良くある物語の様に、ある日突然階段から落ちたと思ったら違う国へと迷い込んでしまった。
良くある物語の様に、その国は地球上にある国では無く、地球では有り得ない事が難なく起こる色鮮やかな国だった。
良くある物語の様に、俺は神子だと言われ、神殿に祀られてしまった。
ただ、少しだけ異色であるのは、俺の向こうでの職業がヤの付く職業だったという事だろうか。
上質な布で出来た不思議な作りの服に身を包み、これまた上質なシーツが掛かっているベッドに横になる。雲で出来ているかの様な柔らかいそれは大の大人の男の身体を受け止め、沈み込む。
すぐそばの金の器に盛られている果物に手を伸ばし、薄い果皮ごと歯を立てると瑞々しい果汁が溢れ出た。耳を擽る微かな澄んだ音は、この神殿の中心にある池に水が湧き出る音だろう。
身に合わない服、身に合わない寝床、身に合わない食べ物、身に合わない待遇。どれもこれも上質で、分不相応なそれらは、ただ煩わしかった。
階段から落ちた、はずなのに、着地地点は硬い床などでは無く、冷たい水の中で。驚いて慌てて飛沫を上げながら体を起こせば、ぽかんと目を見開いた数人の人間が何やら喚いて俺を指さしていたのを覚えている。
物凄い勢いで駆け寄って来たそいつらは、俺の左手の甲に刻まれた記憶に無い六片の花の刺青を見た瞬間、目に涙を浮かべて厳かにその場に跪いた。
刺青だと思ったそれは何でもこの国の神子の印らしく、ここ数年神子が不在でこの国は困っていたらしい。が、そんな事は俺には関係無かった。傅かれる事も、敬われる事も、煩わしい。元の世界に戻りたかったし、それが無理でも神子なんてやるつもりは無かった。
それなのに神子を続けている。その理由は。
「あ、あの……レージ、様」
おどおどと名前を呼ばれ、そちらに顔を向ける。
そこに佇んでいたのは、褐色の肌に銀の髪の少年。が、普通の少年では無い事は腰の少し下から飛び出ている太い蛇の様な尾から分かるだろう。褐色の肌の上で時折光をはじく物は、一見白い花びらかの様にも見えるが、よく見れば鱗だ。琥珀色の瞳も、瞳孔の形が人間とは違う。
「様は付けなくて良いと言っただろう」
「で、も」
「ネロ」
「……れ、レー、ジ」
琥珀色の瞳を困った様に揺らす少年は、この神殿を守る龍だ。正しくは、神子を守り、そして神子の――半身だ。
本来ならば先代の神子が亡くなるのと同時に、その半身である龍も死ぬ。そして入れ替わるように新しく神子となる者が生まれ、時を同じくして龍も生まれる。
が、今回はそれにズレが生じてしまったのだそうだ。
神子と共に龍が死んでも孵化をしない卵。国中を探し回っても見つけ出せない新しい神子。そうしている内に卵だけが孵り、物心付く頃からネロは神子の半身としてレッテルを貼られ肩身の狭い思いをして来た。
だからか分からないが、ネロが俺を初めて見た時、誰よりも信じられない物を見たかの様に目を見開き、誰よりも体を震わせ、そして誰よりも安堵し、喜びに涙を零していた。
そして、それは俺も同じだった。
神殿の池に落ちてびしょ濡れの俺を取り囲み、跪く神兵や神官を鬱陶しげに見やった視界の端で、神殿と思われる建物から弾丸の様に飛び出して来たそれを認識した瞬間、体が震えた。
――あれだ。
乾く心がずっと求めていたもの。
探しても探しても見つからなかったもの。
その答えがあれだと、心が、身体が、細胞の一つに至るまでが叫んでいた。
そう、自分がここに残っているのはネロがいるから。己の半身がいるから。
「ネロ」
腕の伸ばし、柔らかい唇を親指の腹で押す。
伏せられた睫毛がふるりと震え、その下から覗く瞳がおずおずとこちらを窺う。
「ネロ」
鱗が所々光る頬を優しく撫でれば、まるでネロは叩かれたかの様に身を竦ませた。
ネロは俺を恐れている。自分の半身を恐れている。
それは、ずっと見つけることが出来なかった神子の存在に戸惑っている事もあるだろうし、そして見つけることが出来なかったことの不甲斐なさを、本人を目の前にして感じているのもあるだろう。
が、一番は半身だからこそ分かっているのだ。ネロが純粋さや優しさと言った人の優しく清らかな『善』と呼ばれる物を詰め込まれているとしたら、俺はその真逆の残虐さや非道さといった『悪』の塊だという事に。
だから俺を恐れている。
そしてそれを知っていても尚、惹かれる事を止められない自分にも恐れている。
ああ、なんて可哀相な俺の半身。
喉を鳴らして低く笑えばネロは怯えるように体を震わせ、けれど撫でられる事を拒もうとは一切しなかった。
【追記】