貴方だけなんだ。
僕を対等に見てくれるのは。
貴方と同じ白い服を着ている他の人は僕をね、物みたいな目で見るんだ。
ねえ、聞いて、僕の言葉。
聞こえる?聴こえる?
「すき……」
こぽぽ……
零れたのは泡だけだった。
ねぇ、貴方に伝えたいよ。
次の日、マレの所に行く足が重かった。
――……これ以上アイツに深入りすると良くない。
しかし仕事は仕事だ。マレだって、通常とは違う環境にいる訳だから毎日看てやらないと急に異変をきたすかもしれない。
今日は余りマレと接しないようにして、さっさと室内に戻ろう。そう心に決めて研究室に入ると、マレの水槽に同僚が一人近寄っていた。
(何か異変でもあったか?)
慌てて室外に出る。
「どうした?何かあったか?」
「おお、龍一。いやよぉ……コイツらの下半身って本当に魚なんだなぁと思って」
そうか、俺がマレの担当になってしまったからハウフルを近くで余り見る機会が無かったのかと思い当たる。
「すまないな……俺が仕事取ったみたいで」
「なぁに言ってんだよ、楽出来てありがたいくらいさ。むしろ謝らないといけないのはこっちの方だろ?」
それにしても……と彼は言葉を続ける。
「研究しがいのある材料だよな。とりあえず生態はもちろん薬品投下、電気反応、器官に血液……毛髪もか。あーあ、早く採集班が新しいこいつらを見つけてきてくんねぇかな。
あ!待ち切れなかったら雌雄いる訳だし生殖方法の調査も兼ねて子供作らせるか!」
なぁ!と俺の顔を満面の笑みで覗きこむ彼に一切の邪気は感じられない。あるのはただただ純粋な興味だけ。研究者としては最もな反応だろう。
マウスを使って薬品実験をするように、ハウフルの調査をしたいだけ。
けれど俺はその言葉を聞いて顔を引き攣らせた。いやむしろ吐き気さえ覚えた。
こいつらは半分人間なんだぞ?俺達と同じ様に感じているのかもしれないんだぞ?という言葉は喉元まで出かかって消えた。
ならマウスは?魚は?切り刻む植物は?感情を持っているという線引きは難しく、そもそもそんな事で線引きをしていてはきりがない。
俺だっていくつもの命を研究で殺して来たんだ。
「そ、そういえばお前……アレイが呼んでたぞ」
「え、本当か?ありがとな!」
だから俺に出来る事は、その言葉を肯定せず、この場から彼にいなくなってもらう事だけだった。
彼は俺に礼を言うと白衣を翻して駆けて行った。
「……マレ」
お前は一体どんな気持ちで今の言葉を、と振り返り、胸を締め付けられた。
泣いている。
水の中で、彼が涙を零しても分からない筈なのにそう感じた。
「すまない……」
あんな話をされて傷つかない方がおかしいのだ。
手を頬に伸ばしてガラスを撫でる。
それでも彼の涙は止まらない。
考えるよりも先に俺はガラスに唇を付けていた。涙を掬うように。
「マレ、マレ…」
流れる涙を全部唇で追う。時折唇にも口付けた。
マレもそれに応えるようにそっとガラスに唇を付ける。
(ああ、ガラスが無かったら良いのに……。)
触れたい。触れたい。
全てに触れたい。
たった数センチの距離を、これほどもどかしく感じた事は無かった。
甘い空気が流れる。
ぺったりと身体を水槽にくっつけ、ずっと抱いていた想いをそっと呟く。
「お前を見ていると……」
首を傾げるマレに僅かに微笑む。
「お前は海そのものなんじゃないかと思うよ」
マレの頬を指で擦って、自嘲の笑みを浮かべた。
俺達が長い時をかけて汚して失ってしまった、美しいもの。
もう元には戻らないのかもしれない。
何時か自分が浄化のきっかけになる発見が出来ればとこの職を選んだが、しているのは汚した事によって出来た生産物の研究ばかり。いつもまざまざと汚染の深さを突き付けられた。
「おまけにお前まで研究材料にして失えって?」
ゆっくりと目を閉じたその時、物凄い地響きと共に地面が揺れた。
「なっ!?」
余りの激しさに立っていられない。
後ろに倒れた俺の耳に、何かが引き攣れて弾け飛ぶ音が聞こえた。
それと同時にぐらりと水槽が傾き、倒れる。破裂音、破壊音とも言い難いガラスが砕ける音が中央と四方八方から聴こえた。
「マレ!!!」
砕けたガラスの中にびしょ濡れの人魚がもがいていた。駆けよって掻き抱く。
その瞬間、こんな状況下だというのに思わず喜びで震えてしまった。
(触れている……触れられている……っ!)
身体の芯から嬉しさが込み上げるが、今はそれどころではないと振り払う。
「大丈夫か?動くなよ、下手に動くとガラスが刺さる」
ガラスが刺さらない様にゆっくりと抱き上げると、ふと俺は違和感に気付いた。
風が、吹いている。
どこから?
室内から……室内!?
がばっと振り返ると、崩れた天井の一部が突き刺さった空気浄化装置が、モーター音を異常なほど高らかに響かせていた。
「まずい!!!」
慌てて着ていた白衣を脱ぐと、水槽に残っていた海水に浸してマレを覆う。
「待ってろ。空気に触れない様にしておけ、いいな?」
その言葉のどれだけをマレが理解出来たか分からないが、俺は装置を止める為に室内に戻った。
拉げ、奇妙な音と時折電流の弾ける光を放つ装置を、緊急停止操作で止めようとする。しかし瓦礫の落ちた場所が悪かったのか、不規則に点滅する停止ボタンを押してもモーター音は止まらなかった。
「くっそ!」
苛立たしく声を荒げ、機械に拳を振り下ろす。
どうする?壊すか?
