※強姦、嘔吐あり。
※最低です。
-----
どうしよう。
茫然と自分の手の平を見つめた。
どうしよう、どうして。
あの人は、毎晩違う人の匂いをさせて帰って来た。
それが嫌で嫌で毛を逆立てて怒れば、シャワーで濡れた髪の毛を拭きながら苦笑をして大きな手で撫でるんだ。
『何だよ、ヤキモチ?可愛いなぁ』
そうやって両手で軽々と抱き上げて、鼻を摺り寄せて来る。
『大丈夫、俺は誰も人を好きにならないから』
だけどお前は別な、と喉奥で笑ったあの人。
僕は雨の日にあの人に拾われた。
ずぶ濡れでぐしゃぐしゃになった僕をあの人は拾って、濡れた身体を拭いて温かいご飯をくれた。
あの人が優しいのは、僕を愛してくれるのは、僕が猫だから。
人間じゃないから。
なのにどうして。
人間の物になってしまった手の平に絶望を感じる。
早く戻らなきゃ。早く戻らなきゃ。
元の姿に、猫の姿に。
そうしないとあの人が戻って来ちゃう。
なのにどうやって人間になったのか、どうすれば猫に戻れるのかちっとも分からない。
焦りで涙が目に浮かび、体が震えてくる。
早く早く、お願い早く。
だけど願いは叶う事無く。
「クローただいま」
ガチャリと無情に開いた部屋のドアに、僕は真っ青な顔を向けた。
そこには虚を突かれた様なあの人が立っていて。
「ち、違う、違うの、僕は……っ」
違うんだ、僕は猫だよ、クロだよ。人間じゃないよ。
だからお願い。
捨てないで。
「アンタ……誰?」
今まで見たことも無い冷たい瞳で、あの人が僕を見下ろす。
「どうやって入った?不法侵入って犯罪なの知ってる?それも真っ裸とか……何、変態?」
「ち、違……」
「そこまでして俺に抱かれたいの?っていうかさぁ、ごめんけどアンタの顔覚えてないわ。マジで邪魔っていうより、本気で気持ち悪いからさっさと服着て出ていってくんね?」
“出ていって”
その言葉に愕然として目を見開く。大きく広げた目からぽろり、と涙が零れた。
暖かいご飯をくれたのに。
震える僕を抱きしめて一緒に寝てくれたのに。
『お前、俺ん家の子になる?』って笑ってくれたのに。
ここに、いても良いって言ったのに。
貴方も僕を捨てるの?
僕を、撫でて、くれた、のに。
「や……っ、おね、お願い、捨てないでぇ……」
「うわ、泣き始めるとか面倒臭い奴」
あの人が口にする言葉一つ一つが、心をズタズタに切り裂く。
必死で泣き声を飲み込めば、ゴミを見るような目で見られた。
「……てか、クロ……。クロは?」
ふとあの人が呟く。
その言葉にバッと顔を上げると、それをどうとったのか、あの人の顔から表情が消えた。
「オイ、クロを……猫、どこにやった」
「ぼ、ぼくが……」
「アイツに何した!!」
聞いたこともない大きな怒声に、身体を跳ねさせる。
「ち、違……違うの、僕……」
「ごちゃごちゃうるせぇよ!!さっさと言え!おい、まさか、アイツを外に追い出したとかじゃねぇだろうな……!!」
ヒク、としゃくり上げた瞬間、あの人に殴られた。
頬、頭、肩。
蹲って手で庇えば、お腹の横を思い切り蹴られた。
痛いよ、痛いよ。
違うよ、僕だよ。
僕がクロだよ。
貴方が、拾ってくれた猫だよ。
クロ、だよ。
痛い、よぅ……。
もう何回殴られて、何回蹴られたかも分から無くなった頃、髪の毛を鷲掴まれると、ズルズルと引きずられ、玄関から放り出された。
力の入らない身体はピクリとも動かないで、タイルの冷たさが傷に凍みる。
霞む目であの人を見上げれば、「二度と顔見せんな!!」と顔に唾を吐き捨てられ、「素っ裸で出歩いて警察にでも捕まりやがれ!!」という言葉と共に、目の前でドアが勢い良く閉まった。
ガチャン、ガチャガチャと鍵を閉められる音もして、ああ、本当に捨てられてしまったと、涙が流れた。
きゅ、と横たわったまま身体を縮める。
あの人に捨てられて、僕はもう行くあてなんて、どこにも無い。
……死んでしまいたい、と思った。
