Novel | ナノ


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 風邪は加賀見君に言われた通り、食べて薬飲んで寝たら、あんなに具合が悪かったというのに一晩寝ただけであっという間に治った。
 次の日の夜、さっそく彼を迎えに行こうと上着を羽織り、アパートを出る。

 二十時ちょっと前に薬局の横に立って待つ。
 あー、なんか緊張するなぁ……と思ってポケットの中に手を突っ込んでいると。
「……本当に来てくれたんですか」
 抑揚のない声が後ろで囁かれる。
 驚きで少し肩を揺らして振り向くと、言わずともがな無表情の加賀見君が立っていた。彼の表情からは迷惑だとか、ありがたいだとかいう感情は全く読めない。
「うん、来たよ。バイトお疲れ様〜」
「……ありがとうございます」
 ペコリと小さく頭を下げた加賀見君が静かに一歩踏み出し、夜道を一緒に歩き出す。こうやって他人と二人きりで夜道を歩くのは久しぶりな気がする。

「やっぱり暗いね」
「……そうですね」
「加賀見君、家はここから近い?」
「そうですね。歩いて十五分掛るか、掛らないかです」
「自転車とか使わないの?」
「……徒歩は危ないかと思ったので、一度自転車にしたことはあるんですけど……。盗られました」
「盗られたぁ!?」
 素っ頓狂な声を上げて加賀見君に顔を向ける。加賀見君の眉間には少しだけ皺が寄っているが、それが自転車を取られた不快さからか、俺の大声に対する不快さから来ているかはわからない。
「……多分ストーカーの方かと」
「えー……。いや、女の子がそこまでするかなぁ……」
「ストーカーは男性ですよ」
「はい!?」
 目を見開くと、加賀見君は目を伏せた。それは表情の分かりにくい彼にしてみれば、『恥ずかしい』『情けない』という表情のように見える。
「……執拗に送られてくる手紙の内容から、男性だとわかりました」
 俺ほどではないけど、加賀見君もそこそこ身長は高い気がする。俺は一八〇後半だから…少なくとも一七五ちょいくらいはあるんじゃないだろうか。それに、いくらなんでも加賀見君が綺麗な顔立ちをしていると言っても、女の子の美人とはまた違う。
 大人の男性としての美人だ。だからいくらなんでも、女性として間違う事はないだろう。
「男って承知の上でのストーカーか……」
 てっきり女の人だと思っていたから、例え何かしらあったとしても俺が防げると思った。良く考えてみれば女性だと分かっていたら加賀見君も男なわけだし、加賀見君自身、自分で対処出来ると判断しただろう。
 つまり加賀見君はまだ出会って間もない俺に頼るくらい、怖い思いをしていたんじゃないか……?
 思っていた以上に危ないかもしれない、と急に気が引き締まる。

「加賀見君、今、携帯持ってる?」
「え?はい」
「交換しようか。メアドと電話番号」
 突然言い出した俺に不思議そうな目が向けられた。その目を真っ直ぐ見る。
「何かあったらすぐに連絡して。時間とか気にしなくて良いから」
「は、い……」
 ちょっと目を見開いた後、加賀見君は目を下に向けて上着のポケットから携帯を取り出した。白い指と、黒の携帯のボディーのコントラストが手の綺麗さを引き立てる……じゃなくって。
 涎が出そうなくらい綺麗な手から、べりべりと視線を剥がすと、赤外線でオーナー情報を交換した。
「本当、全然気にしないで。俺、いつでも行くからさ。近くに友達とか住んでる?同性のストーカー被害とか、身近な人ほど言いにくいかもしれないけど、出来るだけ傍にいてもらった方が良いと思うんだ。あんまり酷くなるようだったら警察とかにも相談――……ああ、言いにくいかな……。せめて防犯道具持っておいた方が良いよな……」
 近くで防犯道具売ってる店って、あったたかな……と、ぶつぶつと口にした呟きが加賀見君の小さな笑い声で止まる。
「ありがとう、ございます」
 そう言いながらふっと目を細めたそれは、笑顔と呼ばれる物で。
 その笑顔は俺の心臓を一拍止め、その後に全力疾走するみたいにバクバクと高鳴らせるには、十分過ぎるものだった。




(――それだよなぁ、絶対、きっかけ……)
 少し早く来てしまったため、店内の小さな椅子に腰掛けながら、こっそり、ちらちらと加賀見君を窺う。
 あの笑顔を見てからというもの、加賀見君を見ると、どきどきする。
 もう一回あの笑顔が見たい、と思っていただけだったのが、照れた顔も見てみたい、になって、怒った顔なんかも……あ、泣き顔とかも見てみたいかも、になって、それはつまり色んな表情を見たいって事で……そこからなんか、ぎゅって抱きしめたい、になって、キスとか……してみたり……とかになって……先週には。
(――抱いてみたい、とか……なんちゃって)
 がばりと勢いよく頭を抱える。
 あまりの勢いに、近くの棚にいたおばさんが、びくりと身を竦ませた。そのおばさんに苦笑いを浮かべながら小さく会釈して、心の中で絶叫する。
(――なんちゃってじゃないよ、俺!!え、俺ってホモだったのかな!?いや、そんな事ないよね、だって彼女いたことあったし、ちゃんと致したし!?なのになんなんだ、この胸の高鳴り!いやもう高鳴るとかそんな乙女な感情だけじゃないよね俺!!)
 そうだよ、そうなんだ。先週から抱きたいとか思っちゃった俺は……。
(――……暴露しまーす。俺昨日、加賀見君で抜きましたー……)
 がんっ!!と窓ガラスに頭を打ち付ける。
 おずおずとこちらを窺いながら、店を出ようとしたおばさんが慌てて去っていったが、今度は謝るなんて心遣いは出来なかった。
(――ああもう『なんちゃってー☆』じゃ、すまされないよ俺!!そうだよ加賀見君で自慰してしまったよ!マスターベーションだよ、オナネタだよ!)
 あの綺麗な手で俺のを握らせて、その手をべたべたに汚して、それから顔に掛けて。そうしたら、彼は顔を顰めるだろう。いや、もしかしたら、泣いてしまうかもしれない。そんなことを考えて、してしまったのだ。

