「サラン」
柱の後ろの影がびくっと動くと、そろそろ顔を覗かせた。
まだ寝癖がついている髪を手を伸ばして撫でる。
「寝間着のままじゃねぇか。そんな恰好で歩いちゃダメだろ」
「…はい」
項垂れるのは多分寝間着姿である事を責められたからだけではないだろう。
漏れ出る笑みを押え切れずに抱き上げると、サランが首に抱きついてきた。
「…かか様、お出かけなさるのですか」
「ああ。ちょっと、な。行ってくる」
「…」
本当に聡い子だ。それが短い物では無い事をもう分かっている。
そしてその事で自分が駄々を捏ねれば俺が困るであろう事も。だから気持ちを吐き出さない様に一生懸命下唇を噛み締めているに違いない。
「…ごめんな」
そう囁いて髪を撫でればふるふるとサランの首が横に振られる。
「違う、かか様が謝る事なんて一つも無いんです。…お仕事なんでしょう?
……いってらっしゃい、体にはお気をつけて」
そう言って身体を離し、笑みを浮かべて送り出す言葉を言ってくれる姿は健気以外の何物でもない。
そんな姿がいじらしくていじらしくて、腕の力が強くなるのは仕方のない事だ。
サランも一緒に連れていけたらとどんなに思う事か。
しかし自分も初めての土地にまだ幼い、それにこの国の王子であるこの子を連れて行くのは不安要素が多すぎる。きっとアギアに連れて行きたいと言っても同じ意見で首を縦には振らないだろう。
でもこの悲しそうな表情をさせたまま出掛けたくなんかは無いわけで。
どうにかその表情を晴らしたくて頭をフル回転させる。
「そうだ、サラン」
僅かに潤んだ茶色の瞳がこっちを見つめる。
「向こうで手紙を書くな」
「手紙…?」
「ああ。毎日、って訳には行かないかもしれねぇけど…。絶対書いてお前に送る。
…その、文が変だったり稚拙だったりするのは…勉強中だから目を瞑ってくれ」
「……はい…。はい、分かりました、かか様」
ふふっと小さくサランは笑って頷いてくれた。
僕もかか様にお手紙、書きますねと嬉しそうに頬を染めるサランにほっと胸を撫で下ろし、そして俺も嬉しくなる。
やっぱり笑顔を見て出掛けないとな。
「よっし…。サラン、お前何か欲しい物は無いか?土産買って帰って来るから」
「えっお土産ですか?」
「ああ。そうだ、珍しいお菓子があったら買って来るな。他にも綺麗な物とか…」
「俺は酒が良い」
そう後ろから聞こえたと思えば、するりと腰に腕が回され抱きしめられた。
「お前には聞いてねぇよ」
「ああ我が妃は冷たいな」
振り返らずにそう言えば、くくっと喉の奥で背中にくっ付いている物が笑う。
「赤の指は特殊な民族でも無く複雑な仕来りも無い。四つの土地の中で一番農作が行われていてな、広大な畑というのは中々見応えがあるぞ。今時期ならばナジュの穂が垂れている頃だろう。
初めての旅には向いている。…楽しんで来るが良い」
「…ありがとよ」
前に回された腕をぽんぽんと軽く叩く。
たかが一年しかいないというのに、見聞を広める為というこの旅をこいつは止めない。
むしろこうやって後押しをしてくれる。
一年と言えど俺は王の隣の座についている訳で、そんな地位の者が外で恥を晒せば自分の名前にも傷がつくというのを賢王であるこいつが分かっていない訳が無い。
それでもお前の好きなようにすれば良いとこいつは笑う。
そこには多少なりの俺への信頼があるからだ。
その信頼が嬉しい。
「ナオ」
「ん?」
「餞別だ、持って行け」
サランを下して振り返れば目を細めたアギアに何かを手渡される。
見た目よりもずっしりとした皮袋に、
「…短剣?」
手の平で隠してしまえそうな大きさの、余り飾り気の無いまるでペンナイフの様な物。
「余りぶっそうな話は聞かないが…気を付けるに越した事は無いからな。まぁお守りの様な物だ。
後それは小遣いだ。ミオルが面倒を見てはくれると思うが、一文無しでは好きな物を好きな時に手に入れられるまい?」
ふふっと笑いを零すアギアに胸が締め付けられる程の感謝を抱く。
その衝動に突き動かされて、思わずまだ子供の姿のアギアの背に腕を回していた。
「何から何まで…すまないな」
「ふふ、これくらい当たり前だ。気にするな」
そう言ったアギアは俺の前髪を掻き上げると、額に唇を落とし
「レ・イギラ・ナロ・エ」
…気を付けて行って来い。といつもの口の端を上げる笑みを俺に向けた。
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