捨てられるくらいなら、あの人に殴り殺された方がずっと良かった。
鈍痛が身体の至る所からして、段々意識が遠くなっていく。
――もしかして、死ねるのかな。
そうなら良いのにな。と、瞼を閉じた向こうから、『な……っ、君、大丈夫ですか!?』という声が聴こえた気がした。
目が醒めると、暖かい部屋の中で。
身体は裸のままだったけど、色んな所にガーゼや包帯が巻いてあって、ソファーの上で柔らかい毛布が掛けられていた。
「目が醒めた?」
柔らかい声に振り向くと、知らない男の人がコップを片手に立っていた。
あの人より背が高くて、あの人より髪の色が少し明るい。
「大丈夫かい?骨は運良く折れて無かったけど、酷い青痣だらけで……。これ、人肌だからゆっくり飲んで」
渡されたコップの中は薄らと黄色の色をしたお湯で、恐る恐る舌を伸ばせば爽やかな味と、甘い味がした。
ちびちびとそれを飲んでいる間、その男の人は色々話してくれた。
自分は『アオイ』といって、イシャをしている事。あの人の隣に住んでいる事。凄い音と大声が聴こえたから、気になってドアを開けたら、僕が倒れていた事。
「隣の彼が、君にこんな事をしたの?」
責める様な響きに首を横に振る。
「じゃあ誰が――……」
「違うの」
ああ、空気が抜けていく風船になった気分だ。
「僕がね、人間になったのが悪いんだ」
だからね。
コップの中に、ポチョンと滴が落ちた。
「だから、僕は捨てられちゃったんだ」
クロがいなくなった。
誰かに心を許しきる事が出来ず、誰かを思いやり、愛す事なんて出来ない俺の心は、随分前からささくれ立っていて。
クロはそんな俺のただ一つの心の拠り所だった。
土砂降りの日に出会った黒い猫。
全身真っ黒では無く、右前足に白の靴下を履いていた。
びしょびしょに濡れて、毛がペッタリとくっついて。針金みたいに細い身体をぶるぶる震わせながら鳴いていたアイツ。
今にも途切れそうなか細いそれは、寂しい、悲しい、と泣いているみたいで。
思わず手を伸ばすと、一瞬身体を強張らせたものの、小さい赤い舌でサリ、とアイツは指を舐めてきた。
まるでこちらを気遣っているみたいに。
『……馬っ鹿、お前の方が……』
お前の方が寒そうじゃないか。
お前の方が悲しそうじゃないか。
俺なんか気遣うなよ、自分で精一杯だろ。
そんな思いで一杯になっていたら、いつの間にか俺はその猫を腕に抱えて持ち帰っていた。
クロは可愛かった。
いつも甘えて来て、撫でてやると喉を鳴らして。
構われたがりなのに、猫のくせにこちらの様子を窺って妙なくらい気を使う様な素振りをする時があった。
性処理で誰かと寝て帰って来た時はやけに不機嫌で。
まるで嫉妬してる様なそれすら可愛かった。
(――なのに……っ)
いなくなった。
追い出されたのか、逃げ出したのかは分からない。
でも、あんなに俺に懐いていて、外に出たがる事をしなかったクロが、自分の意思で逃げ出すなんてことは想像できない。
(アイツだ。アイツが部屋に入って来たからだ。)
家に帰って来たら、裸で居座っていた細身の男。
可愛らしい分類に入りそうな顔立ちだったが、そんなのはどうでも良かった。
今までも度々もう一度抱いて欲しいだの、付き合って欲しいだのと関係を持った奴に付き纏われた事はあったが、家まで。ましてや部屋の中にまで入って来た奴は、いなかった。
アイツがクロを追い出したのかどうかは、はっきり分からない。
でも確実にアイツが原因でクロはいなくなったのだ。
今まで俺以外誰も入った事の無い部屋に突然見知らぬ奴が入って来て、クロはどれだけストレスを感じただろうかと思うだけで腸が煮えくり返る程だった。
自分のテリトリーを荒らされた怒りで頭が真っ白になり、気が付けばボロボロになるまで相手を殴っていて。
髪を掴んで外に裸のまま放り出し、ドアを閉めた時には流石にやりすぎたかと少しだけ後ろめたさで心が痛んだが、誰もいない静かな部屋に怒りと悲しみが再燃して、その痛さも直ぐにどこかに行った。