いや、ダメだ。人間一人で叩き壊せるほど安っぽい代物ではないし、壊れきらなかった場合もっと悪い方向に進みかねない。けれど止まらなければ、この勢いだといくら天井に穴が開いているといえど、マレに影響が出るかもしれない。
どうする?マレを抱いて外まで連れて行く……それもダメだ。室内をマレを抱いて行くなんてそれこそ自殺行為だ。
助けを呼んで来ようかと研究室のドアを見てそれも断念した。自動開閉のドアが拉げてしまっていて、おまけに大きな瓦礫が半分程塞いでしまっている。
これでは助けを待つしかない。
マレの側に戻ると、マレは俺の白衣を頭から被って待っていた。
無言でその身体を抱きしめる。
「大丈夫だ、きっと助かる」
自分に言い聞かせるように呟く。
自分より少し小さくて、華奢と言えど確かに男の骨格のそれを抱きしめて何故か安心した。
「怪我は無いか?」
身体にざっと目を走らせ、確かめる。
「……ウ……ェ、」
細く掠れた声がマレの口から零れ、まさか話すのかと息を詰めて次の言葉を待つ。
「ル、ゥ、ウウ、ウィ……ガル、レ……」
ぽつりぽつりと俺を見上げて音を発するが、さっぱりわからない。
何度か呻くような、唄うような音を発していたが、俺が反応しないと分かると自分の唇を指した。
そのあと、そろそろと腕が伸ばされて俺の唇を指す。『自分の唇』、『俺の唇』……。
「…キスしろって事か?」
俺もその動作を繰り返してやってやると、嬉しそうに身を乗り出してくる。
それに誘われるようにその淡い朱に自分の唇を重ねた。
何度か重ねた後、柔らかいそれを割り開いて舌を入れる。
(――さっきまで触れられなかったのにな。)
今の状況なんか忘れて夢中で貪った。
他の研究班員が助けに来たら離される。そしてまたガラスで隔たれてしまうのだ。
ならば今くらいこの甘さに浸ったっていいじゃないか。
角度を変えて何度も口付けた。
唇を離してぼおっと顔を突き合わせていると、微かに地面が揺れ始めた。
また地震かとマレを腕の中に囲って抱きしめ、体中の神経を尖らせる。
しかしこれは地震というよりも、地響きのように思える。
「……?……もしかして!」
遠くで誰かの叫び声が聞こえた瞬間、ドアの隙間・天井から水が傾れ込んできた。
予感は当たった。
「マレ」
マレを呼ぶとおろおろと俺を見つめる。何が起こっているのかさっぱりなのだろう。
「お迎えだ」
大きな地震の後には、津波が来ると聞いたことがある。
幸か不幸かこの研究所は海の近くだ。拉げたドアをこじ開け、天井から傾れ込んでくるあの独特の色の水は海の水に違いない。ざぁざぁと音を立てて滝のように落ちてくる。
「良かったな……帰れるぞ」
もう海水は座っている俺の首辺りまで来ていた。
(――まだ安心は出来ない。)
これで水が止まってしまっては意味が無い。ここを押し流すほどの水が無くては。
ふと目の端にマレ達を入れていたパックが入る。
「あれだ」
俺はそれを拾い上げると海水を溜め、マレに中に入るように告げた。
マレは察したのか素直に入り、全て納めると口を閉じる。
それを水に浮かべながら掴むと、海水によってこじ開けられたドアの隙間から研究室を出た。
流れ込んでくる水は立っていても肩辺りまで来ている。
ここまで水が来れば大丈夫だとは思うが、研究所を出るまでは安心できない。
息が荒くなり、悪寒ともいえるだるさが身体を包み始める。
(……汚染された環境に接し過ぎたか。)
眩む思考を瞬きで追い払い、重い水を掻きわけて進む。
マレを……海に、返してやらなければ。
外部に接する研究所の最後のドアの前に来た時には、足がつかないほどまでに水が来ていた。
半壊していても、まだどうにか機能しているこのドアを開ければ、物凄い勢いで海水が傾れ込んでくるだろう。
(俺は助からない。)
津波で怖いのは流れに巻き込まれる事と、流れてくる物体に接触するという事らしい。
俺には両者とも凌ぐ自信はないし、そもそもこれだけ汚染された環境に接して後遺症が残らない筈が無い。
急に咳き込んで、口を覆う。
「ごほっ、ごほっ……ゴボ……ッ!!」
べっとりと手の平についた血液に驚いたが、小さく笑って済ませた。
別に良い。マレを返せるならば――……。
「マレ、お前の海だ」
手に付着した血液を海水で流し、マレの入っていたパックを開けた。
するりと海水にマレが潜る。
くるりとその場で一回転すると、俺の首に腕を回して抱きついて来た。
「マレ」
うん?というようにマレが小首を傾げる。
その唇に最期のキスを落す。
「さよなら、だ」
そう言って、半壊していたドアを全開にした。
どっと水が傾れ込んでくる。
その勢いの中マレを押し出して、俺は流れに巻き込まれた。
水で霞む視界の中、俺は愛しい人魚の事だけを思った。
(――どうか、無事で……幸せに……。)