とか味噌汁椀とか、自分の分しかなかったなと気づいたから。
「どれが良い?」
『どれと申されても……』
 困った様に笑う武士を早く選べと突けば、仕方なしに、ではそこの黒塗りのを、と指さした箸をカゴにいれた。
「後は……」
『秋邦殿。もう良いでござるよ、拙者の為にそこまでのお気遣いは無用――』
「酒」
『はっ?』
 いらないいらないとばかり繰り返すのが何だか腹立たしくて、少し睨み付けながら、お酒が置いてあるコーナーを指さす。
「お酒、付き合うって言っただろ」




 昨日ほどではないけど、重くなった買い物袋を下げて家までの道を歩く。
 隣を浮きながらついてくる武士と、小声で話をしながら歩を進めていると、突然腕を引かれた。それを掴んでいるのは武士の大きな手だと気づくと同時に、くるりと体を反転させられて武士の肩に顔を押し付けられる。
 こんなことをされる理由に思い当たるのは一つしかない。
「……またな、わけ」
 震えかける声に、武士はにっこりと笑みを向けてきた。その笑みの奥に、あの時の鋭い空気の片鱗を感じる。
『大丈夫でござる。……しかし余り気味の良い眺めではござらぬ故、暫しこのままで』
 安心させる様に柔らかい声音で紡がれた言葉を聞きながら、後頭部に手の平を置かれるのを感じた。
 その手はすぐに離れ、着物に包まれた逞しい肩に目を塞がれて辺りが見えない中、カチャッという音と同時にあの時の鋭い空気が広がった。
 武士の右腕が動いたと思えば空気が素早く動く。瞬間、耳にするだけでもおぞましい呻きと共に、右頬にべちゃりと何かが付着するのが分かった。
 生暖かいそれにひっ、と息を呑む。
(これ何、見たくない。気持ち悪い)
 本能が警鐘を鳴らし、嫌悪感が溢れて叫びそうになるのを奥歯を噛みしめ、耐えていると、武士が頬に手を当てて顔を上げさせ、親指で拭い取ってくれた。
 指にこびり付いている黒い物を認識するよりも先に、それはあっという間に霧散してしまう。
『怖い思いを致しましたな、さぁ帰りましょう』
 何事も無かったかのようににっこりと笑う武士に安心して、涙が出て来そうになった。
 さぁさぁと背中を押す武士の手を掴むと、口を開いてぼそりと言葉を吐きだす。
「何て、呼んで良い」
『なに、とは?』
「……名前。俺、なんて呼んだら良いか分かんないから、さ」
 柏木なんたらかんたらなんて長すぎて、でも柏木さんとかいうのも何か変な気がして、まぁ良いかと思っていた。どうでも良い、って思っていたのに。
「その、長いから」
 慌てて言い訳をするとふっと武士は微笑んで、『では、総十郎そうじゅうろうとお呼び下され』と言った。




 部屋に戻ると総十郎がご飯を作ってくれて、二人同じ食卓を囲んでご飯を食べる。
 遠い所にある訳でもないが、実家にも最近帰っていないし、半年くらい恋人を作っていない。誰かと部屋で食事を一緒にするのは久しぶりだな、と思いながら時折ちらりと総十郎を見た。

 ご飯を食べたら風呂、の流れなので風呂から上がると、珍しく総十郎が風呂を貸して欲しいと言って来た。
『いやはや、先日久しぶりに己の顔を見れば、無精な態でござった故。生前剃り忘れたのでござろうなぁ……。秋邦殿、剃刀はお持ちでござらんかな』
 それはつまり、髭を剃らずに死んだということなのだろうか。そんな不躾な事を考えながら剃刀を手渡した。