朝、布団の中に自分の温もりしか無くて、顔を歪めた。
寝ていると布団の中に潜り込んで来た黒い猫はもう、いない。
体中鈍く痛んで、頬には大きな白い物を貼られた。
気持ち悪くて剥がそうとしたら、イリョウヨウのバンソウコウだから剥いじゃダメだと言われてしぶしぶ手をおろす。
「君は隣の彼の血縁者か何かかい?」
「ケツエンシャ?」
「あー……兄弟とか、従兄とか」
「ううん」
あの人と僕には血の繋がりは無い。
でも、きっと、僕が猫だった時、僕らは誰よりも近いところにいた。
それが、僕のせいで。僕が猫になったせいで。
「じゃあ君は、その……帰る家、というのはあるのかい」
アオイという人がそうおずおずと言って、僕を覗き込む。
見つめて来るのはあの人とは違う茶色の目。あの人は烏の羽みたいに綺麗な黒だった。
僕と同じ黒色だった。
「帰る、家……ない」
だって捨てられちゃったから。
それともあのドアの前で座っていたら、あの人は僕をまた拾ってくれないかな。
あの時みたいに鳴けば、ドアを開けてくれないかな。
……人間の姿だったらダメだろうな。
また泣きそうになったら、アオイという人は慌てて両手を振った。
そして、落ち着く先を見つける暫くの間くらいなら、ここにいてくれて良いからと言った。
クロの温もりが無い事でいつもみたいに深く眠れず、浅く眠っては目を覚ますというのを繰り返した。
こんなことは初めてでは無い。クロと出会うまでこんな風な眠りを繰り返していた。
でも、クロを拾ったあの時から、驚くほど深く眠れていたといのに。
まだ空の端が明るくなっただけの時刻だが、これ以上横になっていても同じだと、寒い布団の中から這い出した。
手持ち無沙汰に部屋をぶらぶら歩いていると、そういえば今日はゴミ出しの日だったと思い出す。
集めるゴミ一つ一つにもクロの面影を重ね、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
玄関の取っ手に手を掛けながら、あの男がまだいたらどうしようかとふと思う。
昨日はやはりやり過ぎた気もすれば、顔を見たらまた殴ってしまう様な気もする。
恐る恐るドアを開けると、そこには誰もおらず、安堵の溜息と共にどこと無い後ろめたさ、ざまあみろという嘲り、色々な気持ちに心が乱れた。
朝からどうしてこんな気持ちにならなければいけないのかとまた忌々しく思うのと同時に、隣のドアが開いた。
ああ確か隣人は医者で、朝が早いのだったっけと思っていると、ゴミ袋を片手に背の高い男が出て来た。
確か……名前は青井だった様な気がする。
首だけで会釈をすると、男の表情が僅かに強張った。
身に覚えのない態度に一瞬腹立たしく思うが、それも次の瞬間には吹っ飛んでいた。
隣人のドアの向こうから、細い腕が伸びて男の袖を掴んだと思うと、ふらりと、昨夕のあの男が出て来たのだ。
例の男は隣人をふわりと仰ぎ見、それからその目線につられてこちらを見た。
傷つけたのは自分だというのに、余りに痛々しいその顔に一瞬息を呑んだ。
線の細い美人であるだけに頬のガーゼが目立つ。
男は俺に気付いた瞬間目を見開いた。
黒い瞳が何かを恐れるかの様に揺らめいたが、すぐに小さく俯いた。
その悲しそうな表情が。
あれだけ殴ったというのに、おずおずとこちらを伺う様な気配が。
ざりりと音を立ててこちらの心を逆撫でた。
怒りとは言い切れない複雑な感情に拳を握ると、握っていたゴミ袋が大きな音を立てた。
それを聞いた隣人が男に何か言い含め、ドアの向こうに押し込める。
それがとても。
とても俺を苛立たせた。
「……アイツ、アンタのだったんだ?」
だから気が付けば蔑んだ口調で、隣人に嫌味を口にしていた。
「持ち主ならちゃんと躾けておけよ。特に誰かれ構わず腰を振るような淫乱野郎にはさ」
