「あのさ、」
「はい、消しゴムー」
「……どーも。……あ、それと」
「この参考書か?」
「……あんがとちゃん」
参考書を受け取りながら複雑な気持ちになって、少し口籠る。
千佳がセミナーの問題をノートに解いているシャーペンの音が響く中、基樹は静かに立ち上がり部屋のドアに手を掛けた。その時、俺も千佳も「何処にいくの?」とか、「何しに行くの?」とか聞かない。何となく、「ああ、あれなんだろうな」と分かるのだ。
十分後、ドアの向こうに人の気配を感じた俺は、何も言わずに開ける。そこには両手がお盆で塞がった基樹が立っていた。
「ありがとう」
「いいえ〜」
三人で囲むコタツの上にお盆を置く基樹。
お盆にはブラックのコーヒーと、ミルクティーと、レモンティー。
千佳は迷うことなくミルクティーを基樹の前に。レモンティーは俺の前に。コーヒーを自分の前に置く。そして基樹は盆に乗っている菓子器の蓋を開けた。
「昨日焼いたブラウニーだ。甘さは控えめにしておいたから、千佳でもいけるんじゃないか?」
「――何この熟年夫婦みたいな空気……」
とうとう耐えきれず、レモンティーを啜りながら呟く。
見た目に似合わず甘い物が苦手な千佳、甘い物好きで趣味はお菓子作りだという基樹。互いに気心が知れていて、ちょっと言うだけで通じるさまを『つうと言えばかあ』というが、それ以上だ。『tと言えばかあ』だ。口を開く前に察してしまっている。
お互いのして欲しい事、好み。行動パターンまで熟知しているのだ。
「基樹ブラウニーって何。おま、ブラウニーって……」
男子高校生の作るお菓子じゃねぇよ、と言った俺の口に基樹がブラウニーを突っ込む。
「どうだ?」
「……ふまいよ」
「アーモンドの代わりにクルミを入れた」
「……どーもー」
アーモンドが苦手な俺への心配りもしっかりだ。もごもごと口を動かしながら鼻から息を吐く。
「あーあ、俺は気の利く嫁と旦那を貰って幸せ者だねぇ」
カシャン
千佳の手からシャーペンが音を立てて落ちる。
どうしたのかと思って目を向けると、薄茶の髪から覗く耳が赤い。
「……あらぁ?恥ずかしかった?」
「ちちちち違うっ」
「千佳ちゃん、どもり過ぎだし」
笑いながら顔を覆う千佳の髪をわしっと撫でてやると、基樹が低く笑いながら抱きしめて来た。
「どっちが嫁で、どっちが旦那だ?」
「そりゃぁ料理が出来るお前が嫁で、勉強の出来る千佳が旦那だろうなぁ」
猫の毛の様に柔らかい千佳の髪の毛の感覚を楽しみながらそう答えるが、ふと気づいて口角を上げる。
「まあにゃんにゃんの時はお前が旦那で、千佳ちゃんがお嫁さんかね?」
そう言うと千佳の頭が沈んだ。ああ、ほんっと恥ずかしい事とか怖い事とかに弱いんだから。
チャラチャラしていそうに見えるし、実際浮ついているくせに、変な所で初心だ。実際、AV鑑賞でも一番最初に脱落するのは千佳だった。
「じゃあリュウは何さぁ?」
まだ少し赤い顔をしている千佳が伸ばした腕に、俺も腕を伸ばして応えた。
イイ男の間で挟まれて、抱きしめられている俺は一体何人の女の子の恨みを受けるんだろう。
とりあえず二桁にならない事を願っている。
「俺は〜……」
俺は……何だかお母さんポジションな気がするが、この場合の正解ではない。
「――チキンハートとガラスのハートの持ち主の恋人」
ニッと笑ってみせると、二人とも息を詰める。
その直後、千佳が俺の額に。基樹が俺の耳に唇を落して来た。
ふわっと触れる唇は優しく、とたんに濃く甘い様な空気が部屋に満ちる。
告白されてからこういった恋人みたいな空気になったのは初めてで、俺は身体を硬直させた。
(――あ、やべ)
今、丁度今。自分の弱点が分かった。しかし、このタイミングというのは非常にまずい。
何故なら俺とこいつらは『つうと言えばかあ』以上の仲。
バレたくない事までわかってしまう。
「……うふっ。そっかぁそうだったねぇ」
「『経験』、か」
……ああ、やっぱりバレてしまった。
俺は情けないことに、こういう甘い空気の耐性が無いみたいだ。
彼女いない歴イコール俺の年だから、こういう空気なんてあれだ。ドラマか映画か小説かシュミレーションゲームの中でしか知らない。
全身が真っ赤に染まるのが分かった俺は、どうにかしてこの情けない顔を隠そうとしたが、俺は恋人が二人いるんだ。
これぞまさに前門の虎、後門の狼。
……なんだか、こうやって少しずつ弱味を握られ、翻弄される未来が少し見えた気がした。
- 終 -