僕は人が傷つくのが好きだった。
傷ついて泣く人、傷ついて怒る人、傷ついて茫然とする人。
その人達の顔が、態度が。とても好き。
目の前で泣かれるとゾクゾクする。
怒鳴られ、食って掛かられると微笑んでしまう。
茫然とされた時のあの表情は、それだけでイッてしまいそうな程興奮した。
だから、僕は大切にする。
とても大事に大事にして、甘やかして、愛を囁いて。
そうした後に突き落とせば、皆とても素敵な表情をしてくれるから。
恋人という立場を与えて、そして優しい恋人を演じるのは、僕にとっては果物を育てるような感覚だった。
時間をかけて、手間暇かけて、大切に育んで。
そして漸く迎えた狩り入れ時なんだ。
収穫時期を迎えた熟れた果実に手を伸ばし、力を入れてもぐ。
「何勘違いしてるの?恋人な訳無いじゃん」
「……え?」
何を言われたか分からない、といった表情を彼が浮かべる。
彼は真面目で、恋愛なんて浮ついた事とは縁の無さそうな人間。
でもそれは、実は彼は同性しか好きになれないからなのだと知った時、そんな彼を愛して突き落としたら、どんな顔をしてくれるのだろうかと、とてもゾクゾクした。
最初は勿論警戒してたけれど、時間を掛けてゆっくりゆっくりと絆していって。
身体を繋げた回数はもう片手では数えきれない程。今では頬を染めて、時折愛に溢れた眼差しでこちらを見てくる様にすらなっていた。
「あはは、何、恋人だと思ってたわけ?僕が男なんかに本気になる訳無いじゃん」
「な、に……言って……」
「都合の良いセフレ?うーんセフレでも無いかなぁ……。ああごめんね?ちょっと優しくしてあげたから勘違いしちゃったのかなぁ?」
彼の顔から血の気が引いていく。
唇が戦慄いて、振るえる手の平でくしゃりと皺が寄ったのは、僕が以前見に行きたいと言っていた美術館の二枚のチケット。
「男同士ってさぁ、中出ししても妊娠しないから気楽で良いよね」
そう笑って言った途端、彼の少し茶色がかった瞳がひび割れた。
パリン、と薄い氷が割れる様な音が聴こえた気がした。
(――あ、れ……?)
とても傷ついている、それは分かっている。
なのに全然、面白くない。嬉しくない。楽しくない。
「お……男が恋愛対象とか、変じゃん?ほら、気持ち悪いし……!」
もっと傷つけなければ、と言葉を探して慌てて彼にぶつけた。
真っ青を通り越して真っ白な顔色の彼は、言葉も出ないのか茫然とこちらを見つめている。
その顔を見て、胸が踏み躙られたように痛んだ。
(――な、なんで!おかしい!)
「そもそも君の事好きになるとでも思ったわけ?可愛い見た目とかならまだしも、可愛くなんかないし、暗いし」
違う、可愛かった。一緒に話してるだけではにかむ様に微笑むのも、手を繋ぐだけで頬を赤らめるのも。暗いんじゃなくて、ただ喋るのが苦手で、ちゃんと待ってあげれば優しくて暖かい言葉が出て来るのだって知って――違う、違う!そうじゃない!!
「仕方なく抱いてやってたの気付かなかったんだ?それって――」
「もう……いい」
こんな気持ちになった事が無くて、相手の様子を伺う余裕も無く、ただ必死に傷つける為の言葉を投げつけていたら、静かに言葉を遮られた。
はっとして顔を見ると、そこには今まで見た事が無い程表情を失った彼がいた。
目は暗く沈んで、全然感情が見えなくて。さっきの動揺して傷ついていた空気も、シンと静まっていた。
人間って、傷つき過ぎると凪いでしまうんだ――と知った瞬間、胸がずたずたに引き裂かれる程傷んで、思わず心臓が止まりそうになる。
「ごめん……、全然……気づかなくて」
平坦で、まるで板みたいな声を出して、彼は数歩近づくと僕の手にチケットを二枚とも押し付けた。
「……つかって。売ってもいいけど」
俺は使わないし。と、囁くみたいな小声で彼は言うと、僕に背を向けて廊下を走って行ってしまった。
「まっ……!!」
待って、という言葉が喉の奥に引っ掛かっている内に彼の背中は見えなくなり、僕の足は持ち主の意識に従わず、ただ棒の様に突っ立っているだけだった。
「ど、うして……」
どうして、嬉しくない。
どうして、楽しくない。
あんなに傷ついていたのに。あんなに……そう、この僕が、傷つけた。
「……っ!」
アイスピックを刺された様な鋭い痛みに、胸を押さえてその場にしゃがみ込む。
振るえる手で覆った顔は、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
熟れた果実は、もいだ手の平で潰れた。
傷ついたのは、誰。