アイツ、俺の部屋に勝手に入って来ただけじゃなくて全裸だったぜ?と吐き捨てると、茫然としている隣人を横目にその場所を後にした。
隣人というのは、交流が無くとも存外顔を合わせる事が多い物だ。
それが例え望んでいない物だとしても。
隣にあの男がいると分かってから、良く顔を見る様になった。
それは認識をした途端に痛み出す怪我の様に、とても俺をイラつかせた。
(……これで七回目)
昨日はベランダで。一昨日は階段の踊り場で。今日はゴミ捨て場でアイツを見てしまった。
長い袖に隠れそうになる手で、ガサガサとゴミ袋の場所を整えている。
上手く置く事が出来ないのか、上に積もうとしては転がり落ち、それを拾って再び積み上げるという事を繰り返す。
その学習をしない動作に苛々とすると、男に近寄り、そのゴミ袋を取り上げて叩き付けた。
凄い音がしたが、その衝撃でめり込んで落ちなくなる。
「ねぇ、アンタ馬鹿?頭使えよ」
そう吐き捨てる様に言えば、男はびくりと体を竦めた。
それは吐き捨てた言葉の内容に、と言うよりも、俺の存在に気付いてという様だった。
そのびくびくする様にまた苛立つ。
「俺が怖いならうろうろすんな。アンタの飼い主の部屋でじっとしてろよ」
「飼い、ぬし……?」
ぼんやりと男が呟き返す。
「だから。アンタあいつの、医者の物だろ」
「イシャ……?あ、アオイ?」
男があの医者の名前を呼んだ瞬間、再びざりりと神経を逆撫でる様な不快感が胸に満ちた。が。
「アオイ、飼い主違う。飼い主は……」
そこまで言って口ごもり、縋る様な目を向けられて一瞬にして不快感が吹き飛ぶ。
そして代わりに胸に満ちたのは、あの医者への優越感。
「……へえ、アンタもしかして俺とまだシたいの」
男は首を傾げて見せたが、「部屋に来たい訳?」と言うと目を輝かせた。
その食いつきっぷりに、胸の中で尻軽がと罵る。……だが、この素直さは嫌いでは無かった。
「じゃあ今から来いよ。抱いてやるからさ」
ニッと笑いを貼り付け、顎をしゃくるとコクコクと何度も男は頷いた。
一緒に階段を上がっていると、クイっとシャツを引っ張られる。
振り向けば、男は必死な形相で言葉を紡いだ。
「あの、ね、あのね……いい子にするから、いいネコでいるから……だから……」
「は?当たり前だろ、俺タチ以外するつもりねぇし。何、アンタいつもはタチなの?」
とても男を抱く様には見えない。
それどころか女を抱いている所も、余り想像できなかった。
「た、ち?ううん、ネコ、ネコだよ……?」
「だろうな」
ケツゆるそうだもんな、と吐き捨てるが男には嫌味が通じなかったようだ。
舌打ちをしたが、ニヤリと厭らしい笑みを浮かべると顔を近づける。
「そうだな……いい子にしてたら、優しくしてやっても良いぜ?」
そう言いながらさらりと髪を梳いてやると、男は本当に嬉しそうに目を細めた。
嬉しそうに頬を緩めた男の手首を掴むと、部屋に引き摺りこんだ。
結構な力で腕を引いたというのに男は抗いもしない。
リビングに男を突き放すと、フローリングに尻もちをついた男が不安げに俺を見上げた。
「服脱げ」
「え……?」
「脱げっつってんだろ、全部」
語気を強めれば、男は慌てて服に手を掛けた。
もたもたと容量悪く服を脱いでいる間に、寝室からローションを取ってくる。
言われずとも下着も脱いでいた男に胸の内で唾棄しながら、ローションのボトルを投げつけた。
「解せ、自分で」
「え?」
「さっきから何で何回も言わせるんだよ、解せって言ってんだ。準備してやるつもりねぇから。突っ込める様になったら言えよ」
そう言って、ソファーに足を組んでどっかと座った。
男はローションのボトルを途方に暮れたように見つめると、おずおずとこちらを見上げる。
「ほ、ほぐすって……?ど、どうすれば良いの……?」
「はぁ?」
苛立たしく声を上げれば、ビクリと体を竦める。
もしかして自分で解した事ないのか。
