Novel | ナノ


▼ 迷い子


 鳥の囀りが響く森の奥深く。
 澄んだ水が滾々と湧き出る泉で腰辺りまで浸り、水浴びをしている青年が一人。
 どこか虎を彷彿とさせる様な、模様の刺青を施した腕と腰を惜しげもなく晒している。
 薄茶の長い後ろ髪を風がふわりと少し撫でた時、風とは別の物で茂みが大きく音を立てた。
 本来こんな森の奥深くに人間がいるだけでも不思議なのだが、そんな場所で大きな物音がするなど危険な猛獣がいる可能性が大だ。
 それに気付いていないという事は無いだろうに、青年はそちらを振り返ろうともせずに水浴びを続ける。
 ガサリと一際大きな音を立てて茂みから現れたのは――大きな白い虎。
 鋭い爪が光る大きな足で地を踏みしめながら、一歩一歩近づく虎に青年は警戒心の欠片も見せない。
 虎が地面を蹴れば跳び付ける距離に近づき、ゆらりと太い尾を揺らすと青年が振り返り。
「――オリウル」
 花が綻ぶ様な笑顔を浮かべながら、名を呼んだ。




『一人で水浴びには行くなと言っただろう』
 オリウルが溜息を吐きながらこちらを見る。
「だって凄い気持ち良さそうに寝てたから」
『起こせば良い』
 くすくすと笑えばぶすっとした表情でそう言った後、泉の縁に身体を伏せるオリウル。大きな欠伸を一つした後、髭を風に戦がせる。
『第一、ナツラが傍に居なければ気持ち良くなど無いのだから』
「……凄い惚気」
 ふんっと何故か勝ち誇った様に言うオリウルに何と返したら分からず、泉の水で顔を洗った。頬が熱いのは気のせいでは無いだろう。
 森に来てから一年が過ぎるというのに、オリウルのこの底の無い愛情にまだ慣れない。
 あれから追手なども来ず、村の人とは一切干渉をしないこの場所で、好きな相手とのんびりと過ごせるというだけでもあの頃の自分では考えられない程の幸せなのに、オリウルはことある毎に愛情を伝えてくる。
 それは言の葉に乗せて伝える事もあれば、贈り物としてだったり、些細な動作にだったり、眼差しに込めていたりと一つの息の中にさえ感じる程だ。その事に未だ、慣れない。
 水音を上げて泉から上がると、オリウルも立ち上がりすり寄って来た。
「濡れちゃうって、ちょっと待って直ぐに身体拭くから……」
『俺で拭けば良い』
 ぐるぐると喉を鳴らしてすり寄ると柔らかい毛が水分を吸い取り、背中を太い尾が擽る。
「あはは、贅沢だよ、んっ」
 笑って退かそうとして、思わず声が洩れた。
 オリウルの尾が股の間を意図を持ってするりと撫で上げたのだ。
「オリウル……」
 きっと今自分は欲に潤んだ瞳で白い虎を見つめているに違いない。
 何度肌を重ねても、好きな相手に触れられるだけで快楽に浸され続けた身体はすぐに熱を灯す。
 それを自分は浅ましいと嘆くと、オリウルは愛しいと返してくれる。こんな身体の自分を愛してくれる。
 オリウルが自分を望んでくれる事が嬉しくて仕方が無い。
 身を屈めれば瞳を細め、顔を上げて応じてくれる。大きな頭を抱き締めながら、その鼻にキスを落とした。
『しまった』
 ぐるぐると喉を鳴らしながら鼻面を押し当てていたが、一瞬沈黙したオリウルがそう呟いて尾を軽く振る。
「どうしたの?」
『花を取りに行かないといけないな……クソ、今すぐにでもお前と肌を重ねたいのに……』
 花、というのはオリウルが人の姿になる為に必要な物だ。それを食べる事でオリウルは姿を変える事が出来る。
「今手元にあっても、ここでは出来ないよ……?」
 人の目が無いとはいえ、野外で致すのはちょっと、と口籠れば悪戯っぽそうに灰色の瞳が細められた。
『今更だろう。先日、谷に掛かる虹を見に行った時や滝に遊びに行った時もした。塒も要は野外だろう?』
