Novel | ナノ


▼ 3

 彼を初めて知ったのは、隣町の図書館に本を返しに行こうとした電車で。混んでいる中、彼は他の人よりも頭が半分ほど高かった。ただそれだけだったら、別に記憶に残らなかっただろう。

 既に読み終わった本に時間潰しで目を落していたら、彼が視界の隅で動いて意識がそちらに向いた。背が高いのと、茶色と言うには少し明るすぎる色合いの髪のせいで、ちょっとした動きが他の人よりも目立ったのだ。
 なんだろう、と目を上げると、少し困った顔をしてどこかを見ている。その目線を辿ると、中年のサラリーマンの男性が立っていた。彼はちょっと考える素振りを見せ、ちょっと苦笑いを零した後、その男性の肩をとんとんと叩いた。
 男性が振り向くと、こっそり耳打ちをする。途端に男性は慌ててごそごそとすると、真っ赤になって彼に頭を下げた。……どうやら社会の窓が開いていたみたいだ。
 礼を言う男性に、にっこりと笑みを返す彼に目が釘付けになった。
 なんて暖かく笑うのだろうか。微笑まれたサラリーマンが、ちょっと羨ましく思えたくらいだ。
 それからというもの、図書館で本を返す時には、その時間帯を狙って電車に乗った。
 もう一度あの笑顔が見れたらと思って。

 自分は感情が表情に出ない質らしく、初対面の人に何度も「無表情だね」と言われてきた。おかげで友人を作るのも一苦労で、そんな自分にとって、ころころと表情が変わる彼は羨望の対象だった。
 何度か彼と同じ電車に乗るにつれて、彼が見た目に違わぬお人好しだという事も分かった。
 老人・女性・子供に席を譲るのは頻繁。網棚に、大きな荷物を乗せるのを手伝うことも有れば、痴漢を捕まえてるのも見たことがある。困ってる人を見捨てておけない気質なようだ。
 助けてもらった人が彼にお礼を言うと、彼はいつもあの笑顔で微笑んだ。
 それを見ている内に、いつしか……彼が、好きになっていた。

 自分は元々同性愛者でもなければ、同性相手にそんな感情を抱いたことも無かったから、酷く戸惑い、悩んだ。悩んで、でも図書館に行く時には、その電車に乗ってしまって。またあの笑顔を見て胸が苦しくなった。
 彼は俺のことなんか知らないし、知らせる術もない。例え仲良くなれたとしても、彼が男を好きになる可能性なんて無いに違いない。
 そんなことをいつも考えていたら胸が苦しくて。そして嫌な時には嫌なことが重なる物で、かなり重度のストーカーに狙われてしまった。
 バイト先では溜息ばかりで、でもそんな時あの彼が、彼の方から俺の所を訪ね来てくれた。

 目の前のこれは夢なのかと、目を疑った。極度の緊張で顔の筋肉はいつも以上に強張り、笑顔どころか眉さえ動かせなかった程だ。
 だから彼が俺の手を握って倒れた時は、心臓が口から飛び出しそうになった。
 俺の手とは違う、筋張って大きな手。その手に離してもらえない程の力で握られている間、俺はもうこの場で死んでもいいと思った。
 彼は目を覚ますと、俺の手について吃驚するほど語った。彼が手フェチな事にも驚いたが、そんな彼に気にいってもらえる手に産んでくれた母に、思わず感謝した。

 でも、そんな手が今は憎らしくて堪らない。
 彼が好きなのは俺の手なんだ。俺自身を好きになってなんてくれやしない。
 ストーカーの話をしてしまった時、この人がストーカーだったら良いのになんてそんな馬鹿なことを思った。
 彼がお人好しで俺の傍に居てくれているなんてこと、百も承知だ。それでも良いから、傍に居て欲しかった。一人の部屋で、物音ひとつに、もしかしてと身構えるストーカーへの恐怖も、彼が……辻さんが傍にいてくれるなら、長引いても構わないと思えた。

 ぼろぼろと涙が零れる。
 傍にいることがこんなに辛いなんて。触れられる近さにいながら触れない。その僅かな距離の途方も無い遠さを味わうくらいだったら、電車の中で時々見れるだけで良かった。
 裾で乱暴に目を擦る。ああ、八つ当たりをしてしまった。きっと辻さんは呆れているだろう。もう迎えに来てくれないかもしれない。
 そう思うと、いてもたってもいられなくなった。どんなに辛くても、やっぱり辻さんに傍にいて欲しい。矛盾している想いに自嘲を微かに零して、俺は踵を返した。