そういえばよく見ると中々の容姿をしている。今までセックスをした相手は皆、下準備を手伝ってくれていたのかもしれない。
溜息を吐き、足音荒く男に近づくと、四つん這いになれと命令した。
おずおずとだが命令に従い、男がケツをこっちに向ける。
その白いケツの間にローションを垂らしてやった。
「ヒッ!?」
冷たいのか、男が短い悲鳴を上げる。
「こーやってローション垂らして、ケツの穴に自分で指突っ込んで、解せって意味!」
そう言いながら、まだ固く閉ざしている穴に人差し指を突っ込んだ。
「い゙っ、あがっ!」
思った以上にきついそこに眉を顰める。
面倒臭いな、と思いながら指を無理矢理奥まで入れた途端、男が暴れ出した。
腰を引いて抜こうとするのを、足を掴んで引き留める。
「やっ、ヤダッ、痛い、痛い……ッ」
「何バージンぶってんだよ、大人しくしろ!」
「やだ、やめてっ、痛いよ、気持ち、わるい……ッ」
『気持ち悪い』って何だ。
そっちから誘っておいて、色んな男を銜え込んでるくせに。――きっと、そう。隣のあの医者のも。
ぶんぶんと首を横に振って抗う男の言葉に、プツンと何かが切れる音がした。
怒りの勢いのまま拳で男の後頭部を殴りつける。その勢いのまま男の頭が床にあたり、ゴッと鈍い音がした。
頭へのダメージで男の抵抗が止まっている内に、ズボンをずり下げるとペニスを男の穴に押し込んだ。
――何故か、俺のペニスは何もしていないのに熱り立っていた。
ずぐっと押し込めた瞬間、男が絶叫しながらもがいた。
喉が裂ける様な声を上げて、フローリングに爪を立てる。
「あ、が……っあ゙っやぁ゙ああぁああ!!!」
「……っ」
余りのきつさに快楽よりも痛みを覚えながら、ずんっ!と腰を叩きつけて奥まで埋め込んだ。
「ぎっ、がっ、ゔ……ぇ゙えぇ……」
途端に男は淀んだ奇声を上げると、その場で嘔吐した。
嘔吐き、体を震わせながら饐えた匂いの液体を吐き出す。
吐き出し終わった後、上半身を倒し、ぴくぴくと痙攣するだけになった。
「……さい……ごめ、なさ……ご……なさ……い……ごめんなさ……ご、めんなさ……い……」
うわ言の様に謝りながら痙攣する男を茫然と見つめる。
まさかこんな惨状になるとは、と思いながらその景色が何かと重なる。
既視感に眉を顰めた途端、脳裏に記憶が蘇った。
『おい!?クロ、大丈夫か!?』
拾って、家に来たばかりのクロが毛玉で喉を詰まらせた時。
小さい体を瘧の様にぶるぶると震わせながら、音も無く胃液と毛玉を吐いた。
吐いた事で毛玉が取れてすっきりはしたのか、けれど汚れてしまったフローリングを見て、こちらを見上げながら、本当に申し訳なさそうに小さく鳴いたクロ。
その時のクロと、今の男が重なった。
茫然とした後、血の気が引き、ガタガタと震え始める身体。
萎えた逸物がずるりと男から抜け落ち、腰を掴んでいた手も離すと、力無くぐしゃりと男は倒れた。
「……ク……ロ……?」
その後の事は、余り覚えていない。
鍵を掛け忘れてたのか、男の叫び声と暴れた音に例の医者が飛び込んで来て、惨状を目にするなり俺を殴りつけた。
吐瀉物に突っ込んだ俺を怒りに燃えた目で見据えて、医者は男を両腕に抱えて出ていった。
腕に抱かれている男を取り返そうと、医者の脚に縋り付いた記憶があるが、ふざけるなという怒声と共に蹴り飛ばされた様な気がする。
気が付けば、呆然と部屋の中に一人取り残されていた。
猫が人間になるなんて馬鹿げた考えだ。
そう思うのに、今ではあの男がクロにしか思えなくて。
クロを返せ、と医者を訪ねても門前払いだった。
一人、部屋で蹲る。
あの男が本当にクロなら。
――俺は、何をした?
人間になったクロに言い掛かりをつけて、詰って、殴って、蹴って、犯した。
今まであの男にして来た事が、黒い猫に置き換わる。
痛がる小さな黒い猫を、殴って、蹴って……犯して。想像した瞬間に吐き気を催して、トイレに駆け込む。
クロがいなくなっただって?