「……誰」
『はっ?』
 風呂から出て来た人を見て開口一番そう言ってしまった。だって、余りにも。
「若くなった……」
 無精髭が無くなっただけで、こんなにも若くなるんだろうか。正直剃る前より五歳くらいは若く見える。
「え、総十郎って何歳なの」
『現の世から去って何年かは覚えてござらんが、この姿は死に際の姿と変わらぬ故、二十八――……』
「二十八!?」
 大声を上げるが、髭を剃る前は三十半ばだと思っていたけど、確かにこう見てみると28に見えなくもない。
「そっか……二十八……」
 二十八で一生を閉じるなんて思い残した事も沢山あるだろう。
 自分なら後七年で死ぬわけだ。長生きをしたいという願望は特別強くはないが、後七年はいくら何でも早すぎる。
 自然に眉間に皺が寄るのを、総十郎の指が伸びて擦った。
『そんな顔をしてくださるな。拙者に悔いはござらんかった』
 それより、と空気を変える様に朗らかな笑みを浮かべられる。
『今から一献、どうですかな』

 俺は酎ハイを缶で。総十郎は日本酒を飲んでいる。
 くっとお猪口を煽る姿は様になって男らしさを表しているようで、隣で甘い酎ハイをちびちび飲んでいるのが何だか惨めに思えてきた。
 でも焼酎、日本酒はたまにしか飲まないし、ビールは口に会わない。そして今日は特に甘目の物が飲みたい気分だったのだ。
「総十郎ってモテそうだよね」
『はっ?いやそれほどでも……』
 急に振られた話に目を瞬かせた後、驚いたように否定する総十郎。
 いやそんなこと無いだろう。髭を剃って男前度が上がって、人の好さそうな笑顔が常。それに優しいと来たら女の子にモテモテだぞ、普通。
「でもさ、奥さんと子供はいたんでしょ?なら十分凄いよ、俺もう最近特に一生独身かなとか思う」
 酒が入った事でいつもより回る舌で話すと、さっきと同じようにきょとんと総十郎はこっちを見た。
『……誰に奥方と子がいたと?』
「総十郎」
『いや、拙者、妻を娶った覚えはござらんが……』
「はい?」
 え?だって……あれ?いや確かに総十郎の口からそんなことを訊いた覚えはない。でも、奥さんと子供がいないと――。
「だって総十郎、俺のご先祖、サマだよね?」
『……あ』


『一体いつ……!いやそれより、誰との……っ』
 自分に子供がいたと今更気づいた総十郎は隣でさっきから頭を抱えていた。
 それを見ながらちびちびと缶に口を付ける。
「へぇ、総十郎、女遊び激しかったんだー」
『いやそうではっ!ただその場の流れで遊郭に二度、三度……っ』
「で、それで出来ちゃって、それを今まで知らなかったんだ」
『〜〜っ!』
 再び総十郎は悶える。
 子供を孕ませたことに気付かなかっただけでなく、女手一つで育て上げさせたことを後悔しているようだ。
『なんたる不覚。ああ悔やんでも悔やみきれぬ……っ』
「……好きだった人とかじゃないの」
『……酷い物言いになり申すが、心から好いた女子はおりませなんだ。ああ、何という……っ』
「ふぅん」
 好きな人はいなかったのか……と思って、何だかすっとした気持ちになった。
(――ん?)
 何ですっとした気持ちになってるんだろう。総十郎が誰を好きで、誰と結婚したとか別にどうでも良いはずなのに。
「……でもさ、じゃあ何で俺を助けてくれてたの」
 最初、俺は子孫だからとか、もしかしたら自分の子供に似てるんじゃないのかなとか思っていた。でもこの調子じゃ自分の子を重ねていなかったどころか、俺が子孫とか思って無かったに違いない。
 なら、どうして。

『人の命を助けるのに理由はいらぬでござろう?』
 穏やかな笑みを向けてきっぱりと総十郎は言った。
『もう少し早ければ……。従姉夫婦殿も、秋邦殿の母上様も、姉上様も、その上に降りかかる祟りを打ち払って差し上げたかった』
 本当に悔しそうに手の平を握る総十郎の顔は歪んでいて。
「……どうして」
 本当に皆を救いたかったんだな、というのが伝わってきて。
「……どうして、地獄に堕ちたの」
 どうしてこんなに優しい人が地獄なんかに堕ちてしまったのだろうと、本気で思った。
 地獄、という言葉を聞いて総十郎の表情が強張る。が、一つ息を吐いて目元を緩ませた。
『……お話しせねばなりませぬな。秋邦殿も、得体のしれない者を傍に置くのは辛いでござろう』
 秋邦殿は死後の世界は信じておられますかな、と総十郎は口を開いた。

