ふと、名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
耳を澄ますけれど、何も聞こえない。
当たり前だ。キッチンからイヴワールさんの部屋までどれだけあると思っているんだ。
イヴワールさんが怒鳴りでもしない限り、いやもしかしたら怒鳴っても聞こえないかもしれない。
でも歌を歌いに行かないといけないかと腰を上げた。
…いや、今日は歌はいらないかもしれない。
薄暗い廊下を歩いてイヴワールさんの部屋に向かう。
でも、俺が…歌いたい。
あの人のためだけに。歌えなくても良いあの人の…傍にいたい。
――俺、イヴワールさんの事が…。
背中に汗がじんわり滲むのを感じながら、イヴワールさんの部屋のドアを爪先でノックする。
「イヴワールさん…あの…」
体を上手く使ってドアノブを捻り、僅かに開いた隙間から
血の匂いがした。
「?!」
間違いようがない。
だってサーカスで、沢山の動物が死んでいく時に嗅いだ匂いだ。
孤児院で、サーカスで。人が俺に拳を振り上げた時に自分から香る匂いだ。
でも、それよりももっと濃い。
慌てて体ごと部屋の中に飛び込んで、絶句した。
白いシーツに真っ赤な花弁が散っている。
しかしそれを頭の中にいる冷静な自分が即座に打ち消した。
――違うあれは血だ。
誰の?! ――イヴワールさんの。
何で!? ――それは分からない。
分かることは、――彼は今死にかけている事。
――――俺、イヴワールさんの事が
…好きだって、気づけたのに。
心が絶叫する。
足元から世界が崩れていく。心もバラバラに
バ
ラ
バ
ラ
に
「嫌だあああああぁああああああああ!!!!!!」
絶叫してイヴワールさんに駆け寄った。
「イヴワールさん!!!!イヴワールさんっ!!!!!何が!!!何が…っ!!!!」
「ゴルジ、ュ…良かった…」
嬉しそうにイヴワールさんの手が俺の服を掴む。
「一人、ぼっちで…逝くのか、と…思った…」
「あ、あ、ああ、あ…!」
鮮血がイヴワールさんが喋る度に口の端から零れた。
俺は何も、何も意味が分からずに、意味不明な言葉だけ口から洩れる。
「どう、して!どうして…!!!??」
「病気…母さんと、同じの…」
その言葉に息が止まる。
イヴワールさんのお母さん。
「…遺伝、だよ…」
全く、たまったもんじゃないよねとイヴワールさんは息も絶え絶えに苦笑した。
まって、お父さんも同じ病気で死んだと言ってなかったか。
「母さんは、一族の、人だった…からね」
唾液を飲みこみ飲みこみ語るイヴワールさんは僅かに眉を顰めた。
「気持ち…悪い、味……ね、ゴルジュ…」
口直し、欲しいな…とイヴワールさんが俺の唇を血で濡れた手で触った。
どうして俺の両手は無いの。どうして彼の手を握れないの。
何で。何でこんな時に涙が出てこない。
「…キス、して……」
「イヴワールさん…!!!!」
「キス、して……歌って……ねぇ、ジュエって…呼んで…」
俺は奥歯が砕けそうなほど噛みしめると立ち上がった。
「どこ、いくの…」
「医者を呼んできます!!!」
「…ダメ」
がしりと服をイヴワールさんが掴む。
「無理、だよ…これは…治らない。どんなに、お金があっても…ね。医者も、進行に気付けない、病…だから…」
「そんなの、わかんない!」
「わかる、よ…」
イヴワールさんの指の力は強く、一体どこにそんな力が残っているのかと問いたくなるほどだった。
「離してください!…っ離せ!」
「…ダーメ」
「医者、医者を呼んできますから!!」
「…ここに居てよ」
唇から零れる血はまるで口紅の様だ。
口から血を吐きながらも彼は美しい。
ああ、なんで。なんで。
「…自分の、身体の事くらい…わかってるよ。…だから、最期まで。ここに…傍に居てってば…」
「そんなの嫌だ!」
俺の即座の拒絶に蒼の瞳が罅割れた。
そうじゃない。そうじゃない。
「最期になんてさせない…!」
俺は絶叫すると、渾身の力を込めてイヴワールさんの指を解いた。
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