 加賀見君の背中が見えなくなってしまった角を、呆然と見つめる。
 え、絶対に怒らせたよね、俺。
 何を言ってしまったのだろうか。手フェチなんて、気持ち悪いと思われたのだろうか。あまりのショックに、とりあえず家に帰ろうと、ふらふらと歩きだした俺の前に誰かが飛び出して来た。
「……君、なに冬野クンの傍にいるんだよ」
 酔っ払いかと思った相手の、突然の言葉にびっくりして声も出ない。驚いて立ち竦む俺を他所に、相手は身体を揺らして喋りはじめた。
「冬野クンは僕の物なんだよ。毎日手紙を送って、愛を囁いて、写真を撮って、なのになのになのになのに」
 “なのに”と、壊れた様に呟く男に、ぶわりと嫌な汗が出る。
(――こいつがストーカーか)
 明らかに危ない匂いがする。下手に対処するよりも、ここは素直に警察にお世話になった方が良さそうだと、尻ポケットに入っている携帯に手を伸ばし、気付かれない様に口を開いた。
「あんた、自分のやってることわかってるのか?犯罪だぞ?」
「なのになのに――。……犯罪?犯罪なんかじゃないよ、これは愛だ」
 その言葉に思わずカッとなる。
「その愛とやらに相手がどれだけ怖い思いをしているのか、わからないのか!」
「五月蠅いな……君も同じような物じゃないか」
 身体が凍りついた。
「自分だって好きなくせに。正当な理由があるから何?僕が悪じゃなかったら君が正義?どうかな?逆だってありえたかもよ?」
「ちが…」
「違わないよ、違わない。ずるいねずるいずるいずるいずるいずるいずるい」
「ち、がう!俺は絶対怖がらせない、傷つけない……!想いを押し付けたりなんて、しない……!!」
 絶叫するようにそう言うと、ぴたりと影が黙った。
「五月蠅いなぁ、うるさい、邪魔。邪魔だよキミ」
 バイバイ。と言ってこっちに掛け出してきた影の中央に鈍く輝く光を見つけたが、身体は動いてくれなかった。
 ああ、これはもしかしたら何かの罰かもしれないな、と思ったその瞬間。

「辻さん!!!」
 大声で名前を呼ばれて、思いきり横に突き飛ばされた。
タックルを喰らわせて来た相手もろ共、もんどり打って転がる。
「邪魔なんだよっ!!」
「やめ……っ!」
 転がった俺を庇うように、逸早く身を起こした影は、襲い来る鈍色の一閃を避けるために手を突き出した。一閃がその手の平を裂く。

 それを見た瞬間、頭の奥が焼け爛れるように熱くなった。
 足を跳ね上げ、影が握っていたナイフを弾き飛ばすと、打ちつけた身体の痛みを無視して素早く身を起こし、影に殴りかかった。
 何度も拳に硬い感触がする。歯が当たったのか、拳に裂かれる痛みが走ったが、それを無視して何度も叩き付けた。
「やめて辻さん、止めてください!」
 後ろから羽交い締めされて、影から引き離される。それでも殴ろうと腕を振りかぶった。
「警察に、警察に連絡しましたから!これ以上やったら、正当防衛の域を超えちゃいますよ!!」
 声の必死な響きに殴る事を止める。だらりと腕を垂らし、血に塗れる拳で、同じように血に塗れる加賀見君の手を握った。
「ごめ……ん」
 守ると言ったのに、傷つけてしまった。約束を守れなかった。
「ごめん……ッ!」
 懺悔するように手を握った拳を額に当てて、身体を震わせて咽び泣く。
 遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。




 病院に直行し、警察に事情聴取をされた後、加賀見君をアパートまで送る。車で来た訳ではないし、タクシーを拾うには、病院は少し近かった。手以外には怪我をしていないからと、とぼとぼと二人で並んで歩く。
 俺は消毒位で済んだけれど、加賀見君は縫ったようだ。左手に巻かれた白い包帯が痛々しい。
 さっきから心の中は、加賀見君を守れなかった後悔と、ストーカーへの怒り、そして加賀見君と一緒にいることが出来なくなる悲しみ、そこに悲しみを感じる自分への自己嫌悪。それが吹き荒れる心中は、言葉に出来ない程どろどろとしていて、ただ黙々と歩く事しかできなかった。そんな俺の右手がゆっくりと持ちあげられて、思わず隣を向く。
「かが……」
「忙しい中迎えに来てくれて……怪我するまで殴って……喋った事も無い俺の為に、本当に……ありがとうございました」
 医療用の絆創膏の上を、労わるように優しく一度撫でられて、お礼を言われ、本当にこれで終わってしまうと胸が締めつけられた。
(――終わっちゃうって何だよ。これからも会えば良いじゃないか)
 でもこの恋心を抱いたまま、俺は彼と友情を築けるだろうか。それはあのストーカーと同じではないだろうか。
 ……それでも一緒に居たい。この想いを表に出せないまま、押しこんで苦しい想いをするとしても、俺は加賀見君の傍にいたかった。
「加賀見君、これからも……その、会っても良いかな?」
 加賀見君の目を真っ直ぐに見れずに、目を泳がす。だから、加賀見君がどんな表情をしているのは分からなかった。
「いやっ、時々、友達として晩御飯食べに行ったりとかして、って思ったんだけど……!」