「なっ、あれはその……いつもと違う場所だから!家も確かに洞窟に住んでるから、野外と言えば野外だけど……ち、違うよやっぱり気持ち的に」
 言われて思い出してしまい、頬と身体が熱くなった。
 あれからオリウルの人間の姿の成長は見た目からして二十五、六歳で止まり、引き締まった美しい身体を持った精悍な青年になった。
 あの逞しい身体で抱きすくめられるのも、見惚れてしまうくらいの容貌が快楽で眉を寄せるのも、くらくらするくらい自分を酔わせる。
『……余り俺を煽るな』
「あ、煽……っ僕、何も言ってないよ!」
『お前のその恥じらう姿が俺を煽るんだ。……チッ、ずっと人間の姿でいたいが、それはそれでナツラを背に乗せられないからな。ああそこらへんに咲いている花ならば良い物を』
 悔しそうに歯噛みをするオリウルを見て、以前からずっと提案してみたかった事を言う機会ではないかとおずおずと口を開いた。
「あの、さ……オリウル、僕ね」
 しかし、その続きはオリウルの唸り声に遮られ、口にする事が出来なかった。
 一瞬自分に向けられての物かと思ったが、四肢を広げ、警戒心を剥き出して茂みを睨むオリウルに何かが近づいて来ているのだと悟る。

「……危ない動物?」
『俺の後ろに。絶対に離れるな』
 こちらの質問に答えず、短く言ったオリウルに緊張が高まる。傍にあった衣服を掴み、まだ身体が濡れたままだがズボンだけ身に着けた。
 オリウルが睨む茂みががさりと揺れ、そこから出て来た物は。
「えっ……か、可愛い!」
 まだまだ幼い容貌を残した小さな虎だった。
「か、可愛い……オリウルあれ凄く可愛い……」
 茂みからがさりと飛び出して来た、というよりも、ころりと転がり出て来た子虎はまだ育ちきっておらず、よたっよたっと歩いている。
 今すぐにでも駆け寄って抱えたい衝動に駆られるのに、オリウルがまだ警戒を解いていない。
『子供がいるという事は親が近くにいるかもしれないだろう。まだ離れるな』
 オリウルは辺りに目を走らせ、耳と鼻を動かすが、その背中をせっついて何度も可愛いと連呼する。
「うう、本当に可愛い……あっ!転んだ!ね、あの子迷子なんじゃないかな、近寄って良い?」
『……』
「ねぇ……オリウル」
『……確かに辺りに親の気配は無いが……こら待て!俺が捕まえて来るから待ってろ』
 駆け寄ろうとしたのを太い尾で制され、オリウルが前に出る。
 のそのそと子虎に近づき、無遠慮に首根っこを咥えるとこちらに戻って来た。
「っ!っ!可愛い……!!」
 子虎は咥えられて、もだもだと四肢を動かしていたが、ぶらりと垂れ下がった状態ではそれも余り効果が無い。
 オリウルが地面に伏せて放すと、子虎はごろりと一緒に横になった。
「こんな子供でも縞ははっきりしてるんだね……うわぁ可愛い」
 オリウルとは違う金の毛に走る黒い縞に目を輝かせて手を伸ばすが、ふと考えて手を引っ込めた。
「僕が触ったら人間の匂いがついちゃうかな」
 野生の動物は人間の匂いがするのを嫌がるという。特に子供から人間の匂いがすれば育児を放棄したり、下手をすれば食べてしまう親がいるという話を村にいた頃に聞いた事がある。
 自分の所為でそんな事になるなんて事は耐えられない。それならば少しくらい我慢をして――。
『いや、多分大丈夫だ』
「え、ほんと?」
『ナツラは俺の匂いが染み込んでいるからな』
 言われた事を理解した瞬間、ぼっと顔が赤くなる。そんなこちらを余所にオリウルは言葉を続けた。
『俺も厳密には虎そのものではないが、虎の腹から生まれたモノだから匂いは殆ど同じだ。人間の所に帰らず、俺と暮らし続けているナツラは正直かなり俺の匂いがするから大丈夫だろう』
「そ、そんなにするの……?」
 思わず腕の匂いを嗅いでみる。確かにオリウルの日向の様な匂いがする様な……?
