黒曜石の過去 


「母、さん…?」


俺は自分の腕を掴む見知らぬ男の顔を見上げ、そして後ろにいる母を振り返った。
この男は誰だろう。何故母は泣いているのだろう。…どうして俺と目を合わせようとしないのだろう。

汚れたスカートの前掛けで涙を拭う母親に男は近づくと何かを握らせた。
分厚く大きな男の手の平から、皸と乾燥でささくれた母の手に零れ落ちたのはこの地域では滅多にお目に掛かる事など無い金色の輝き――150レイ金貨。
それが3枚も母の手に渡され、母はそれを受け取るとまるで俺の目からそれを隠す様に慌てて胸元に入れ…そして再び押し殺す様に咽び泣き始めた。
男が再度俺の腕を痛いくらいに握り、物の様に引き摺りながら歩き始めた時には俺は状況を把握していた。

ああ、自分は売られたのだと。


一枚の木の板に穴が二つくり抜かれた手枷で両手を一括りにされ、足には鉄の枷が嵌められた。
足の方は一括りでは無く間を肩幅程の鎖で繋がれていたので歩く事は出来るが、余り自由は利かない。
着ていた服は剥がされ、薄汚い袋の様な服を着せられたが、元から身に着けていた物とさほど変わらない気がした。

全部終わると引き摺られながら馬車に放り込まれた。
中は薄暗く、自分と同じ格好をした近い年頃の子供が沢山いた。
汗や体臭やらが混じった饐えた臭いが鼻を突き、僅かに顔を顰める。
すすり泣く子供の横に無言で座ると、その子は更に泣き声を大きくした。年頃は自分より1つ2つ下だろうか。


「おか…お母さん、おかぁさぁん…っ!!」


何度も何度も母を呼びながらしゃくり上げる。

自分も同じ様に泣ければ良かった。
でも泣く以前にショックが強すぎて、ただ茫然と周りを把握する事しか出来なかったのだ。

俺は7人兄妹の5番目で、上には兄が二人、姉が二人、下には妹と弟がいた。
母はそんな俺達を女手一つで育てていて…とても苦しい生活だった。食事は一日二食で、毎回食べ物の奪い合いだった。それでもずっと一緒に生活を出来ると思ったのに。
何よりも自分が売られた事が一番ショックだった。
他にも兄妹がいるのに、何故自分が。


「や、だ…っやだよぉおかぁさん…!おかぁさぁん…!!う、うぁああああん…!!!」

「…うるせーな」


大声を上げて泣き始めた隣の子供にその隣の子供がそう吐き捨てた。


「うぐっ、ひぐっだ、だって…っ」

「泣いたってなんも変わりゃしねーよ。…俺らは売られたんだ。ドレイの焼き印押されて、市場に出されんだよ」

「う、ふぇっうぇええええん!!」

「だからうるせぇって言ってんだろ!」


そうがなり立てるその子供の声も震えていた。


「俺らはいらない子供なんだよ!兄さんみたいに金を稼ぐ事も出来ない、姉さんみたいに家事の手伝いも出来ない、妹や弟はまだ売れる様な歳じゃねえから…っ俺が一番役に立たねぇから売られたんだよ!」


『いらない子供』。

その言葉が胸に突き刺さって抜けなくなった。
母さんはどんな想いで俺を手放したのだろう。あの涙は俺への謝罪だったんだろうか。
150レイ金貨3枚。あれで妹たちは死ぬこと無く今年の冬を越せるだろう。姉さんは皸た指につける薬が手に入るかもしれない。兄さんは手袋の一つくらい買えるかもしれない。今年の終わりの聖夜には久しぶりに暖炉に火が灯るだろう。
でも俺は?売られた俺には何がある?何が手に入る?

じっと手に嵌められた枷を見つめた。
何人もの子供にこれが嵌められてきたのだろう。くすみ、汗や色々な物を吸い込んだ枷。
それを振り上げると足に嵌められている鉄の枷の縁に勢い良く叩きつける。
一瞬足に痺れが走るが、木目を狙ったのと木目が良かったおかげでパカン!と小気味良いくらい綺麗に割れた。
それを見て周りの子供達がぎょっと目を見張る。


「な、何して…っ」

「逃げる」


家族に愛情はある。
でも自分に降りかかるであろう困難と、その上に成り立つ幸せを考えたらそんな物、簡単に消え去った。
それが他でも無い家族の手によっての物なら、猶更。


「大人しく売られたままなんて出来るもんか」


荷台の方に見張りがいないのが良かった。
走り続ける馬車の後ろにある薄汚いドアに近寄り、鍵を確かめる。
太い鎖と頑丈そうな錠にこれを開けるのは無理かと目線を上げ、ドアに窓代わりについている鉄格子に目を止めた。
大人は無理だろうが、子供ならばぎりぎり出られるくらいの空間。
錆びている事と接合部を確認した後、さっき外した手枷の角で四隅を思い切り叩く。
鉄と木の為余り音はしなかったが、ミシリという手応えを感じ、最後に真ん中を引っ掴んで引っ張れば格子が外れた。
子供達が目を見張り、息を呑む。


「お、お前どこでそんな…」

「………死んだ父さんに、良くぶん殴られて納屋の中に閉じ込められたから」


明日の食べ物さえままならないのに、母さんを殴っては金をむしり取り、酒を浴びる程飲んでは子供を殴っていた父親。
その手から俺を守ってくれた母を思い出しても愛情などもう湧いてこなかった。


「俺は逃げる。お前達も逃げたいのなら好きにすれば良い。ただ馬車は走り続けているから下手をすれば怪我するかもしれないけどな」


そう言うとドアにぽっかりと開いた四角に手を掛けて、ガラガラと進み続ける馬車から飛び降りた。

過ぎてゆく地面に転がる事で勢いを逃がし、直ぐに体勢を起こして脇の茂みへと入る。
馬車は森の中を過ぎようとしていたようで夜の闇の中、鬱蒼とした木々が無表情で俺を迎えた。
そのまま過ぎてくれればよかった物を、子供を詰めて思った以上に速くは走っていなかった馬車から「おい、今何か落ちる様な音がしなかったか?」という言葉が聴こえて来て小さく舌打ちをする。
見つかるのは時間の問題かと踵を返した俺の視界の端に他の子供が格子を外した窓から出て来るのが映る。その後ろからまたもう一人。
これで注意が分散されるが、そんな物頭数を数えれば直ぐに分かるだろう。
茂みを掻き分け走るが、何しろ足の間を肩幅くらいの鎖で繋がれていて全力では走れない。それにただでさえ闇で動きにくいのに勝手の知らぬ森が行く手を阻む。
いつの間にか「おい、見つけたか!」という声がかなり近くに来ていた。

捕まれば何をされるか分からない。
折檻をされそのまま売られるだけならまだしも、他の見せしめとして殺されるやもしれない。
恐怖で視界は曇り、息は荒くなる。
そんな俺の行く手を何かが突然遮った。



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