何の事は無い。追い出したのは自分だったんだ。
それからは毎日あの男を、クロを取り戻したいと考えて、でもそんな資格等無いと打ち消す日々だった。
ただ毎日を息を吸って生きているだけ。
虚ろな心のまま、あの日みたいにアパートの前の道を挟んだゴミ置き場にゴミ出しに外に出て、ぼんやりと道を渡った時だった。
甲高いブレーキの音と共に、こっちに突っ込んで来るトラックが視界いっぱいに広がって。
……ああ、報いか。と、思って目を閉じた。
――トン。
その胸を誰かが、押した。
押されて、後ろに倒れながら見開いた目の先には、あの男が、クロがいた。
必死の形相が、俺を突き飛ばした瞬間に安堵に緩むのが、一瞬の事なのにスローモーションの様にはっきりと分かって。
そして俺と視線が絡むと、男は場違いな程嬉しそうに微笑んで。
俺の代わりに跳ね飛ばされた。
悲鳴の様なブレーキ音の間に、ドン!!と、鈍い音が混ざる。
黒い塊が、ボールの様に跳んで、アスファルトの地面にたたき付けられた。
それは、人間にしては余りに小さくて。
けれど良く見知った物。
「すすすいません……!!!俺……っ、俺っ!怪我は!?本当俺……!あれ、人って二人いた……あのっ」
トラックから転がる様に降りて、真っ青になりながら謝って来たまだ若い男を無視して、その黒い塊にヨロヨロと近づく。
ジワリと水では無い液体を染み出している黒い塊は、四肢を投げ出して動かなかった。
「ク、ロ……」
ピクリとも動かないそれを、震える腕で抱き上げる。
服が汚れるのも気にせずに胸に抱えたそれは、ぐんにゃりと力無く垂れ下がった。
「クロ……クロ……クロ……ッ!!!」
微かに鳴いた気がしたが、ビククッと明らかに異常な痙攣をすると、クロは腕の中で
息を、鼓動を
止めた。
どんなに嫌われたって。
どんなに痛めつけられたって。
あなたとの幸せな記憶が沢山あるから。
あなたを嫌いになんてなれない。
すきって、そういうものでしょう?
だから僕は、あなたがずっとだいすき。
だいすき。
あの人に今までで一番痛い事をされて、目が覚めたらアオイが側にいた。
アオイは怖い顔で、もうあの人に会っちゃだめって言ったけど、そんな事出来る訳が無かった。
漸く動けるようになって、こっそりまた会おうとした時、大きな車があの人に突っ込んで行って、全身の毛が逆立った。
後はもう何も考えずにあの人を突き飛ばしていて。
次の瞬間には、凄い衝撃が身体を走った。
べしゃりと地面に叩きつけられて、霞む視界に入ったのは真っ黒な自分の手足。
猫に戻れたんだと嬉しくなったのに、何故かその手足を動かせない。
「ク、ロ……」
「――!」
あの人が、僕を、呼んだ。
そうだよ、そうだよ、クロだよ。
嬉しい、呼んでくれた。嬉しい、嬉しい。
ごめんなさい、人間になっちゃってて。
ごめんなさい。
でも、ほら。猫に戻れたよ、もう人間じゃないよ。
だから。
お家に連れて行って、くれませんか。
また一緒に暮らしちゃダメですか。
またアナタと一緒に。
また名前を呼んで、また一緒の布団で寝て。
僕はあなたの帰りを待つ。
ただいま、ってあなたが言ったら、僕は身体を擦り付けて、おかえりって言うんだ。
……あれ、何でだろう。身体が動かない。
目も、見えない。
アナタの声と匂いはするのに……真っ黒だ。
何だかとても寒い。
なに、考えてるか、わからなくなってきちゃった……。
えっとね、なんだっけ、ああ。
だいすき、だよ。
あなたが……だれよりも。
ずっと……だ……い……、……。
家に帰ると、暫く前に家に泊めていた青年がいなくなっていた。
クロ、とか名乗っていたが本当の名前は知らない。
不思議な青年で、見知らぬ相手を家に泊めるなんて考えられなかったのに、ボロボロになった姿を見て、手当てをしたら泊めてしまっていた。
「クロ?」
どこかに出かけてしまったのだろうか。
彼は隣の住人と何やら複雑そうな関係があるようで、良く突っ掛られている。