『ナカにも匂い付けをしているから――』
「それはここで言わないで……っ」
 子虎には分からないだろうが、子供の前でする会話では無いと慌ててオリウルの口を手で押さえた。
 ああ、子虎の綺麗な眼差しを見る事が出来ない……。
『だが、こいつは俺と違って野生の虎だ。言葉も通じん。子供と言えど爪は鋭いし、牙も痛いぞ』
「うん。それくらいなら、別に良いよ」
『……俺は進めんがな』
 嫌そうな顔をするオリウルを余所に、顔が緩むのを抑えきれないまま、そっと虎に手を伸ばす。
 琥珀色の瞳が手を捉え、じっと見つめた後、虎特有の大きな手の平でじゃれて来た。
「あは!あ、痛た、でも可愛い」
 獲物を捕らえる本能か、手を動かす度に爪を立てられるがその痛みさえ愛おしい。
 手の平全体で腹をわしゃわしゃと撫で、指で顎の下を擽るとぐるぐると微かに喉を鳴らしてくれた。
「お前、どこから来たの。迷子?お母さんはどこにいるんだろうね……」
 返事をするなんて事は勿論考えていないが、喋りかけながらうりうりと撫で続ける。
『母親はどこかで昼寝をしているのだろう。……母無し子で無ければいいが』
「……そうだね」
『……大丈夫だ。捨てられた子ではあるまい。虎は子を大切にする獣だ』
 それを聞いて曖昧に微笑んだが、胸の中で思った言葉を口には出来なかった。
「ね、オリウルの子、とかいう可能性は無い?」
『は?』
 その言葉を吐き出してしまわない様に笑みを乗せ、オリウルを見上げる。
 目をぱちくりとさせるオリウルは余程、想定していなかった言葉を言われたのだろう。
『俺の子な訳が無いだろう』
「そう?あっ、えっと別に浮気とかそういうのを疑ってる訳じゃ無くて」
『馬鹿、分かっている。どちらにせよ俺の子では無い。まず虎と交尾をしようと思った事も無ければ、した事も無いからな。そもそも俺と虎の間には……いや、動物の間に子は生まれん』
「……え?あいたっ」
 最後の呟きの意味を聞こうとして、手に走った痛みに眉を僅かに寄せる。
 手を見れば、あの子虎が腕にしがみ付き手を甘噛みしていた。
 けれど痛みは甘噛みの方では無くて、そのためにしがみ付いている腕の方だ。
 どうやら噛むのに夢中になる余りに、爪の方の意識が抜けている様で、爪が軽く皮膚に食い込んでいる。気付かなかったが、引っ掻かれた所も所々蚯蚓腫れの様になったり、薄ら血が滲んでいるものすらあった。
 それを見た途端にオリウルが唸り声をあげ、手から虎の子を奪ってしまう。
「あっ」
『ナツラ、腹が減った。飯にしよう』
 有無を言わさない口調でそう言うオリウルが意味するのは『もう触るな』という事なのだろう。
 自分だけずるい、と不満を込めた目をオリウルに送るが、その口に咥えられた子虎を見て、その子のご飯を用意するというのは中々の役得では無いかと思い直して笑みを口の端に乗せた。
 ――そんな自分を見て、オリウルが不満そうな顔をしたのには気づかないで。




 住処にしている洞窟までそんなに離れていなかったが、子と離れた親と遭遇したりするといけないから傍にいろ、と言われて近くにある物で食事の準備をする。と言っても、泉で魚を捕まえ、生っていた木の実を獲り、火で調理するといういつもとそんなに変わらない用意だ。
 石を打ち合わせて点けた火で石を焼き、その上に大きな葉で包んだ魚と木の実を乗せる。暫くすれば蒸し上がって出来上がり、という訳だ。
 子虎には傍で簡易の罠で捕まえた野鳥を、オリウルが噛み砕いてあげている。
 オリウルと生活していく上で、こういった命を食べているという事を、ありありと見せつける様な食事の風景にはもう慣れた。
