静寂が広がる広間に鹿威しの高く澄んだ音色が響く。
生け終わった花から手を離し、目の前の人を見上げる。


「上手じゃないか、白。また上手くなった」


にこやかに、嬉しそうに話すその人とこの広間に二人きり。
俺からこの屋敷に来たのは初めてで、訪ねたいと連絡を入れた時はそれはもう驚いていた。

…青葉も今日屋敷にいるらしい。
その事も確認済みで、むしろいるからこそ今日を選んだ。


「嬉しい事だ。白からこっちに来てくれるなんて。
ここは何も遊ぶ物が無いからね、来るのがつまらないと思っているのではと心配していたんだ」

「爺様…」

「なんだい、白」


手の震えを抑え、真っ直ぐ祖父を見つめる。


「…私…いや、俺は、誰ですか」

「…?白、だろう?」


少し困惑した表情で、でも笑みを崩さない祖父。


「俺は、その呼ばれ方が嫌なんです」


顔を上げると、困惑と驚きが混じった表情を浮かべている。


「俺は、着物の色は白緑よりも鶯のほうが好きです。
春よりも秋が好きです。
南瓜の煮つけはあんまり好きじゃなくて、青魚の塩焼きは嫌いじゃないです。
俺は……母さんが好きだったものが必ず好きなわけじゃなくて、母さんが嫌いだった物が必ず嫌いなわけじゃない。
…俺は………母さんじゃありません…!」


最後は振り絞る様に言い切り、袂に手を突っ込んでバタフライナイフを取り出す。
それを見てぎょっと目を見開く爺様を横目に、結ってあった髪の房に刃を当てると

一気に切り取った。

短くなった髪がばさりと重力に従って落ちる。
髪を握りめて爺様を見つめた。
「俺は、古醐宮 紫白じゃないんです。笹西 真白なんです。
貴方の娘じゃない。孫です。それに気づいて欲しい…。もう、俺に誰も重ねないで。俺を見て…っ」

段々涙声混じりになる声で訴える。
青葉に抱かれるのと同じくらい。いや、もしかしたらそれ以上に嫌だった母の影を重ねられる事。
俺はここに居るのに、見てくれない。
自分の祖父に、優しくしてくれる祖父に、見てもらえない。
それが辛かった。

目を見張る祖父の顔が苦しげに歪められた。


「…そう、だな…。そうだ。もう、あの子は還ってこない。分かっていたのだけどな…」


震える皺の寄った大きな手の平で額と目を隠す。


「…君は本当にあの子にそっくりなんだよ、表情の作り方もどこか似ているんだ。
だから、あの子の好きな色の服を着させて、似た髪型にしていると、ふとした瞬間紫白そのもののに見えて…。
…結婚を報告しに来た場で、酷い喧嘩をしたのが最後に交わした言葉だったんだよ。
相手の男に圧力を掛けても良いんだぞなんて醜い事を言った。
それでも良い。ならば自分も一緒に苦労するといった娘に初めて手を上げたよ。
…後悔しているんだよ。
なんであんなことを言ってしまったのだろうと。
…だから、君を見た時、やり直せると思った。

そう思った事も、間違えていたのかもしれないな…」


手の平を外すと、急に老けたような祖父の顔が露わになった。
そのどこかごっそりと何か抜け落ちてしまったような表情に無意識に唾を飲み下す。


「辛かったんだね、ここに来る事も、私の顔を見るのも。…君は私の事を嫌いになっただろうか」

「……辛かったです。でも、爺様の事を嫌いになったりはしていません」

「…そうか」


祖父は次は両手で顔を覆うと、深々と溜息を吐く。


「……。君は、どうしたい?もうこの屋敷に来たくないという事なのかい」

「……昔、爺様は俺に言いましたよね」


――私の後はお前のお母さんが継ぐはずだった。
紫白はそれを放棄して、この家を出て結婚をしたけれど、いずれはその息子のお前が継いでいたかもしれない。
…本当の所、紫白とお前のお父さんに後を継いで欲しかったんだよ。
……どうだろう、白。跡継ぎになれとは言わない。でも、私の屋敷に時々来てくれないか。
お父さんの代わりに…―――


「どうか、俺の代わりに父さんを呼ぶことだけは止めてください。
父さんは、今の仕事に誇りを持っています。それから引き離す事だけは止めてください…!」


じっとりと背中に汗を掻く。
君がここに来ないんだったら、そうするしかないと言われそうで怖い。
深々と頭を下げたまま動かずにいると、自嘲気味な笑い声が耳に入ってきた。


「…私は、そんな事を幼い君に言ったのかい…」

「……え?」


忘れていたよ。という言葉に茫然と顔を上げた俺に悲しそうな笑みを向ける。


「…あの時、私は嬉しくて嬉しくて堪らなかったんだ。
娘の生まれ変わりみたいな君に出会えて。
本当は親権を奪ってでも、君と一緒にいたいと思ったんだよ。
そんな事は容易い。…でも、あの時の後悔でそうできなかった。
だから、そんな脅すような事を言ってまで……」


顔をくしゃくしゃに歪めた祖父は、涙を流していないのが不思議なくらい悲しげだった。


「すまない。君は本当に長い間苦しかっただろう…私の事を恨んでいるだろうね…」

「……」


恨んでいないと言えば嘘になる。
でも、それよりも祖父の気持ちがひしひしと伝わってきて、どうしても恨めない。


「俺、爺様の優しい気持ちが嬉しかった。
でも、俺の為じゃなくて、母さんの為なのが辛くて…」


俺…もうここには来ません。

そう口にすると、爺様はショックを受けたような顔をしたが、微かに笑みを浮かべた。


「そう、だね…元気で」

「でも」


がばりと顔を上げる。


「『古醐宮 真白』としてここにはもう来ないけど、『笹西 真白』として…貴方の孫としてここに来ても良いですか」


前みたいに頻繁には来ないかもしれないけど、いつか必ず…。

その言葉に目を見開いた後、花が綻ぶ様な笑顔が祖父に浮かぶ。
その時目尻を涙が一筋流れた様に思えたが、ちゃんと見えなかった。


「…ああ、是非来ておくれ……待っているよ、真白…」







襖を開けて出て行った孫の背中を見送ると、残った彼が生けた作品に目を向ける。


「……紫白とは違うよなぁ」


作風も、選ぶ花も娘とは違う。
それに気付けなかったわけではない。
でも、それに気づきたくなかった。


「…紫白に怒られてしまうな…」


苦笑を浮かべて、白い百合を手に取る。
彼の名前を呼んだ時、彼はあんなに生き生きとした表情をした。

彼は私の目を覚ましてくれた。
それは心地良い夢ではあったが、所詮偽り。
いつかは覚めなければいけなかった。

でも覚めた先に何も無いわけではなく、彼が優しい贈り物をしてくれた。
夢から覚めても、寂しくない様に。


「…またおいで、可愛い私の孫…」




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