私は蜘蛛だ。
糸を張り、小さな虫を。時には自分よりも一回り大きな虫捕え、体液を啜って生きる。
私は知っていた。
世界から見たら私などちっぽけで、私などよりもずっと大きな存在がいる事を。
私は知っている。
私が糸を張っているこの空間が手洗いと呼ばれる場で、そして貴方は人間だという事を。
貴方はこの空間に日に数度来る。
貴方の体の大きさから、この空間は私にとってはとても広いのだが、貴方にとっては狭いであろう事が分かった。
貴方はいつも何かをこの空間に持ち込んでいる。それは本と呼ばれる物であったり、雑誌であったり、新聞であったり。
ある時、貴方が私に気付いた。
座った状態でふと顔を上げ、ちらりと私に視線を寄こした後、すぐに雑誌に目を戻してしまった。
私は貴方の小指の爪にも満たなく、気に掛ける価値のある存在でも何でも無かった。
しかしその日から貴方はこのトイレに来るつど、私の存在を確かめるようになった。
それは変なところに私が移り、踏み潰したら後味が悪いというだけだったのかもしれなかったが、私はとても嬉しかった。貴方が私を認識してくれた事が。
あくる日、貴方がいつもの様に座ったのを見届けて、私は貴方にそっと糸を垂らした。
糸が付着したのを確かめてそろそろと近づく。
私はあの滑らかな頬に一度触れてみたかったのだ。
ところが貴方は目前でそれに気づき、目を見開くと静かな動作で持っていた本で糸を断ち切ってしまった。
糸につられて本に引き寄せられそうになるのを、慌てて足を蠢かして避けた。
貴方が私を殺すとは思わないが、捉えたらきっと外へ逃がしてしまうだろう。そうしたら私は貴方の傍にいられない。
ああ貴方の頬に触れるにはどうしたら良いだろうか。
ある日、貴方が大きな荷物を持って行くのが、少し開きっぱなしの扉から見えた。
誰かと会話している内容から、数週間程この部屋を開ける事が分かった。
貴方がいなくなった部屋で、私は初めてこの空間から出た。
貴方に触れるにはどうしたら良いだろう。
私は小さい。だから駄目なのだろうか。大きくなったら貴方は私を、私を。
私は窓の隙間から外へと出た。
長期休暇の少しの間、実家に帰っていたが戻ってきた。
久しぶりに自分の部屋の鍵を開けようとして、ふとプロペラの様な物が落ちているのに気が付いた。
見上げるとトイレの方の換気扇の羽が外れている。
まさか泥棒がと部屋を慌てて開けてみるが、そこは出かける前と別段変わらない様子だった。
金目の物だけ……という線も疑って部屋を確かめてみたが、特に何も無くなってない。
劣化か何かで落ちただけかとほっとした途端、何だかトイレに行きたくなって苦笑しながらトイレに向かう。
ドアを開けた瞬間、身体が凍りついた。
白い糸で溢れかえった狭い空間。
足元に散らばる黒い物体。
一体何かと視界に入れれば、ミイラ化した動物だった。
ネズミの様な物、ネコの様な物、イヌの様な物……人間の様な、もの。
そして何よりも存在感を放つ存在がその白い糸の中で蠢き、長い脚を伸ばして恐怖で凍りついて動けない俺の頬をそろりと撫でてきた。
――ヤット、サワレタ。
その時、何か聞こえた気がした。