『死ねば魂はこの世を離れ、そして違う世界へと行く。そこを極楽と呼ぶか、天国と呼ぶかは人の勝手。極楽へは行った事がござらんので何とも申せませぬが、普通の魂はそこへ赴き、少しばかり休むとまたこの現世に戻ってくるのでござる。それが再び人であるかは己の意思で決められぬと聞き申した』
「聞いたって……誰に」
 自分の知らない、でも確実にあるのであろう世界の話に唾を静かに飲み下す。
『……さぁ、あれを何と言っていいのやら分かりませぬが。……多分、仏、というものでござろう』
 地獄は閻魔がいて、鬼がいて、血の池やら針の山やらがあるおどろおどろしい場所では無いと総十郎は言った。
『何にも無いのでござるよ』
「何も、無い……」
『左様。ただの闇。上も下も、自分が浮いているのかはたまた沈んでいるのか、立っているのかも分からぬただの場所……』
 そこに振り分けられる前に、声を聴いたのだと言う。
『姿を見る事は叶いませなんだが、ただ只管静かで怒りも無い声で、お前は罪を犯した者だな。とだけ言うと、拙者を地獄へと送り、一つだけ責苦を負わせ申した』
「責め苦」
『血の池に溺れる事よりも、針の山を裸足で歩くよりも辛い――拙者は魂を、半分に裂かれたのでござる』
 総十郎は静かな目でお猪口に入った酒を見つめる。
『身体でもなく、心でもなく、もっと深い所でずっと血を垂れ流し続けているのでござるよ。
痛く、辛く、何よりも半分欠けてしまっているこの空虚さが拙者を押し潰す……』
 でもそれよりも。血の池に溺れ、針の山を歩くよりも辛いこの責め苦よりももっと辛いのは、と総十郎は顔を覆って呻いた。

『この手で人を……生まれても無い子供の命さえも奪った事の後悔でござる……っ』


「それ、って……」
 茫然と呟く。目の前の男がそんな事をするようには思えなかった。でも、彼自身から言っている。
『世は乱世――。切らねば切られるという場に出会う事はあり申した。命に尊い、尊くないの差はござらぬ。どれも等しく尊い。しかし、武士として剣を持った以上、いつどこで死んでも良い覚悟を持っております。故に切る事に躊躇いはござらん。……しかし、ある日、拙者が切ろうとした相手の想い人でござろう。太刀の前に庇う様に飛び出し、拙者はその者諸共切り殺してしまった……。――……その女子の腹は膨れており申した……』
 低く低く総十郎は呻く。
『命の差などござらん……!しかし、拙者は命を与えられたにも関わらず、その足で地を踏む前の赤子を摘み取ってしまった……っ』
 そう思った瞬間に、今まで奪って来た数の命だけでなく、その者を愛し、守ろうと思って来た者達の心も切って殺してきたのだと気づいた。
 この世を変えたいと願い、振るった刃で泣く者は何人に上るのだろうか。
 血に濡れた手で何を変えられると言うのだろうか。
 そんな考えに囚われて数日、自分は切り殺された。

『魂を二つに裂かれた苦しみよりも、あの何も無い空間で後悔に暮れる事が辛かった……っ。そんな中、仏が再び拙者に言葉をかけたのでござる。――お前の子孫が苦しんでいる。現へと赴き、その命を助けよ。助けた暁には魂を一つにもどしてやろう、と……。魂など元に戻らなくとも良かった。ただ、奪って来た人の命に報いたい、そう思ったのでござる』
 人の命など数えられない。一人殺せばその者が育むはずだった命も消す。
 そんな足し算引き算などとうに出来なくなっていた。だからこそ、一人でも良い。己の子孫で無くても良い。ただ、助けたかった。
 そう言ながら俯く総十郎は泣いているのだろうか。そう思った瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。
 総十郎の頬を思い切り挟んで顔を上げさせると、苦渋に歪むその頬に流れる一筋を唇ですくい上げる。そしてそれを、持ち主に返す様に唇を重ねた。



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