 手の平で口元を覆う。
 これはもう言い逃れが出来ない。今でもその想像の内容を思い出して、下肢が微かに熱を帯びてしまった。今、加賀見君の方を見れない。こんな欲に塗れた顔を見せたら、加賀見君も気付いてしまうだろう。
(――これって、加賀見君のストーカーと同じじゃないか)
 認めたくない。認めたくないが、どう違うというのだろう。
 溜息が出る。加賀見君のことを思うなら、ストーカーの件は他の人に頼んで、俺は加賀見君から離れるべきなのかもしれない。
 でも、堂々と加賀見君の傍に居られるこの状況を、俺はどうしても手放せなかった。
(――ストーカーよりやらしいな、俺)
 弱味につけ込んで、傍に居て。夜には痴態を思い浮かべて、名前を呼びながら自らを慰める。
(――ああ、もう……っ)
 自己嫌悪に塗れながらまた溜息を吐いた。




 最近また温度の下がった外に出て、二人並んで歩く。
 俺が一緒に帰ることを提案してから、一ヵ月ちょっと。
 加賀見君からは殆ど話をしないため、俺が話題を提供する形で、会話は少しだが、それでもこの期間で色々と加賀見君のことを知った。
 好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな音楽、どこの大学に行っているとか、休日の過ごし方まで。無言の時間を無くすためといえど、本当にストーカーっぽくないか?と今更気付いて、いつものように質問しそうになった口を閉じる。
「え、えっと……さ、加賀見君は、俺に聞いてみたい事とか、ある?」
「え?」
「いや、いつも俺が質問してばっかりだからなー、とか思って」
「あ……はい。……いえ」
 静かに加賀見君は呟くと目線を少し彷徨わせた後、小さな声で「忙しいんじゃないですか…?」と言った。

「……ん?何で?」
「今日、とても悶えていたので。忙しい合間にわざわざ来てくれているんじゃないかと……」
 辻さんのおかげで、ここ最近被害も治まってきたし、俺なんかにわざわざ時間を割いてくれなくても――……。と続ける言葉を、慌てて遮った。
「や、あれはっ!ちょ、ちょっとだけ違う事考えてただけで、忙しいとかそんなんじゃなくて!むしろこういう時間があった方が、ほら、気分転換にもなって色々と捗るって言うかさ!!」
 わたわたと手を振って必死で言い訳をすると、加賀見君は「そうですか……」と納得はしていなさそうだが、一応頷いてくれた。
 それを見て、ほっと肩の力を抜く。まだ、まだもう少しだけ……彼の傍にいる権利を取り上げないで欲しい。もうちょっとだけで良いんだ。もうちょっと……。
 会話が終わってしまってどうしようかと思ったら、また加賀見君が口を開いた。
「じゃあ……辻さんは」
「はいっ」
「何で手が好きなんですか?」
「……はい?」
 予想外の質問に、間抜けた声が飛び出した。
「手。好きなんですよね」
「え、あ、うん」
「何でですか」
 つまり、何故手フェチなのか、と聞いている訳か。俺は腕を組んで、ちょっと言葉を整理した。
「いや、何でって聞かれると『綺麗だから』っていうのが一番なんだけどね……理由を上げるとしたら……。そうだなぁ……ほら、手ってさ、一番使うじゃん?」
 自分の手の平を広げてみせる。骨ばって硬い手。中指の黒い点は、幼い頃に鉛筆の芯で突いてしまったもので、人指し指の爪の横にある傷は、不注意でカッターで切ってしまった傷だったりする。
「人それぞれ違って、職業によって形も変わってくる。苦労が滲む。その人が培ってきた物が顕著に表れる、その人を良く表す。……だから好き、なのかなぁ」
 十人十色という言葉が似合う、人によって温かだったり、儚げだったり、優しかったり、力強かったり。血が通った物が確かにそこにある。
「そう、ですか」
 加賀見君も俺と同じように手の平を広げ、見つめる。
「……俺の手、綺麗ですか?」
「そりゃあもう!」
 迷わず即答した。手フェチには堪りません。
「そう、ですか……」

 鼻息荒く答える俺は気付けなかった。
 さっきと同じように返事をする加賀見君が、傷ついたような表情を浮かべて、手の平を握りしめたことに。

「あ、それで――」
「辻さん」
「うん?」
「今日はここまでで良いです」
「え?」
「ありがとうございました、おやすみなさい」
 無表情にそう言って頭を下げる加賀見君を、びっくりして見つめる。
「か、加賀見君、あのさ、もしかして……怒ってる?」
「怒ってませんよ、何でですか」
「いや、なんとなくなんだけど……ごめん。俺、何か悪いこと言った――」
「言ってませんよ、別に」
 ぴしゃりと言い放った加賀見君の顔は、いつもと同じ無表情だったけど、冷たく感じた。
「やっぱり、怒って」
「怒ってません」
「で、でも危ないよ?」
「もうそこに家が見えてるから大丈夫です」
 でも、と言葉を続けようとしたが、深々と頭を下げられてそれ以上言葉が出なかった。



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