黒曜石の過去F 

道を外れ、せせらぎの音を頼りに歩を進めるとすぐに泉に出た。
泉の上は木々が無い為にぽっかりと空が開けていて、月光が水面を照らしている。
松明の火が広がらない様に地面に突き刺すと、水面に顔を突っ込むようにして水を飲み始めた。
山の奥から溢れる冷たく澄んだ水は喉を潤し、思っていたよりも喉が渇いていたのだと改めて認識する。
犬が慌てて水を飲む時の様なみっともない音を鳴らし、渇きが収まると漸く顔を上げた。

濡れた口周りを袖で拭い、空を仰ぐ。
黄味を帯びた月だというのに降り注ぐ月光は青白い。
水面に目を移せば、驚くほど澄んでいる事に今更気が付いた。
どうりで美味しかった訳だと納得し、暫くその透明さに魅入る。
山のひび割れから湧き出しているというのはどうやら嘘では無いようだ。
歪な形をしている泉の中央には、この水の透明さでも底が見えない程深く大きな亀裂が入っていた。

きっと真夏でもここの水は冷たいに違いないが、水浴びをするには危なさ過ぎる場所の様に思える。
そんな事を考えていた時、ふと亀裂の奥で何かが光る物が目に移った。

奥の方でぼんやりと光る、帯の様な物。
水中で過ごす羽虫の様な物か、もしくは水底に沈んだ何かが月の光を反射しているのかと最初は思った。
が、羽虫にしてはそれは長すぎて、物にしてはゆらゆらと身をくねらせている様に見える。
そう、まるであれは――蛇。
そこまで考えてふと、ある事に気付いた

月光さえも届かない深くなのに、視確出来る程の大きさという事は一体あれはどれほどの大きさなのだろうか、と。
もしかしなくても――とんでも無い大きさなのでは無いかと思った瞬間、水面が大きな音を立てて爆ぜた。

ドッと轟音を立てて太い水柱が立つのを、茫然として見上げる。
その水柱は一瞬月を隠し、大量の水をこちらに降り注ぎながら収まった。
…収まったはずなのに、水柱はずっと立ち続けていた。

いや、水柱と見紛う程大きな生き物が、そこにはいた。

――りゅ、う。

泉から身体を覗かせているのは日が昇っている内に一目でもと探し求めていた生き物だった。
話しに聞き、挿絵で見たのと全く同じでありながら、それ以上に恐ろしく猛々しい姿。
身をうねらせ月を仰いでいた水を纏った蒼い龍は頭を垂れると、ひたりと目を合わせて来た。

まるでこの泉の様に澄み切った瞳に見下ろされると、まるで見えない矢で射られたかの様に動けなかった。
龍の躰から滴る水が雨の様に降りかかる。

――綺麗、だ…。

蛇を連想させる長い身体に、透ける様な薄い鰭。
青鈍色の光を僅かに放っている様な蒼い鱗は伝う水で色を濃い青や薄い青と色を変え、龍は微動にしていないというのに鱗自体が蠢いている様に見えた。
啼きも吼えもせず、高みからじっと見つめるその眼差しの静寂さに魂さえも引き込まれそうな程見入る。

自分は死ぬのだろうか。

この猛々しい生き物に、殺されるのだろうか。
あの鋭く太い牙には自分の持っている剣など針以下だろう。

そもそも、抗う気すら起きなかった。
絶対的な王者。
目の前の生き物が自分とは比べものにならない程の存在だという事は、どんな動物でも分かるに違いない。
諦めというよりは、悟りだった。
夜の次には朝が来るように、春の次には夏が来るように。これがあるべき姿で、理なのだと。

ふっと身体の力を抜いて龍を見つめ返す。
恐怖は不思議と無かった。
視線が交わり、時が止まる。


――ルォオオオオオオオオォオオンンン――


突然、先程の静寂を打ち破る様に蒼い龍が空を仰いで咆哮した。
澄んではいるが、鼓膜が痛む程の音。
ザァアッと音に押されて辺りの草木が騒ぐ。

その咆哮の余韻が消えぬ内に龍はバッと背中の翼を開いた。
長い身を屈め、大の大人を一口で食えてしまいそうな顎を持つ顔を近づけて来る。
その時だった。
激しい爆音と共に、白い煙が辺りに立ち込め始めた。

それにハッとしたかの様に龍は一度首を擡げ掛けようとし――
その首に誰かが飛び乗ると、腕を振り上げた。









「止めろ!!」


自分の大声で意識が覚醒する。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなり、荒い息を吐きながら身を起こした。
全身にびっしょりと掻いている汗で寝間着が張り付いて気持ち悪い。


「夢、か…」


夢は見ない方だ。特に狩りを行った日の夜などはストンと眠りの中に落ちて行く…はずなのだが。

溜息を吐いて顔を擦った。
とても。とても懐かしい記憶だった。
自分を売った母、育ての親、出会った老人、そしてあの龍。
途切れた夢の後を無意識のうちに辿る。


――振り上げた腕を止める言葉を、あの時自分は口に出来なかった。
一瞬の内に龍の左目には深々と剣が突き刺さり、さっきのとは全く違う苦痛の咆哮が辺りに響いた。
目の前を朱が散り、茫然としていると目を突き刺した人物が飛び降りて俺の肩を掴んだ。

『何をぼさっとしている!逃げるぞ!』

それは今まで見た事の無い必死の形相をした、ウォーレンだった。
苦悶にのた打ち回っているのか白い煙で辺りが良く見えない中、水がまるで豪雨の様に降り注ぎ、ウォーレンは舌打ちをしながら茫然としている俺を引きずってその場を後にした。

ウォーレンがその場に駆け付けたのは、帰って来ない事を不安に思ったレント老人が俺の行先を教えたから。
そして、先程の咆哮が龍の物だと分かったから。
家に帰るなり俺はウォーレンに殴り飛ばされ、そして長い説教を受けた。
朝日が昇る頃、ぐったりと椅子に座ったウォーレンはポツリと零していた。

龍にあんなにも簡単に一矢いれる事が出来たのは奇跡だと。
本来ならば警戒心の強い彼らに近寄る事すら出来ない筈だと。
それが出来たのは多分、目の前の獲物に――お前に意識を奪われていたからだろう。
しかし、一か八か、分の悪い賭けだった…――と。

苦々しげにそう言ったウォーレンは、まるで俺を助けた自分自身に理解が出来ない様に見えた。



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