同性愛には余り偏見は無いが、けれど流石に強姦と思われる様な所を見た時は、惨状に頭に血が上って隣の住人を殴りつけてしまっていた。
そんな酷い目にあってまだ一週間も経っていないのだから、家で大人しくしていて欲しい、と思った時に呼び鈴が鳴った。
「はい?」
扉を開けると、そこには例の隣の住人がいて、思わず顔を歪める。
さっきも述べた様に同性愛には偏見は無い。けれど、暴力を振るったり剰え強姦まで犯したこの男に嫌悪を抱くのは簡単だった。
最近はクロを返せだの、余りに自分勝手な事を言って付き纏っていたので辟易していた。
「……何か?」
「……こいつを、助けてくれ……」
俯き加減に、抑揚の無い声で喋る男の恰好にぎょっとする。
男のシャツには血が付き、何かを抱えている腕からもポタポタと垂れていた。
そこで漸く男の腕に抱えられているのが猫だと知る。
「私は獣医では無いので……それは……」
「たのむよ、なぁ……」
幽霊のような声を出す男が不気味で、仕方なく猫に手を伸ばし――そしてハッとした。
死後硬直が始まっている。
もうこれは……助けられるような状態では無い。
「残念ですが……その子はもう」
「あんた医者なんだろ?クロを助けてくれよ……頼む、なぁ……なぁっ!」
クロ、という名前に引っ掛かったが、確かに猫は綺麗な黒い毛をしていた。
「落ち着いて……理解したくない気持ちも分かりますが、もう死後硬直を始めているんです。ちゃんと寝かせてあげて、お別れを――」
「……っ!!」
「あっ、ちょっと!」
言葉の最中に男は息を詰めた様な声を出すと、背を向けて走って行ってしまった。
他人に暴力を振るうような男にあのような一面がある事を以外に思いながら、もう少し時間が経てば頭も冷えて状況の理解も出来る様になるだろうとドアを閉めた。
「それにしてもクロ……どこに行ったんだろう?」
クロを抱えて色々な病院を回った。
どこでもかしこでも、もう手遅れだと言われ門前払いで。
近くの動物葬儀センターの場所まで教えてくれようとした奴までいた。
頭の隅では分かってるんだ。
血管に蝋を流し込んだみたいにガチガチに硬くなったクロの身体が、何を示しているのか。
けれど認めたくなかった。
色んな所を駆けずり回って、再びアパートに戻ってくる頃には夜も更け、朝が近くなっていて、クロの身体はまた再び柔らかくなっていた。
まるで眠っている様に見えるのに、温もりが無い。呼吸をしていない。
ふらふらと部屋に入り、床に座り込む。
柔らかい体を何度も撫でて、話しかけた。
「クロごめんな……痛かったよな……ごめんな……」
耳の裏を擽ると、いつもクロは喉を鳴らしていたっけ。
「ごめんな……どうして俺、気づかなかったんだろうな……。許してくれって言っても、許されないよな……ごめん、ごめんな……クロ、クロ……」
ずっとクロは俺に訴えていた。
気づいて欲しいと、自分がクロだと。
「俺なんかに拾われなきゃ良かったな……そうしたらこんな……こんな辛い目に会わなくて済んだのにな、お前……」
ふと、開けっ放しのカーテンから外がだんだんと明るくなってきているのが見えた。
朝焼けなんて、何年ぶりに見ただろうか。
窓を開けるとベランダに立った。
「……綺麗だな」
涼しい風が頬を撫でる。
クロの毛並も、風に撫でられてそよいだ。
「俺、お前と一緒にいる価値なんて無いけど。それでも……もう一度やり直したい。一緒に居たいって言ったら、ダメか?」
クロが猫でも、犬でも、何でも……そう、人間でも構わない。
クロが人間の時、自分は惹かれ始めていた。認めたくなかっただけで、だからあの医者にも嫉妬をした。
「ごめんな。気づくの、遅すぎるよな……」
柔らかい毛並に顔を埋める。
「今、そっちに行くな」
ベランダの柵に足を掛け、身を乗り出す。
どこか軽くなったクロの身体をしっかりと抱きしめて、微笑を浮かべて前へ身体を倒した。
ずっと、一緒だ。クロ。
【追記】