何か大切な物を失ってしまったような俺に、残りの時間はあっという間だった。
もちろんその間青葉に抱かれ続けたのだが、前の様な嫌悪感さえ感じなくなっていた。
祖父に世話になったと頭を下げ「また来てくれるかい?」という言葉に笑顔で返事をして、家に帰ると父さんがキッチンにエプロン姿で立っていた。
「ああ、真白お帰り!泉くんは元気だったかい?」
振り返りながら微笑む父さん。
その笑顔を守れたんだと思うだけで何時も十分だった。
「うん、これで今回のテストも赤点は逃れられるね」
「そうか、良かったなぁ」
「父さんこそ仕事は大丈夫?そこそこ有名な雑誌に載ってから忙しいって言ってたじゃんか?」
「ああ、確かにそうだけどやりがいが十分にあるからね。大丈夫だよ」
「そっか」
「だからまたちょっと家に帰れないんだけど…大丈夫かい?」
「大丈夫だよ」
十分だった。
守れたのだから…。
でも今回は違う。
父さんは守れた、でも代わりに大きな物を無くしてしまった――…。
それと父さん、どちらが大切だったのだろうか。
考えれば考える程、まるで水をそのまま秤に掛けているようで、どちらが自分の中で大きな存在なんかなんて分かるわけがなかった。
「父さん、俺泉ん家に忘れものして来たから取りに帰るわ…」
「ん?そうか、じゃあ夕飯待ってる…」
「いいよ、多分泉ん家でごちそうになっちゃうと思うから、先に食べてて」
「そうか…」
「ごめん、久しぶりなのに」
「いやいやいいよ、いってらっしゃい」
「うん」
この家に今は居たくなくて、父さんの顔を見たくなくて、俺は嘘をついて日の沈んだ外に出て行った。
『父さんがいるからね』
いつも父さんはそう言って手を握り、笑ってくれた。
母さんがいない事で寂しくならないようにと気を配ってくれる父さん。
弁当持参の授業の時には朝早くから起きて弁当を作ってくれた。
参観日だって、運動会だって、来てくれなかった事はなかった。
『うん』
そんな父さんが大好きで、大好きで、そう言われる度に俺は父さんの手を握り笑い返した
『おとうさん…のどかわい………!』
だから父さんが人知れず泣いているのを見た時、雷が落ちたように感じた。
寝苦しくて水を飲もうと1階に下りた夜。
父さんは仏壇に向かって座り、声を押し殺して泣いていた。
それでも時折漏れだす嗚咽に俺はその場から動けなかった。
『……うっ……う、う…っ、紫白…っ紫白…』
嗚咽に父さんが母さんの名前を呼ぶ声が混じって聞こえた瞬間俺は思ったんだ。
俺が生まれなかったら母さんは死ななかったのに…と。
母さんの死亡理由は出産による出血多量。
その頃そんな事は知らなかったけど、俺の所為でという事はなんとなくわかっていた。
俺の所為で父さんは泣いているんだ。
俺にまだ気づいていなかった父さんに気付かれないようにそっと足を忍ばせて2階に上がりながら俺は心の中で父さんに謝った。
――お父さん、ごめんなさい。
おれのせいでお母さんが死んじゃって、ごめんなさい。
おれがどんなに頑張ってもお母さんは帰って来ないけど、お母さんいがいの事でお父さんが悲しむ事はないように、おれ、頑張るから。
りょうりも、べんきょうも、なんでも、ぜんぶ。
だからもう、泣かないで。
おれのことで泣かないで。
「おれがいる」所為で泣かないで―――
何歳の頃か思い出せない。
でもその夜の父さんの涙と俺の誓いは鮮烈に記憶に残っている。
だから決めたんだ。
俺が頑張って父さんが泣かないで済むなら俺は頑張ろうと。
頑張れる、と思ってたんだ。
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