「嫌です」

 冷たい声音で紡がれた拒絶の言葉に心が軋む音をたてた。
「え、あ。ご、ごめ」
「俺は、もう……嫌です」
 俺が迎えに来るのがそんなに嫌だったのか、とショックを受けながら加賀見君の顔を見て、仰天した。
 加賀見君が泣いている。悲しそうな表情ではあるけれど、俺が泣く時のように顔を歪めて泣くのではなく、ただ両目から涙が溢れて、ほろほろと頬を伝っていく。
「もう、俺はっ、貴方に好きになってもらえないのに、貴方に傍に居られる事が耐えられません……っ」
「……え?」
 両手で顔を覆って加賀見君が呻く。手の隙間から見える顔が、漸くくしゃりと歪んだ。
「俺の手が好きなのは嬉しいけど、それは手が好きなだけで、俺が好きな訳じゃない。あの時怒ったのも手を傷つけられたからだ」
 押し殺す様な苦しげな叫びを上げると、加賀見君は怪我した方の手を握りしめた。
「加賀見君!そんな握りしめたら傷が……!」
「こんな手、俺はいらない!」
「加賀見君!!」
 慌ててその手を掴んで、指を緩めようと、自分の指を差し入れる。万力の様にぎりぎりと締められる指は痛くて、でも薄らと包帯に滲む赤に、俺は思わず口走っていた。
「俺は加賀見君であろうと、加賀見君を傷つけるのは許さない」
 ふっと指の力が緩んだ隙を逃さず、指を一本一本丁寧に広げながら想いを吐きだす。
「俺は確かに加賀見君の手が好きだけど、加賀見君はそれ以上に好きだよ。むしろ手で良かった。命に係わる場所じゃなくて本当に良かった……。例え怪我をしたのが手じゃなくて脚でも、俺はアイツを殴ってたよ。当たり前じゃないか」
 五指を全て広げて、さっきされた様に包帯の上からそっと傷を撫でる。
「俺は、加賀見君の事が好きだから……」

 静まり返った夜道にはっとする。
 な、ななな何言った、俺!?いやいやあれ?でもなんか加賀見君も、話の途中くらいで何か俺のこと好きみたいなこと言ってくれてた!?あれ?いや、ん?!
 物凄く不味いことを言ってしまったと我に返り、ぶわっと背中に汗が吹き出す。
 ふと、加賀見君の手が小さく震えていることに気付き、慌てて顔に目を向けた。
「か、……ッ!」
 彼は暗い中でも分かるくらい赤面していた。それが感染するように、俺の顔も赤くなっていくのが分かる。
 手を握り合ったまま暫く無言でいると、加賀見君から手を解いて歩きはじめた。言葉を掛けることが出来ずに、一緒に並んで歩く。なんとも言えない空気が、間に流れる。
「……辻さん、の好きって、その……」
「か、加賀見君の好きと同じ、かな……」
「……お、俺は……恋愛感情ですよ……?良いんですか……?」
「うん……」
 横目でちらりと加賀見君の表情を窺うと、耳の端まで真っ赤に染めて「そう、ですか……」と恥ずかしそうに。それでいてどこか嬉しそうに小さく口を引き締めていた。
 きっとまだ、それがどういうことなのか、脳にちゃんと伝わっていないんじゃないだろうか。俺も未だ実感が湧かない。でもそれがとても愛おしくて。
「加賀見君」
「……はい」
「手……繋いでも良い?」
 差し出した手を加賀見君は見つめて、自分の手にを目を向けて。

「……嫌です」
「ええ!?」
 まさか断られるとは思わなかったから驚く。
「でも、」
 びっくりした拍子にだらりと下ろされた手の小指に、するりと加賀見君の小指が絡んだ。
「……これなら」

 それはなんだか、あやふやな形で始まった俺達の関係に似ていて。
 指きりの形になっているのはまるでこれからの未来を約束しているようで。

 俺はその小指に力を込めて、握り返した。いつかしっかりと繋ぐことが出来る日が来ることを願いながら。





- 終 - 
あとがき

2011.02.17



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