怒声とも、絶叫とも区別のつかない大声は空気をびりびりと震わせ、見えない衝撃に体が後ろに吹き飛ばされた。
受け身も取れず、後ろの部屋の障子戸にぶつかる、とぎゅっと目を瞑り身体を強張らせる。
が、それをふわりと誰かに受け止められて恐る恐る目を開いた。
「…!珠誉さん…!」
「…百舌が今宵は来るなと言わなかったか」
静かな声音の中に呆れが感じられて申し訳なくなる。
両腕に抱えられているようで、首を擡げて顔を窺えば闇の中で珠誉さんの瞳だけがぼんやりと光っていて、思わずそれに見入ってしまった。
「ヒサ殿…!」
「ヒサ…!」
この状況もそっちのけでその瞳を眺めていると、高い声と共に山茶と雪風が縋りつくように飛びついて来た。
「申し訳ありません、まさかあの様な反応をするとはついぞ思わず…!」
「すまん、ヒサ。間に合わなかった…っ」
声を合わせて泣きつかんばかりに誤ってくる二人に苦笑を零して頭を撫でてやる。
「大丈夫だよ、珠誉さんが受け止めてくれたから。ほら、怪我一つしてないから、ね?って、あ、珠誉さん、ありがとうございます…!」
「狐の。お前達の主だろう、目は離すべきでは無い」
「真に申し訳ありません」
「…すまん。鬼の、感謝する」
二人を宥めながら、そういえば珠誉さんにまだお礼をしていなかったと慌てて礼を口にしたが、見事なまでにスルーされてしまった。
余りに綺麗な流されっぷりに思わず、あれ?今俺喋ったよね?と声を出した事を自分でも疑ってしまうくらいだ。
「…もはや恐慌状態で声も届かない」
珠誉さんのその言葉に我に返り、目線を辿って目を見開く。
部屋の隅。
暗闇とは違うドロドロとした闇を発するその中心に、何かが蹲っている。
夜目が効くのとは何かが違うが、今の自分には蹲っているそれが良く見えた。
頭を抱える形で震える人間の姿。
けれどそれは人の形はしていても、纏っている衣から剥き出しの腕や、足、手の平と、至る所にぎょろりと人の目が開いていた。
「あれが――…」
彼の、遠百さんの、本当の姿。
「力が暴走しているな。百目はそれ程強くないが、あれ程我を失っていると少し厄介だ」
「私たちでは五分と言ったところでしょう。百舌殿――…は、ご不在ですか。…鬼殿、申し訳ないですが、頼めますか」
「…」
無言を返した珠誉さんは、俺を支えていた手を外すと右腕だけ着物の袖を捲った。
びしり、と右腕から音がしたかと思うと血管が浮き出、肌も作りも同じなのに人間と比べてどこか硬く尖った造りへと変化していく。
猛禽を思わせる鋭い爪をもった指を鳴らして、鬼の物へと完全に変わった手を構える珠誉さんに慌ててどうするつもりなのかと聞いた。
「…力をぶつけ、相殺する。気を失えば荒れは収まる」
「え!で、でもそんな事して遠百さんは…」
「死なずとも…無傷では済まないでしょう」
珠誉さんの言葉にぎょっとすれば、風雪が応えてくれる。
そんな、怪我をするかもしれないなんて、そんな。
「だ、ダメだよ…!そんな、俺が来たせいでもあるんだよね?そんな…」
「そうも言っておれん。あの状態が続くのはあやつ自身にも悪いのだ、ヒサ」
「でも、あんなに…」
怨嗟を吐くように見るな、見るなと呟き、呻き続ける遠百さんを見ていると焦りで気持ちが急く。
どうしよう、どうすれば、早くしなければ、と思うと同時に頭の芯が熱くなるような感覚がした。
あんなに苦しんでいるのに。
あんなに怖がっているのに。
それをあれ以上傷つけるの?
―――――――――“受け入れなければ”
「だめ」
「ヒサ…?」
「駄目です、珠誉さん。手を下ろしてください」
「…」
無言でそれを拒否した珠誉さんの腕を掴むと、驚いた表情で珠誉さんがこちらを見た。
「な…」
「…手は出さないで。俺が鎮めるから」
さっきまで熱かった頭の芯は熱を失い、その代り驚くほど冴えている。
急いていた心もシン、と静まり返っていた。
「ヒ、サ…?」
「ヒサ、殿…?」
「二人は、そのままでね」
疑問の声を上げる二人にそう声を掛け、立ち上がって遠百さんの方へと足を進める。
「ヒサ…!」
「ヒサ殿、危ないです、戻って下さ…!」
「大丈夫。静かにしてて」
そう口にすると、何故か二人ともそれ以上声を上げる気配は無かった。
『見るな、見るな、見るな…!!!!!』
ある瞳は血走りぎょろぎょろと動き、ある瞳はぎゅっと瞑られていて、ある瞳は泣いていて。
違う動きをしていても、全て同じく恐怖に彩られていた。
「遠百さん…」
近づいてそっと声を掛けた瞬間、遠百さんの身体中に散らばる瞳が一斉に強張るのが分かった。
『見るな!!!!!! いやだ、見るな、俺を、見るな―――――!!!!!!』
考えるよりも先に、動いていた。
絶叫した遠百さんの傍に膝を折り、その頭と背を抱え込む。
『大丈夫、俺が受け入れる』
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