 最初は自分で獣を捌いた事はあっても、その鋭い牙に今さっきまで生きていた物が引き裂かれていく光景はやはり別で、オリウルに気を遣わせてしまっていた。
 けれど今では不快感も恐怖も無く、むしろ命に対するありがたみを感じる事が出来る様になっている。
 口の周りの毛を朱に染めながら肉の塊に喰らいつく姿は、小さくても大人の虎であるオリウルそっくりで。
 思わず微笑んでしまえば、オリウルが唸りながら自分の分の餌を咀嚼した。
 葉を広げ、火が通っているのを確認し、石から下して自分の分の食事を始める。
 いつもは木の実を磨り潰して作ったパンを使って食べるのだけど、生憎パンは無いので硬い木の実の皮を使って口に運ぶ。木の実の味が魚に移って美味しい。
『ナツラ』
 名前を呼ばれて顔を上げれば、オリウルが口を開いて待っていた。
 オリウルは虎の姿の時は、基本生肉を食べる。でも一口だけ、お前が作った物を、お前が食べている物を食べたいと言っていつもこうやって催促をするのだ。
 ふふっ、と笑って大きな口に自分の食べている一口を入れてあげれば、咀嚼し、美味いと目を細めてくれる。
 穏やかな空気に心が温かくなり、オリウルの身体に凭れた。
 柔らかく、手触りの良い毛並に顔を埋めると、昔こんな風にして涙を拭った事を思い出す。
 オリウルがいて自分はどれだけ救われたのか分からない。一体何をすればその恩を返す事が出来るのだろう……。
 考え事をしていると、ふと、ぐるぐるとも、ぐああ、とも言いようの無い鳴き声がして思わずオリウルを覗き込む。
 そこには体全体を使ってオリウルの顔に声を上げながら、じゃれ付いている虎の子がいた。
 オリウルが鬱陶しそうに噛むふりをすれば、猶更じゃれ付くのだから終わりが無い。それはまるで本当の親子のようで、見ていて和む。
「ね、オリウル」
『何だ?ああくそ、ちょっとは大人しくしろ』
 オリウルが大きな手で子虎を押さえつける。
「この子の親がもしも……万が一にも見つからなかったり、死んじゃってたりしたら……僕らで育てない?」
 その言葉に、ぎょっとオリウルがこちらを見た。
 そ、そんな何を言っているのか分からない、みたいな顔をしなくても……。
『ナツラ、こいつは俺と違って普通の虎だから喋らないのは分かってるよな?』
「う、うん。分かってるよ」
『普通の虎だから虎の時間で育つ。おまけにこいつオスだぞ』
「あ、男の子なんだ」
『……オスなんだぞ』
「う、うん……?」
 念を押す様に繰り返して言ったオリウルに首を傾げながら頷くと、不機嫌極まりないという表情をする。が、ピクリと耳を動かして目を細めた。
『……まぁ、そんな事をする必要も無さそうだ』
「え?……あ」
 茂みがガサリと大きく揺れ、そこから金の体躯の虎がのそりと出て来た。
 オリウルはそれを見て虎の子から足を退かすと、虎の子の方からその金の虎の方へ近寄り、ぐるぐると喉を鳴らして大きな足に身体を擦り付ける。
 言わずもがな、あれが彼の親なのだろう。
 わが子を迎え、目を閉じて鼻面を彼を撫でるように動かしていたが、ふと顔を上げ彼と瓜二つの琥珀の瞳でこちらを見つめてきた。
 敵意は伝わってこないが、オリウルがスッと一歩前に踏み出して身体を使って庇ってくれる。
 それをじっと見た後、金の虎は子供を口に咥えると背を向けて茂みの中に消えて行った。
 ……口に咥えられたあの虎の子が、最後こちらを見てくれていたかどうかは分からなかった。



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